【アニメ考察】二人の世界を作り上げる_天気・東屋・言葉―『言の葉の庭』

ⒸMakoto Shinkai / CoMix Wave Films

 

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●スタッフ
原作・脚本・監督:新海誠作画監督・キャラクターデザイン:土屋堅一/美術監督:滝口比呂志/音楽:柏大輔

制作会社:コミックス・ウェーブ・フィルム

●キャラクター&キャスト
秋月孝雄:入野自由/雪野百香里:花澤香菜/タカオの母:平野文/孝雄の兄:前田剛/孝雄の兄の彼女:寺崎裕香/松本:井上優/佐藤:潘めぐみ

公式サイト:言の葉の庭 (kotonohanoniwa.jp)
公式Twitter新海作品PRスタッフ (@shinkai_works) / Twitter

 

 

※この考察はネタバレを含みます。

 

概要

 六月の梅雨の時期に見たい作品の一つに、『言の葉の庭』が挙がるだろう。雨が扱われているだけではなく、日本特有の梅雨が、ストーリーのフックとなり、映像を彩る主役ともなる。じめじめとした梅雨の時期、梅雨が明け迎える、刺すような夏の陽気など、この時期は季節に対してネガティブになりがちである。だが、新海誠の手によって、ネガティブな感情を伴う季節が様変わりさせられる。彼の美的な映像を堪能した後、現実の眼前に広がる光景が目新しく映る。ということで、梅雨のネガティブな気分を塗り替えるような、今回は新海誠監督の『言の葉の庭』を取り上げたい。

 

言の葉の庭』と新海誠の持ち味

 新海と言えば、美術・撮影セクションに力を入れ、豪華に美麗に作りこまれた映像が有名である。描かれる対象も個性的で、雨や雪などの気象現象や木々や桜などの自然環境、それに学校や高層ビルなどの人工物(社会環境)が選ばれている。彼の眼で見られた現実が、彼らの采配によって、写実的だが超リアルな美をもって観客に迫ってくる。こういった新海像は目新しいものではなく、今や大人気監督となった新海の通説的理解と言えるのではないだろうか。

 この通説的理解から引き出せるのは、彼の作る作品において、人物や人物が織りなす物語はもちろんだが、それと同等、あるいはそれ以上に人物が生活する環境や背景の印象が強いということだ。ただ、これは通説的理解から単純な推論に過ぎない。だが、こう言ってみてはどうだろうか。新海作品において、人物・物語と同等、あるいは同等以上に背景や環境が重要である、と。新海作品にとって、背景や環境が印象的であるから、新海作品にとって背景や環境が重要である、という推論はもっともらしいが、一足跳びの飛躍がある。印象的であることから、重要であるは単純に引き出すことができない。それゆえ、飛び地が埋められなければ、重要であるとは言えない。

 そこで、本ブログでは、『言の葉の庭』を題材に、この埋め立て作業を行っていく。『言の葉の庭』は、新海作品の中でも、特に密接かつ端的に、背景・環境状況と主人公たちの物語が結びついていると思われる。そのため、ボーイミーツガールプラス美麗な映像という粗い指摘ではなく、両者が不可分の関係性を築いている点を指摘することで、印象的な背景・環境も本作にとって重要であると言いたい

 そのために、まず、新海作品にとって背景・環境の描写が美麗であり、印象的であるという主観的(あるいは、願わくば間主観的)な感触は見失わないようにする。探究の指針となるのは、上記した感触とともに、『言の葉の庭』の中で孝雄と雪野が織りなす物語である。二人の物語と特に注目したい背景・環境の密接な相互関係を引き出すことができれば、『言の葉の庭』にとって背景・環境の描写は、彼らの物語を彩るだけの装飾ではなく、何かを伝える表現として位置づけられ、そうして初めて背景・環境は重要である、と言うことができる。

 

天気と二人の物語

 新海作品の映像には、美が宿る。アニメならではの、ファンタジーチックな世界や夢想的な世界よりも、彼の作品には同時代的な現実世界が選択される。それも、いくらかその世界の美を誇張的に描いていようが、あくまでもそうした世界を写実的なタッチでとらえる。背景の書き込みやその場で書かれるべきものの適切な選択、注意深く設計された色彩、人ではなく背景が中心と思わせる数々の構図、など彼の映像を構成する映像的要素は、画面の上で組み合わさり、折り重なることで、観客を驚嘆させる。

 『言の葉の庭』の舞台も、駅、新宿御苑、学校、孝雄と雪野それぞれの自宅、が中心的には舞台に出てくるのみで、観客もある程度の時間と労力をかければ、現実世界で見ることができるものだ。雨を落とす雲によってくすんだように暗い駅、雨の透明とコントラストを作る新宿御苑一面に広がる緑、生徒たちが歩くリノリウムの廊下、屋上から見える青い空、そしてものが所狭しに置かれた二人の自宅からにじみ出る生活感、そのどれもが新海作品、あるいは『言の葉の庭』の魅力だと画面が訴えかけてくる。

 このような背景の描写は、登場人物の孝雄と雪野が出会い、二人が歩く練習をしていた物語と呼応する。最も決定的なのが、彼らの逢瀬が天気に左右されるところにある。登場人物たちを取り巻く風景の一つである天気が、関係性が始まるきっかけになれば、逆に関係性の阻害にもなる。この点、インタビューで新海が話すように、「雨は3人目のキャラクターといっていいくらいウエイトが」ある*1。インタビューで語るように、雨の重要性は、本作が雨宿りの物語であり、人生の途中で立ち止まる象徴としての雨宿りが使われることに加えて、別の可能性も存在するように思う。二人がある制約の下でしか会うことができなかったこと、すなわち雨が降っているときしか会えなかった自然環境がもたらす制約と二人を追い込み、人生の途上で立ち止まらせる社会環境の制約は重なる制約として描かれた環境は、の表裏が描かれる。自然環境は、雨の憂鬱さ、あるいは孝雄が抱く雨への好感、逆に晴れ間の残酷なまでの眩さ、二人の関係性を照らす際の希望に満ちた輝きなど、雨と晴れは表裏両面に描かれる。また、社会環境の側で描かれるのは、生徒の嫌がらせにより学校に行けなくなった雪野、靴職人の夢を叶わないと嘲笑われる孝雄が、ともに疎外される者として幸福な出会いを果たす。

 二人の関係性が進展する二回目の逢瀬後、梅雨入り宣言が果たされ、新海お得意の音楽と映像によって、さらなる進展が軽やかに描かれていく。二人の関係は、後に二人が発言するように、人生の途中で立ち止まった彼らがもう一度進むための「歩く練習」だった。その二人の練習の場となったのが、新宿御苑に位置する屋根付きのベンチ(東屋)である。ここが、新海の得意とする、閉ざされた二人にとって親密な関係性を構築する場となる。そのため、二人にとってこの場所が重要であるだけではなく、作劇的にもこの場所は重要なものとなる。そして、この点について、新海の本領と言える撮影のセクションが躍動する。

 

歩行練習の場所

 上記したのは、どちらかと言えば、世界をどのように描くかという観点だった。それに加えて、新海作品にはもう一つ重要な特徴がある。世界をどのように撮るかである。そのことは『言の葉の庭』でも同様だ。本編中に絶えず利用される、被写界深度の深浅を利用したピントの表現はその代表例である。端的に被写界深度を浅く取り、遠景をぼかし、近景たる人物にフォーカスを当てる。孝雄と雪野出会いのシーンでは、被写界深度は絞られ、二人の顔にフォーカスを当てながら、画面にあえて木々を入れ込んでいる。雪野の場合は、柱と木々に雪野が挟まれる形になり、孝雄の場合は、孝雄の前面に木々が水平方向に流れている。また、被写界深度に関連して、画面上劇的な変化を生むピン送りも使用される。これらも映像内に、奥行きを持ち込んでくれる。

 さらに、撮影によって奥行きが付加される前にも、ショット選択の時点で、この雨宿りの場が強調される。このベンチは、劇中何度もロングショットで、まるで風景の添えもの、あるいは木々の隙間から覗き見る密会のように映されている。二人が逢瀬を重ねるこの場所の孤立性が見いだされる。また、この屋根付きベンチ(東屋)の屋根は、フレーム内にフレームを作るのみではなく、正面に映る二本に加えて奥の三本目が映ることによって、この屋根が覆う範囲を示している。二人にとって幸福な雨宿りの場は、実在する新宿御苑の東屋が私たちにとって確かに<在る>ように、本作の世界に立ち現れる。

 もちろん、こうした表現だけではなく、この場にいる二人に施された色彩設計やベンチ周辺を彩る新宿御苑の光景が、その場所一体を成立させている。そのおかげで、新宿御苑に位置するベンチも確かな実在性を獲得している。

 

パーソナルスペースに入って、言葉で通じる

 とはいえ、場が成立しても、二人の心が通うきっかけがなければ、二人の関係性が縮まるわけではない。その点特徴的なシーンを二点見たい。これに関して重要なのは、二回目の逢瀬後に、関東が梅雨入りとなり、彼らの逢瀬が重ねられていく事実だ。梅雨入り前の二回目の逢瀬シーンで、二人の関係性は、ただ雨の日に新宿御苑で会った人ではなくなっている。二回目の逢瀬でより少し二人の様子を見せることによって、梅雨入り宣言と同時に、彼らの胸が高められ、そして観客にもそのことが自然と伝播していく。それゆえ、この二回目の逢瀬シーンは重要である。

 第一に、二人の一回目の逢瀬と二回目の逢瀬のシーンの違いである。一回目の逢瀬は、ベンチに雪野がいるところに、孝雄が後から訪れる。そして、二人が顔を見合ったことがわかるよう、お互いの顔のショットが挿入され、孝雄は雪野が空けた席に座る。これが第一の逢瀬だった。二回目の逢瀬では、少し異なった描かれ方をしている。二回目の逢瀬では、新宿御苑の中に入った孝雄が、屋根付きベンチに向かう通路を歩く様子、水たまりを飛び越える様子、そして彼の靴と地面が映った後、彼がベンチのタイルへ足を踏み下ろした足をクローズアップで映す。その後に、雪野が本から顔を上げて、孝雄に気づくショット、孝雄が座る席の後ろから二人を映すショットへと繋がれる。

 二シーンの違いは大きく、この表現のみでも読み取れる部分は多い。一回目は、まずお互いが視線を合わせ、お互いに距離感をつかんだ後、孝雄は先客の反応をうかがってから、ベンチへ歩を進めた。だが、二回目は、相手の反応をうかがうショットは飛ばされ、まず歩を進め、それからお互いの視線を合わせ、挨拶を交わす。いきなり歩を進める孝雄の側からの反応もそうだが、雪野側も視線を上げ、自然と「こんにちは」と発する関係性が構築されている。そのため、二回目に二人が話を始める前に、一回目よりも二回目の方が、関係性の変化を感じ取ることができる。

 第二に、二回目の逢瀬での会話シーンに着目したい。もっと言えば、孝雄に「会社は休みですか」と問われ、雪野が返す「またさぼっちゃった」についてである。言葉を聞いて、孝雄は一瞬驚いた顔を見せ、優しい笑みを浮かべ、その直後から口数が明らかに増える。この言葉から、孝雄は雪野に対して、「やばい女」と思うよりも、好感を持ったことは明らかだ。というのも、上記反応に加えて、朝から会社をさぼり、チョコレートをつまみにビールを飲む雪野が、「人間なんてみんなちょっとずつおかしいんだから」というある意味正当な暴論も真剣に受け止め、そして彼は晴れやかな顔をして、午後の学校へ向かっていくのだから。

 それでは、彼は「またさぼっちゃった」に何を見出したのか。個人的な話をすれば、本ブログを書く前に、梅雨→『言の葉の庭』という安直な連想で本作を観たとき、今まで何度も観た際には引っかからなかったこのセリフに引っかかった。というのも、本編後にも雪野の細かな性格的な部分は、46分の中編である本作ではとても触れることができていないにもかかわらず、この一言は、一言だが、雪野の人となりを十分に伝えているように感じたからだ。と同時に、そのセリフが雪野の性格説明に陥らず、視聴者同様に雪野のことをあまり知らない孝雄が、このセリフで雪野に好感を持つことが明瞭にわかり、かつそこに違和感がないように思えた。

 話は戻って、それでは、「またさぼっちゃった」に込められているのは、どのような雪野の人となりの部分で、それを孝雄はどの程度読み取り、どのように好感に至る解釈を施したのか、問題になる。

 「また」は当然、二人が午前中の似た時間に会うように、今回以前の複数回、会社をさぼっている事実を提示し、「さぼっちゃった」は「さぼる」+「てしまった」の後悔を表す助動詞が組み合わさっている。そのため、行くべきであった(行かなければならない)のに、そうはしなかった(あるいはできなかった)、というニュアンスが読み取れる。

 このことは、さぼりを複数回繰り返しているにもかかわらず、それに開き直ることはなく、その違反自体には、反省・後悔の意図を発話者の雪野が持っていると考えられる。加えて、そのこと自体は、彼女の態度にも表れる。話す態度があっけらかんとするのではなく、下を向きある程度深刻そうではあるものの、明るい声色で話す様子も特徴的である。

 ここで、細かく文法的に確認してきたのは、このセリフの余白を読み取る準備が必要だったからだ。以下で、このセリフの含意を、読み取っていきたい。

 雪野の意図として、「さぼっちゃった」という後悔の助動詞がつくのだから、「さぼっちゃいけないけれども、さぼってしまった」というニュアンスが含まれている。この助動詞をつけるためには、ある規範の存在を前提としている。正直なところ、この前提が正確にはどのようなものかは、本編で開示されていないため、雪野にしかわからない。「行きたいのに」かもしれないし、「行くべきなのに」かもしれない。しかし、そこには、行かないよりも、行く方がよい、という価値的な前提は置かれている。この価値的な前提があるため、上記した規範の存在が可能になっている。

 彼女は、そうした常識が要請する規範に反することになっても、ある一定の明るい声色でそのことを言いながらも、そのこと自体を後悔するアンビヴァレントな状態を保っている。彼女はそれを開き直るのでも、自他に対して攻撃的になるのでもなく、その状態を受け入れてしまう。だから、彼女は「優しすぎる」のだ。こうして、その優しさゆえに傷ついた、一人の女性像が、その一言でもって言い表される。

 ここまで来てやっと、雪野のセリフと孝雄を結び付けることができる。彼らに共通するのは、ある規範の違反とその事実に反発しつつも、その違反に対する負い目をもっている点だ。孝雄が彼女にまずもって好感を持ったのは、現状の障害に対して、もがく姿勢を雪野が持っており、雪野と自分は同志と思えたからだろう。先ほど「またさぼっちゃった」という雪野のセリフについて、細かく分析を施した。年齢・性別・立場、具体的な悩みの内容でさえ異なるにもかかわらず、外部から受ける抑圧、抑圧への立ち向かい方に共通点を見いださざるを得ない。立ち止まっているものの、お互いに歩き始めることを決して諦めていない、その悩みへの向き合い方そのものが、彼らをつなげた一つ大きな糸だったと読み取れる。

 こうして、彼らの物語は、関東の梅雨入りを皮切りに、より深く進展していく。

 

日常的な光景への注目

 最後に、『言の葉の庭』と同様に、雨が印象に残る『天気の子』との関連性を、一点指摘して、本ブログを締めたいと思う。『言の葉の庭』については、三章の「天気と二人の物語」で、雨と晴れという天気の美と表裏を描きながら、同時に二人の物語を進展・停滞させ、さらにはその進展・停滞が彼らの社会の中での制約と重なっている、という三点を指摘した。『天気の子』については、詳細は別ブログを参照いただくとして、簡潔に言えば、天気の美を本作同様に描きながらも、天気自体が、ヒロイン陽菜と天気の二者択一のセカイ系的主題に押し上げられている。そういった意味で、あくまでも天気、広く言えば自然が背景・環境に位置するのが『言の葉の庭』であり、それが主題に上っているのが『天気の子』と言える。振り返れば、その傾向は『君の名は。』から最新作『すずめの戸締り』にまで続く。

 この場では個人的な感想になってしまうが、『言の葉の庭』以前と『君の名は。』以後では、同じ新海作品であっても、断絶まではいかない溝のようなものがあるように感じる。筆者の個人的な思い入れも含めて、種々理由はあるが、一点明確なのは、『言の葉の庭』以前以後で、登場人物たちが生きている、自然や建物などの背景・環境を、作品内のどのような位置に置くかは異なっているように思える。あくまでも背景・環境を登場人物が過ごす日常として描くか、より積極的に主題となる一つの事件として描くか、その違いによって、背景・環境への向き合い方が異なってくる。

 その連続性の詳細・正誤、どちらの方が優れているか、という話は置いておいて、日常として描く描き方について一点だけ述べておきたい。本作において、雨・晴れの天気、実在する場所が描かれているのだが、その描写は誇張されて表現されている。そのため、現実の同じ場所、同じようなタイミングで同じ光景を見たとしても、同一の美が発見できるわけではない。例えば、実際の新宿御苑で、同量の雨が降る中、見える風景が本作内の風景と同一に見えるわけではない。そういう意味では、すなわち現実との完全な写実的な類似ではないが、それは確かに現実の一側面を捉えておりその意味でリアルな描写である。作品から得られた知見は、普段、観客がそこにのみフォーカスを合わせて見ない場所の美を教えてくれる。そのことは、本作内の雨の描写と現実の梅雨を結び付けるよう観客に促す。したがって、今の季節(梅雨時)に観る『言の葉の庭』は、この現実の梅雨に対する見方を変更させ、作品だけでなく、梅雨を好きにさせてくれる。今こそ『言の葉の庭』を観てみる、あるいは再見してみるのもいいのではないか。

 

新海誠監督の別作品は以下、ご参照ください。

nichcha-0925.hatenablog.com

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