【アニメ考察】人の「作品」に無意味などないー『すずめの戸締まり』

Ⓒ2022「すずめの戸締まり」製作委員会

 

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●スタッフ
原作・脚本・監督:新海誠/キャラクターデザイン:田中将賀/企画・プロデュース:川村元気/エグゼクティブプロデューサー:古澤佳寛/プロデューサー:岡村和佳菜・伊藤絹恵・伊藤耕一郎/作画監督・土屋堅一/美術監督:丹治匠/演出:徳野悠我・居村健治・原田奈奈・下田正美・湯川敦之・井上鋭・長原圭太/CG監督:竹内良貴/音楽:RADWIMPS・陣内一真/音楽プロデューサー:成川沙世子/音響監督:山田陽/音響効果:伊藤瑞樹/撮影監督:津田涼介/色彩設計山本智子/助監督・特殊効果:三木陽子/アシスタントプロデューサー:加瀬未来・今福太郎
制作:コミックス・ウェーブ・フィルム/制作プロデュース:STORY inc./製作:「すずめの戸締まり」製作委員会/配給:東宝

●キャラクター&キャスト
岩戸鈴芽:原菜乃華/宗像草太:松村北斗/ダイジン:山根あん:岩戸環/岡部稔:染谷将太/二ノ宮ルミ:伊藤沙莉/海部千果:花瀬琴音/岩戸椿芽:花澤香菜/芹澤朋也:神木隆之介/宗像羊朗:松本白鸚

公式サイト:映画『すずめの戸締まり』公式サイト (suzume-tojimari-movie.jp)
公式Twitter映画『すずめの戸締まり』公式 (@suzume_tojimari) / Twitter

 

 

※この考察はネタバレを含みます。

 

 

概要

 新海誠最新作、『すずめの戸締まり』が2023年の11月に公開され、累計で動員939万8000人、興収124億8800万円を突破している*1。『君の名は。』の大ヒット以来、『天気の子』と同様に、注目度はかなり高い。時間のずれを巧みに利用し、都会と田舎の二人が出会う『君の名は。』、東京の街で少年が天気の巫女となる少女に出会う『天気の子』、そして本作は彼の作品から少し変わって、少女が主人公となる。前二作でも描かれた天災の側面が強調され、前面に押し出されて、本作は成立する。前二作と比較すれば、この天災の側面は大幅に強調される。というよりも、本作は正面切って天災、殊に震災を扱っている。そのため、シリアスな色調を強めているが、それでも新海監督の手腕により、エンタメとしても楽しめる作品となっている。

 (過去作については、以下ご参照ください)

nichcha-0925.hatenablog.com

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ストーリー紹介

九州の静かな町で暮らす17歳の少女・鈴芽(すずめ)は、
「扉を探してるんだ」という旅の青年・草太に出会う。
彼の後を追って迷い込んだ山中の廃墟で見つけたのは、
ぽつんとたたずむ古ぼけた扉。
なにかに引き寄せられるように、すずめは扉に手を伸ばすが…。

扉の向こう側からは災いが訪れてしまうため、
草太は扉を閉めて鍵をかける“閉じ師”として旅を続けているという。
すると、二人の前に突如、謎の猫・ダイジンが現れる。

「すずめ すき」「おまえは じゃま」

ダイジンがしゃべり出した次の瞬間、
草太はなんと、椅子に姿を変えられてしまう―!
それはすずめが幼い頃に使っていた、脚が1本欠けた小さな椅子。
逃げるダイジンを捕まえようと3本脚の椅子の姿で走り出した草太を、
すずめは慌てて追いかける。

やがて、日本各地で次々に開き始める扉。
不思議な扉と小さな猫に導かれ、九州、四国、関西、そして東京と、
日本列島を巻き込んでいくすずめの”戸締まりの旅”。
旅先での出会いに助けられながら辿りついたその場所で
すずめを待っていたのは、
忘れられてしまったある真実だった。

(公式サイト STORYより)

 

魅力・考察の進め方

 本作は、様々な要素が組み合わさり、シリアスな震災という題材を扱いながらも、エンタメ性を捨てることはしない。猫のダイジンと椅子になった草太の追いかけっこはコミカルな躍動感を持ち、物語終盤に常世で、逆側の要石が巨大な化け猫に変化して、ミミズと繰り広げる食い止める激闘の大怪獣バトルは、作画の魅力が詰まっている。それらの作画の魅力と共に、シリアスな展開を和ませるモチーフが本作に散りばめられる。前半部分には、鈴芽と旅をする椅子になった草太であり、後半部分には、草太の友人で、鈴芽と鈴芽の叔母環を東北まで送り届ける芹澤である。前者については、先ほど言及したが、後者は鈴芽と叔母環の険悪さを何とか和らげようとするクッション材になっている。また、シリアスな物語に突入する前に、観客を本作に没入させるのは、圧倒的とも言えるアバンタイトルでの掴みのうまさである。丁寧に伏線となる要素を提示しつつ、最後には後ろ戸を閉じ、ミミズが破裂して、派手な画面から、戸をイメージした黒塗りのスライドで、タイトルが表示される。観客のボルテージは最高に高められた状態で、本編へ進んでいく。

 ここまで、勢いのままに、本作の魅力を書いてきた。一度立ち止まって、本作が持つ意味を考えてみたい。本ブログでは、本作は主題を震災に置いた作品として扱う。本作を囲い込む常世、すなわち鈴芽の夢に出てくる幼い頃の常世の記憶と物語終盤に鈴芽が、幼い頃の彼女(以下、小すずめ*2 ) に椅子を渡すシーンを、中心に考察を進める。そこでは、椅子を巡って、パラドックスが発生している。このパラドックスをどのように解釈するか探り、パラドックスを基に今度は、震災を主題とする本作そのものがどのような意味(メッセージ)を持ちうるか、考察してみたい。

 

前・後の常世常世タイムパラドックス

 本作は、幼少期の鈴芽が常世に迷い込み、そこで亡くなったはずの母(らしき人物)から、失くした椅子を手渡されるシーンから始まる。一気に時間軸を進めて、要石となった草太を助けに常世に行った鈴芽は、物語終盤、常世で、常世に迷い込んだ小すずめに出会う。鈴芽は、母を探し泣きじゃくる小すずめに優しく声を掛け、彼女に「未来」について語り、持っていた椅子を手渡す。この点で、鈴芽が、幼い頃常世で椅子を受け取った体験を、今度は椅子を手渡す側として繰り返して、彼女が常世で母(らしき人物)に出会った記憶の正体を知る。そして、小すずめは過去の震災直後の世界へ、助け出された草太と鈴芽は、現代へ戻っていく。

 このシーンは、少女が、常世をさまよう冒頭シーンの謎が解き明かされる、伏線回収のシーンとなる。だが、このシーンは謎解きだけではなく、さらなる謎も生んでいる。すなわち、彼女の椅子は最初どこから来ているのか、という謎だ。鈴芽が、幼い頃に常世で椅子を手渡されたのであれば、その椅子を手渡した未来の鈴芽がいたはずである。さらに遡っていくと、起源の鈴芽に到達し、同様に起源の椅子にもたどり着く。果たして、起源の鈴芽は起源の椅子をどのように手に入れたのだろうか。ここに、タイムトラベル物で登場する、因果のループと呼ばれるタイムパラドックスが存在している。

 

常世タイムパラドックスを解く

因果のループとは

 因果のループとは、ある出来事の結果が出来事自体の原因となり、因果関係が循環している状態のことを言う。因果のループは、何らか過去の対象に働きかけることによって、生じる。例えば、去年公開された『四畳半タイムマシンブルース』*3でも、エアコンのリモコンを巡って、因果のループが描かれていた。該当のシーンは、城ケ崎がリモコンを持ったまま、過去にタイムスリップし、沼地にリモコンを落とした際、田村が未来からエアコンのリモコンを持ってくる、一連のシーンにある。そのシーンから主人公たる「私」はパラドックスに気づく。パラドックスのポイントは、未来のリモコンを、沼地に沈んだ昨日のリモコンの代わりにすると、未来のリモコンが今日のリモコン(壊れたリモコン)となり、元々の未来のリモコンがどこから来たのかが不明になってしまうということだ。

 これと同様のことが『すずめの戸締まり』でも起こっている。先述したように、椅子を渡す起源の鈴芽は、誰からどうやって椅子を受け取るのか、あるいは入手するのかということだ。もちろん、循環が発生しようが問題ないと解釈するのも、一つの手ではあるが、ここでは、もう一歩進めて、パラドックスを無視した解釈を取ったとして、本作がどのような意味を持ちうるのか、という点を含めて、パラドックス自体の解釈を模索する。

 

パラドックスの解釈方法

 本節では、三つの解釈を提出して、検討したい。第一に、因果のループ自体を、『すずめの戸締まり』の世界内でも、パラドックスと真面目に受け止め、何とか整合性を取ろうとする説である。第二に、常世での出来事を、夢・幻と推測し、夢・幻の世界であるから、パラドックスは生じないとする説である。第三に、常世の出来事を現実と捉え、かつ椅子に関する因果のループを認識するも、積極的に無視する説である。以上の三点について、言及していく。便宜的に、第一の解釈を解消説、第二の解釈を夢幻説、第三の解釈を無視説と呼ぶ。

 

解消説 正攻法で何とか説明する

 解釈説の特徴は、パラドックスを許さず、何とか物語設定に整合性を付けようとする。そのため、三つの解釈の中で、最も正統派な解釈と言える。とはいえ、この整合性を付けると簡単に言っても、「いかに?」という問いがたちまち生じてくる。この問いに対しては、二つの回答を考察する。

 一つ目は、手渡す鈴芽と受け取る鈴芽は、別の世界に存在していると考える。つまり、常世を介して出会っているのは、パラレルワールドに存在する二人の鈴芽であると回答する。この回答の利点は、常世で、小すずめと鈴芽が出会う矛盾を説明してくれる点だ。因果のループ以前に、過去の自分と現在の自分が対面するのは、現実と類似した法則を世界観に設定しているなら、それ自体パラドックス以外の何ものでもない。だが、パラレルワールド説を取れば、この二人は鈴芽の特徴を有した同一人物ではあるが、パラレルワールドを生きる別人である。したがって、二人が対面しても、過去の自分と現在の自分が対面することに、パラドックスは生じない。だが、この考えには、致命的な欠点がある。パラレルワールドの想定を利用して、パラドックスを解消しようとすると、二つの道を選択する必要がある。すなわち、パラドックスパラレルワールドの無限性に丸投げするか、椅子を失くさなかったパラレルワールドが存在すると仮定する、のどちらかである。前者を選択すれば、まずもって同一世界でのループをパラレルワールドでのループに置き換えただけと批判が予想でき、パラドックスは依然残ったままである。後者を選べば、小すずめに鈴芽の励ましが、空疎なものとなってしまう。後者を補足すると、鈴芽は彼女が「実際に」辛いだけではない人生を歩んできたがゆえに、幼い自分に対して、小すずめも同じように、未来へ希望を抱けると言うが、その前提は鈴芽と小すずめが同一人物である場合だ。その前提が崩れるパラレルワールドの考えでは、鈴芽の言葉は、小すずめにとっては、フィクションでしか存在しない、限りなく条件の近い他者の実体験で励まされているに過ぎないのである。そうすると、わざわざ被災直後の小すずめと鈴芽を対面させる意味も、大幅に薄れてしまう。しかし、二人の対面が、草太を救う劇的な展開の後に置かれているため、この対面には本作にとって重要な意味(メッセージ)が込められていると考えるのが、妥当である。したがって、小すずめと鈴芽の対面を空疎化してしまうこの解釈は採用できない。

 二つ目は、常世の性質を利用する。パラレルワールドの想定では、パラレルワールドに住む「人」に焦点を当てたが、ここでは、「椅子」に注目する。常世には、死者が赴くように、失くした物たちも行き着く場所となる。失くしたはずの椅子を、彼女たちは常世で見つける。その椅子は、鈴芽が、持ち込んだ椅子ではなく、常世から生まれた椅子であるため、循環は生じない、とする。この解釈の利点は、常世の設定のみで、循環を解決することができることだ。しかし、その解決の単純さは、欠点を一様に含みこむ。この解釈の欠点は、循環を解消できるが、それ以外の物語的な効果を生まないどころか、一つ目の椅子を失くさなかったパラレルワールドを想定する解釈と同様に、鈴芽の言葉を弱めてしまう。パラレルワールドの想定では、小すずめと鈴芽が別人、すなわちそれぞれ別のパラレルワールドを生きている点で異なっていたが、今度は、見かけ上、鈴芽がずっと持ってきた椅子を小すずめに渡しているにもかかわらず、その椅子自体は同一品ではない。それゆえに、椅子が同一品でないように、椅子と密接に結びついた、椅子を作った母や椅子を失くした被災の記憶も、同一ではなくなる。それゆえに、鈴芽が、その椅子から喚起される記憶は、小すずめからは湧きおこらないかもしれない。そうすると、自分の体験で小すずめを励ます、鈴芽の言葉は、同じような条件の私が高校生まで成長できたのだから、小すずめにもできると言った空虚な励ましとなってしまう。

 また、似た解釈としては、鈴芽に椅子を渡した鈴芽は、そもそも椅子を失くしていなかったとする。同様に、未来の鈴芽が椅子を失くしていなかった、という単純な仮定で、循環を解消することができる。この解釈の欠点は、パラレルワールド常世の解釈と同様に、椅子を失くしていない「鈴芽」と失くした鈴芽が登場し、他者となってしまう点だ。つまり、お互いに自分と限りなく似た条件を持つ他者に過ぎないのだ。そのため、その励ましは空疎なものになってしまう。

 以上より、解消説の二つのパターンを検討してきた。一つ目の、パラレルワールドの解釈は、因果のループの無限性をパラレルワールドの無限性に転化しても問題は解消しないし、またパラレルワールドに椅子を失くさなかった世界を仮定しても、問題があることを確認した。結局、パラレルワールド説を採った時点で、鈴芽と小すずめが別世界の自分となり、まったく同一人物ではないことから、クライマックスに鈴芽が小すずめに語り掛けるシーンの内容が空疎なものとなってしまう。また、二つ目は、まず死人が赴く常世に、物たちも荒れ果てた姿で現れていたところから着想を得ている。この点で、常世の性質から失くした椅子も常世にあったという解釈を採ったが、ここでは、先ほどとは対照に、今度は鈴芽が持つ椅子と小すずめが持つ椅子が別のものとなる。彼女にとって、母や被災の大きな記憶が結びついた椅子が、それぞれの鈴芽が別物を持っているとは考えにくい。次に、そもそも、椅子のループを想定するのが誤りで、鈴芽以前の(未来の)鈴芽が、椅子を失くしておらず、そのときの鈴芽と椅子が原因となっているという解釈である。これはパラレルワールドと同様の帰結を伴うので、棄却した。

 続いて、思いつくのが、椅子の原因と結果を細かく見ていくのではなく、そもそも常世の体験そのものが夢や幻のようなものであるのだから、整合性を問わなくてもよい、という考え方を見ていきたい。

 

夢幻説 夢や幻で終わらせる

 常世とは、この世ならざる空間のことである。本作でも、草太が常世について、死人の世界と言うように、生きている私たちが関わる世界ではない。そのため、この常世の出来事を、現世とは異なる夢や幻と考える考え方にも一理ある。

 この考え方を補強するのは、ミミズや常世の存在が見えるのが、鈴芽や草太などの一部の人間たちしかいないことだ。アバンタイトルで、ミミズが見える鈴芽とミミズが見えないクラスメイトが対比的に描かれる。クラスメイトたちは、ミミズが倒れて発生する揺れ、及びそれを知らせるアラームしか認識できない。また、東京でミミズの全容が姿を現した際、上空に漂うミミズの姿が見える/見えないで、これまた鈴芽・草太と東京の人々たち対比的に描かれる。ミミズが描かれたショットとそこからミミズだけが除かれた東京の光景を用いて、対比が印象付けられる。

 この対比構造は、過去より監督が得意とする構造である。『君の名は。』では、彗星の落下を知る瀧・三葉、『天気の子』では、天気の巫女の存在を知る帆高・陽菜・凪とそれ以外の人物たちが対比的に描かれる。いわゆる「セカイ系」に典型的に現れる、<世界>の事情を知る主要人物と知らないモブという構図を、本作も踏襲している。この構図から、鈴芽や草太が体験した出来事の非日常性が浮かび上がる。

 だが、常世やミミズの存在、鈴芽や草太のそれらの体験が非日常だからと言って、それがすなわち夢幻になることはない。常世を夢の産物にして、ミミズの存在を幻とする解釈を是とするトリガーは、少なくとも劇中に登場していない。さらに、上記した東京の例は、夢幻説に寄与する形で提示したが、実は反例でもある。このシーンでは、ミミズの出現に伴い、荒れ始めるカラスが緊張感や異様さを高めている。上では、東京の人々と鈴芽・草太の対比を持ち出したが、このシーンのカラスは、鈴芽・草太が見たもの(ミミズ)は、事実であることを物語っている。カラスはミミズの出現に、鳴き声や羽をバタつかせて暴れる様子で反応し、かつカラスたちの目のクローズアップを間において、ミミズが映らないショットから映るショットが置かれる。ここでは、都民からは見えない対象が現に存在していることを、言葉を話さないカラスの目を通して、物語らせている。そうであるなら、ミミズの存在は、夢幻ではないと言える、あるいは画面を見るに、少なくとも夢幻だと断言できるわけではないと言える。

 それに、何よりも監督の明示的意図に反するのではないだろうか。

 

君の名は。』のときは、夢を媒介にして触れていくみたいなことしか出来なかったんです。でも、今なら直に手で触れることが出来るんじゃないか、直に触れるべきなんじゃないかという気持ちが強くなっていった。あるいは、これ以上、そこに触れるのが遅くなってはいけないという気持ちもどこかにありました*4

 

 彼の震災を震災のままリアルに扱う志、そして何よりも震災を扱わなければならないという彼の使命感*5から、本作でいう震災のキーポイントとなるミミズ、ミミズが生息しあまりにリアルな被災の状況が広がる常世の様相を描き出している。そのため、その意図を無視して、ミミズや常世の体験を夢や幻と捉えてしまうことは、ただの誤り以上の過ちに思えてしまう。

 それゆえ、夢幻説には、本作の主題となる震災に対する本作の立場そのものを、捻じ曲げてしまう恐れがある。本作において、震災に関わる部分がすべて夢や幻だったというのは、被災の記憶を抱えてきた鈴芽が、本作の中で、自分の十二年間を自覚して救われる物語展開と矛盾してしまう。したがって、夢幻説は採用することはできない。

 

無視説 パラドックスには意味がある?

*6

 三つ目の解釈は、因果のループ自体を無視してしまう。だが、無視すると言っても、解釈の放棄ではない。因果のループをパラドックスと認識しつつも、そのパラドックス状態が本作にとって意味を持っていると読み込んでいく。

 無視説で、因果のループはパラドックスが生じている事実は否定しない。それでは、次にパラドックスの存在をどのように扱うのか、どのような意味を持たせるのかが問題になってくる。

 小すずめを鈴芽(S)、彼女が受け取る椅子を椅子(I)とすると、鈴芽(S+1)・鈴芽(S+2)…、椅子(I+1)・椅子(I+2)…、と無限に遡れることが、本作でのパラドックスであった。しかも、便宜的にS・Iで表記したが、鈴芽も椅子も、同一世界内の同一人・物であり、鈴芽たちの違いは年齢が異なるのみである。このパラドックスが本作を本作たらしめるのに必要となるのは、一体どのような理由だろうか。鍵は、監督の言葉にある。

 

他者に救ってもらう物語となると、まず救ってくれる他者と出会わなければいけないわけです。でも本当に自分を救ってくれるような他者が存在するのかどうか、わかりませんよね。誰もが『君の名は。』の瀧に出会えるわけでも、『天気の子』の陽菜に出会えるわけでもない。でも、誰でも少なくとも自分自身には出会えるじゃないですか。*7

 

 前二作で主人公たちが出会った相手に救われてきたのに対して、本作では自分自身に救われる点に言及している。要するに、本作では鈴芽は鈴芽自身に救われる。この監督の思いを表現する仕掛けこそが、因果のループのパラドックスである。というのも、このパラドックスによって、鈴芽が鈴芽自身に救われることが担保されるからだ。

 どういうことか。監督のインタビューでは、「他者」という言葉は厳密な意味で使用されてはいないが、これを厳密な意味で使用することが重要である。解消説を検討した際に、パラレルワールドでは、鈴芽は全くの同一人物ではいられないし、死者同様に失くしたはずの椅子が常世から見つかる場合も、それは同一の椅子ではない点に言及した。解消説からは、このような意味で、鈴芽・椅子が他者として現れてしまう。さらに、因果のループを解決するために、起源を探すことは、無意味であるだけではなく、監督の上記意図を裏切っている点で、よりよい解釈とは言えない。つまり、後に鈴芽が小すずめに椅子を渡す原因となる、鈴芽・椅子は決して彼女たちと同一ではありえない。それゆえ、見かけ上、鈴芽が小すずめと同一人物であることを認めたとしても、その先のところで鈴芽とは別の鈴芽(=原因の鈴芽)が現れてしまう。そうすると、椅子をつなぐ彼らの連鎖は、自分を助けるという意味合いから外れてしまう。したがって、起源を探す解釈は、本来物語のパラドックスを解くという健全な目的を持った解釈であるが、本作においては、そのパラドックス自体が意味を持ってしまうため、不適切となる。

 以上で、パラドックスを解決することが、監督の意図を裏切り、作品に対して不適切なものになってしまことを指摘し、パラドックスは鈴芽が「自身を」救うことを担保すること確認した。次に、無視説をとるべき積極的な根拠を、いかに「救う」のかを中心に、パラドックスが持っている意味に即して考察する。パラドックスが発生する常世では、鈴芽と小すずめが同じ空間・同じ時間で邂逅する。しかも、小すずめは鈴芽の幼かった頃の鈴芽である。この意味で、同一人物なのである。

 この不思議な現象にどのような意味を読み取ることができるか。この問いを紐解くカギを、監督のインタビューより引用したい。

 

鈴芽と小すずめとの会話、ああいう自分同士でのフィードバックのループみたいなことを、僕たちは実は無意識に日常の中でやっているんだと思うんですよ。例えば、数年後の自分に期待を託したり、あるいは数年前の自分に語りかけたりもしている。それこそが、人間が生きていくための大事で特別な能力だと思います。自分は、今を乗り越えることができる。なぜならば、未来には今を乗り越えた自分がいるから。亡くなってしまった人に再会したり、誰かに出会って救われる話ではなくて、自分で自分を救う話。*8

 

 鈴芽が小すずめに語り掛ける非日常かつ非現実的に見える場面を、監督は日常の中で、現実に行っているフィードバックのループみたいなことと形容している。今の鈴芽と過去の鈴芽が対面して、今から過去の鈴芽へ顔を合わせて語り掛ける。それは全く超常的ではないと。

 こうした日常的に行っている営みとして、このシーンを捉えることができるだけではない。このシーンは常世を舞台としている。そして、小すずめが直前に体験した景色が広がり、鈴芽が震災の記憶に囚われながらも、忘れてしまった風景が広がる常世である。彼女たちの記憶は、震災という非日常の出来事で繋がる。小すずめが直後の体験を直前の記憶のままに見るように、それを忘れた(ように見える)鈴芽にとっても、記憶から離れず、記憶の深部に沈んでいる風景のままに見る。

 そこから、震災という巨大すぎる体験を前にして、鈴芽と過去の鈴芽が対面できたのではないかと思えるのである。すなわち、彼女にとって、母を亡くし、椅子を失くし、故郷を失った震災は、黒く塗りつぶしてしまいたいほどの体験だった。悲惨な体験と言うにはあまりに強烈な体験により、明示的に震災へのトラウマを見せない鈴芽も、確かにその体験、体験の記憶により蝕まれている。彼女の目には、震災で荒れた東北が綺麗な景色には見えない。その体験は、十二年の歳月が経っても、彼女にくびき打ち立てる。だが、震災という非日常的な出来事で生じたくびきによって、彼女は過去の自分と繋がることができた。

 彼女の記憶は、この常世の景色、すなわちあの日の記憶とダイレクトにつながっている。ただ、そのような記憶を持つ彼女とそのような出来事に直面する小すずめでは、違いがある。それこそが、鈴芽が被災から過ごした十二年の年月である。彼女は震災の記憶を保持しながらも、彼女自身が震災から立ち上がり、十二年もの年月を生きてきた。彼女の過ごした時間は、彼女の被災の記憶そのものを肯定・美化させることは決してできないが、彼女がそこから強く生きてきた出発点として、記憶を更新することはできる。

 こうした常識的な「フィードバックのループ」で特別な「誰か」の手を借りることなく、自分自身を救うという常識的な自己救済を行う。それと、鈴芽が小すずめに掛ける言葉も常識的なもので、彼女の言葉はフィクションという物語に用意された言葉ではないため、現実に見ている観客たちにも深く刺さる。その点、監督は以下のように述べる。

 

鈴芽は小すずめに「あなたは大人になっていく」と言葉をかけますが、立派な人になると言っているわけではない。ちゃんと大きくなるというのは、それは誰でもそうですよね。当たり前だからこそ、そこには嘘がない。*9

 

 「フィードバックのループ」のギミック、さらに嘘偽りようのない事実を端的に伝える。しかし、それが小すずめや鈴芽に染み入り、彼女の救いに繋がる。鈴芽は、彼女が確かに生きて、大人になってきたことを、小すずめに伝える。成長し種々のことを経験する未来を、鈴芽は希望として、小すずめに伝える。他方で、彼女は、小すずめに語る形で、尊い過去として、自分自身に語る。彼女は彼女の十二年間を真に肯定することができる。

 以上で、無視説をとった場合、この作品がどのような意味(メッセージ)を持ちうるか述べてきた。パラドックスは原因・結果の関係性すなわち他者の介在を排除することで、本作が描かれた自己救済を完全なものとする。ただ、鈴芽が自分を自分で救ったからと言って、彼女の力のみで成し遂げられたことではない。以降、彼女を救った彼女以外の要素を概観しながら、本ブログを締めくくる。

 

 『すずめの戸締まり』は、夢の中の常世から始まり、鈴芽が自分を救うことで、常世から現世へ帰還し、にぎやかなエピローグで、物語は終わりを迎える。鈴芽は自分を自分で救う。しかし、それは彼女だけの力で成し遂げられたのではなかった。

 以前の監督作品とは異なり、本作では鈴芽が市井の人々との、劇的ではない出会いが描かれる。世界の中には、「私」の<セカイ>の外にも、温かな世界が広がっている。その出会いは劇的ではないにしても、彼女を支えていく。また、彼女を支えるのは、市井の人との出会いだけではなく、草太との出会いでもある。彼への恋心は、鈴芽の行動原理となるも、恋愛によって、彼女の救いが実現するわけではない。しかし、人々との出会いと同様に、彼との出会いもまた、彼女を支え、さらにエピローグの別れ際で再会を約束するように、エピローグの明るい未来を期待させる。

 このように、劇的には描かれない要素が、本編で鈴芽を支え、自己救済後の彼女に期待させる。彼女は、独立した彼女一人の力で、自らを救済するわけではない。彼女を支える力は、各所にあった。しかし、最終的に、彼女を救うことができるのは、その力を得た彼女しかいない。その救済を劇的に描きながら、自己救済に比べればささやかな、世界との出会いは現在の鈴芽が「大人になっていく」過程なのかもしれない*10

*1:「映画大好き CINEMAランキング通信 興行通信社Presents」1月16日更新ニュースより

*2:制作現場で呼ばれていた幼い頃の鈴芽のこと

 『すずめの戸締まり』公式パンフレット p17 東宝株式会社

*3:過去に同作品の記事を書いておりますので、ご参照ください。

【アニメ考察】『四畳半タイムマシンブルース』~実存主義的四畳半コメディ~ - ハングリーナッツの雑記帳 (hatenablog.com)

*4:新海誠本』 p10 東宝株式会社・STORY inc.

*5:監督が、常に震災を念頭に置いていたことも、語られている。

  『すずめの戸締まり』公式パンフレット p14 東宝株式会社

*6:管見で無視説に近い作品を挙げるなら、以下の二作品を思い出す。テッド・チャンの「あなたの人生の物語」と草野原々「最後にして最初のアイドル」である。(以下ネタバレ注意)

 宇宙から飛来した地球外生命体(ヘプタポッド)の言語を理解して、主人公のルイーズは、過去・現在・未来を同時的に理解する認知構造に変化する。このサピア=ウォーフ的な過去=現在=未来の正当化は、テッド・チャンの「あなたの人生の物語」(訳公手成幸『あなたの人生の物語』、早川書房、2003)で描かれる。

 また、草野原々、「最後にして最初のアイドル」(『最後にして最初のアイドル』、早川書房、2018)では、本作と似た形を取り、別のことを表現している。主人公のアイドル古月みかが最終的に生み出した新しい宇宙は、意識を持ち、意識を持った多宇宙が自己の存在を確かなものとするために、過去へと意識を反映させて、本書の序盤の出来事を引き起こす。要するに、多宇宙が二つの出来事を引き起こすことで、多宇宙自身の起源となり、その起源を引き起こしたのも、多宇宙となる。

*7:前掲 公式パンフレット p17

*8:前掲公式パンフレット p17

*9:前掲 公式パンフレット p17

*10:参考 村上春樹、「かえるくん、東京を救う」(『神の子どもたちはみな踊る』、株式会社新潮社、2002)
 新海の私的領域と世界をつないだ<世界>から市井の人々を含んだ世界への移行は、村上春樹が、地下鉄サリン事件の被害者へのインタビューを行った『アンダーグラウンド』をきっかけに、市井の人々を描くようになったことと軌を一にするのかもしれない。