【アニメ考察】二組の「See you ばいばい」を縫合するー『天国大魔境』10話

©石黒正数講談社/天国大魔境製作委員会

 

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●原作
石黒正数『天国大魔境』(講談社アフタヌーン」連載)

●スタッフ
監督:森大貴/シリーズ構成:深見真/キャラクターデザイン:うつした(南方研究所)/ヒルコデザイン:古川良太/プロップデザイン:富坂真帆・澤田譲治/銃器デザイン:髙田晃/メカデザイン:常木志伸色彩設計広瀬いづみ美術監督:金子雄司
/美術設定:ブリュネ・スタニスラス・/伊井蔵・ 上田瑞香・平澤晃弘・ 高橋武之/3D:directrain、IG3D、5(five)/モーショングラフィックス:大城丈宗/2DW:CAPSULE・濱中亜希子/撮影監督:脇顯太朗/編集:坂本久美子/音響監督:木村絵理子/音楽:牛尾憲輔

〇十話スタッフ
脚本:窪山阿佐子/絵コンテ:五十嵐海/作画監督竹内哲也

アニメーション制作:Production I.G制作会社

●キャラクター&キャスト
マル:佐藤元/キルコ:千本木彩花/稲崎露敏:中井和哉/トキオ:山村響/コナ:豊永利行/ミミヒメ:福圓美里/シロ:武内駿輔/クク:黒沢ともよ/アンズ:松岡美里/タカ:新祐樹/園長:磯辺万沙子/猿渡:武藤正史/青島:種﨑敦美

公式サイト:TVアニメ「天国大魔境」公式サイト (tdm-anime.com)
公式TwitterTVアニメ『天国大魔境』公式 @毎週土曜日22時〜絶賛放送中! (@tdm_anime) / Twitter

 

 

※この考察はネタバレを含みます。

 

 

概要

 2023年春アニメ中、最も評価の高い作品の一つが『天国大魔境』であろう。十話では、独特なアニメーション表現が、ファンを魅了し評判となった。だが、その評判は肯定・否定どちらの声を見受けられる。本作の十話は、シリーズを通して画面をコントロールし、統一された作品を作る昨今の風潮とは一線を画している側面が強い。ただこのことをもって、挑戦的な作画・演出をもって肯定的評価を下す、あるいは統一からの逸脱をもって否定的評価を下すのは、生産的とは言えない。

 そこで、本ブログでは、十話を分析して、十話が持つ可能性を探りたい。ある特定の話数の評価をする場合、種々の評価基準を持つことができると思われる。例えば、本作のように原作があれば、原作を尺度に、いかに原作をアニメーションへと翻訳したかを見ることができるし、あるいはもっと基本的には、そのアニメシリーズの全体を尺度にして、その話数が、いかなる意味を持ち得ているかを見ることができる。前者では、翻訳の方法とその成功・不成功を評価とし、後者では、該当話数の全体への貢献度を評価とすることができる。しかし、筆者『天国大魔境』の原作を未読であり、またアニメ自体も途上にある。そのため、ここではいったん本作を下記のように規定して、その規定を手掛かりに、十話の諸要素を分析していきたい。

 

・規定

確かな世界観とそれを位置づける写実的な背景によって、生まれるミステリー要素やシリアスな展開、それを彩るコメディ要素と優れたアニメイトによる動きの要素をも楽しむことができる作品

 

デフォルメ・コミカルさ・運動

 まずは、他の話数から逸脱している要素を取り上げ、そもそもその作画の要素のみで、擁護できないのか見ていきたい。本話では、作画の調子が局所において異なる。冒頭部分のように、マル・キルコの顔のデフォルメ、キルコの胸を揉んだジューイチに怒鳴るマルとそのマルに突っ込みを入れるキルコの身体デフォルメ(パースが独特な作画)、教室でヒルコに襲われて凍り付く二人の劇画調の作画、ヒルコを追い返してロングショットで二人を捉えた主線がない作画、など数多く挙げられる。

 これらのデフォルメや独特なパース使いや作画による運動は、それ自体でアニメーションが提供しうる最大の価値の一つ、すなわちアニメーションが見せる「わくわく」を無条件に与えているように思う。

 

デフォルメ・運動
©石黒正数講談社/天国大魔境製作委員会

身体デフォルメとパース
©石黒正数講談社/天国大魔境製作委員会

劇画と主線抜き
©石黒正数講談社/天国大魔境製作委員会

 この感覚的な「わくわく」をできる限り、言語化して補足してみたい。どのシーン・ショットも本作にとって目新しく映る。顔のデフォルメは、表情だけではなく、顔や顔のパーツの形が流れるように変わっていく姿にわくわくする。「壁の町」へ向かう夜の車で強調されたキルコの胸が、ジューイチの手により柔らかな運動を遂げ、その様子をロングショットでつなぎ、画面右から水平に走ってきたマルがジューイチを蹴っ飛ばし、ジューイチは垂直に飛ばされ、カメラ目前へ墜落していく。そして、きついパース、うねるような身体のデフォルメは、突っ込む登場人物の威圧感とそれを受ける登場人物の感情・関係性(マル→ジューイチ、キルコ→マル)を的確に表現している。それに何よりも、そのような表現するパースの嘘、デフォルメそのものが見る者の心を躍らせる。

 また、劇画調の作画は、冷気を操るヒルコとの戦闘で、生存レベルぎりぎりの状態を表しながら、氷の描写に負けない居場所(主線)をマルとキルコに与える。その張り詰めた空気が解けて/融けて、過剰だった主線は消し飛んでしまい、ロングショットの主線がないショットへとつながっていく。

 こう考えれば、作画の逸脱をとっても、その映像が持っている気持ちよさだけではなく、その逸脱そのものに意味を与えることができるように思う。そして、意味が与えられれば、表現が持つ感覚的な快楽に気づかなかったとしても、その表現が理解可能ゆえに、議論可能なものに変わる。

 とはいえ、それでもまだ、「それで?」と問うことができる。他にも上記意味を達成する表現ありうる、あるいはもっと限定的に、これまでの話数と調和した表現を用いたとしても、今与えたような意味を画面に宿らせることは可能だったのではないか。そうであるならば、逸脱した表現のみで、十話を肯定することは難しいのではないか、と問える。

 こう問われると、十話の逸脱部分がある映像的快楽を生み、かつ何かを表現する意味を持ちえたとしても、それがこの作品にとって必然的であることを証明できない限り、他の選択肢を許容せざるを得ない。そして仮想的反論者が論拠に持ち出す、これまでの話数との「調和」や「統一性」も、作品評価を行う上で、十分に有力な評価基準である。それに、本作自体が、安易に逸脱を許すタイプの作品ではないことは明らかである。

 そもそも、本作では、大災害後の世界を描き、天国・魔境の両側面を描きながら、この世界の謎に近づいていく。この作品のおもしろさの根本には、ある世界が屹立しており、その不動性ゆえに、視聴者はその世界を謎としてとらえ、説かれるべき(だろう)謎があると確信することができるところがある。それゆえに、その世界観、もっと言えば世界そのものを支える作画に対して、簡単には多様性は認めることができない。そうすれば、謎としての世界は、立ち消えになってしまうだろうから。

 以上から、逸脱そのものに、映像的快楽および意味があるために十話を評価すべき、という積極的な論証の道は、逸脱そのものに必然性が見いだされなかったために閉ざされてしまった。だが、十話を評価できるかどうか、別の道を取ってみることができる。本作全体において、コミカルな表現はすでに存在し、相対的な程度として、今回の表現が逸脱に至ったのだ。それゆえ、十話が上に定めた規定のコミカルな要素や写実的な背景、アクション、これまでの話数で立ち上げられた謎としての世界、などの要素を適切に取り扱っていれば、これまでの話数と連続的といえるのではないだろうか。その考えを基に、次章では、シリアスな世界で、巻き起こるシリアスな出来事に目を移していきたい。

 

コミカル描写をシリアスにつなぐ

 十話は特徴的な作画やヒルコとの戦闘で見られる美麗な作画が印象的だが、より洗練されているのは、ジューイチの物語が徐々に画面を侵食するホラー展開である。十話には、天国・魔境のそれぞれが持つ気味の悪さとミステリー要素がふんだんに含まれる。違和感は次第に大きくなり不穏さに変わり、以前見たイメージや登場人物から発された言葉の理解を全く別の理解へといざなう。

 とはいえ、シリアスな展開自体を扱う前に、コミカルな作画との関係性を見ておきたい。これはわかりやすく、コミカルさがアクセントとなって、シリアスの強度が高められる。アクセントとは、コミカルさとシリアスな展開が十話内に並置され、落差は互いに相乗効果を生む。だが、これだけで、本作にとってコミカルなパートが必要十分であったとはいえない。そのため、次のように考えてみたい。コミカルさとシリアスが並置されることで、ある種のギャップを生む。ここまでは正しい。とするなら、問題は、本作の中で、そのギャップがどのような様相を見せているか、である。それゆえ、今度はシリアスなシーンを分析することによって、本作のギャップがどのようなものか位置づけ、さらに上で言及したこれまでの『天国大魔境』らしさからの逸脱を擁護してみたい。

 

伏線と回収_バケツの水の例

 本作のシリアスなシーンのキーポイントは、伏線と回収、そしてそれによる意味の転換である。この二つが、十話と十話につながる九話を不穏なシリアスに変えてしまう。そのシーンでは無意味に感じられるショットが、この十話ではいくつか重ねて、納められていた。このようなショットが、伏線とその回収の流れがうまく快楽を生んでいたのは、「壁の町」でヒルコと戦闘になるシーンである。ここでは、マルとキルコが教室へと入っていくシーンの際に、水道のシーンが映る。このショットで疑問に思うのは、二人を「壁の町」の中を探索する中、カメラは廊下から水道を向いて、建物の外へと伸びているからだ。それに加えて、「壁の町」のシーンでは、金子雄司が美術監督を務める美術が冴えわたる。広げられたバリケード、崩れ落ちたがれきの山が描かれ、該当の水道に向かうショットでも、その美術の力が細部にまで宿っている。

 それゆえ、水道に置かれたバケツの水だけが、なぜか作画で描かれていたことに視聴者は気づくことになる。この気づきを得ると、バケツの水の伏線を連鎖的に回収されていく。まず、バケツの水が映った後に、マルがバケツの水をこぼす描写をモンタージュすることで、マルが「この」バケツを倒したと勘違いさせる。引きのショットでマルが別のバケツを倒したことがわかるが、次に水道のバケツが映ると、ヒルコの存在を暗示するために、バケツの水面が利用される。そして、ヒルコを追い払い、ヒルコから逃走するキルコが翻して、バケツに顔を突っ込み、水を含んで画面に戻る。視聴者が感じ取った「なぜここは作画?」という問いに対して、バケツの水が利用されることで、視聴者の好奇心は満たされるが、その回答は同時にさらなる謎を生む。最終的にはバケツの水から離れて、なぜ水を含んで、キルコに向かっていくのか、という問いに至る。その答えは、キルコの解説と明快な図解によって明かされるが、明かされると同時に、次はキルコがヒルコに銃を突き付けて向かっていく、圧倒的な作画に魅了される。このように伏線と回収が単に、登場人物のセリフの中や物語上に埋め込まれたものだけではなく、視覚情報において、謎と回答が与えられることで、アニメーションとしての魅力は加速度的に増す。こうした意味で、視聴者は、ストーリーと合わせて、映像をも楽しんでいる。あるいはこう言ってよければ、まんまと作品に楽しまされている。

 以上では、「壁の町」にあったバケツの水を例にとって、本話に宿る伏線とその回収の巧みさを見てきた。しかし、これはこの伏線と回収の例示のために紹介した一端に過ぎない。この伏線と回収こそが、最初コメディ回かと思わせた十話を徐々に侵食していき、最後には様々な意味を不穏に反転させてしまう。次に、その点について紹介していきたい。

 

不穏の種まきと回収

 次に重要となるのは、マルとキルコにわが子の生存を確認する依頼を出したジューイチである。ジューイチに関するモチーフは、繰り返し映される。そのモチーフは、モンタージュによって、画面に絶えず現れる。ここで伏線はモンタージュによりまかれる。バックミラーとそこに下げられた赤い人形は、上で言及した作画と同様に、印象に残るショットである。赤い人形は、合計八回画面(内バックミラーに下がる五回、手に持った状態二回、「壁の町」のヒルコで一回、人形がないバックミラー二回)に映る。嫌に人形の赤さが強調されていたのが印象に残る。次に人形はバックミラーから外される。背景には夕焼けの真っ赤な空が映る。これだけでもかなり象徴的なショットである。また、これだけでなく、人形を見るジューイチなど、ジューイチ単体が後半に行くにつれ、不穏に画面に映し出されていく。空も同様だが、前半部分に画面を覆う青みがかった画面が印象付ける。

 

赤い人形とジューイチの一例
©石黒正数講談社/天国大魔境製作委員会

 積み上げられた不穏の種は、十五がヒルコであったシーンで開花したかに思われた。「壁の町」はもぬけの殻だったが、種豚たち、そしてジューイチの子どもの十五が生きていた段階では、『天国大魔境』らしからぬ良好な展開に、これでは終わらない雰囲気を漂わせていた。十五がヒルコであった事実は、いくらかの衝撃をもって受け止められたが、これが本当の開花ではなかった。それがやってくるのは、マルとキルコが彼らの住処からコミカルに去っていった後である。ここから、今まで随所に散らされ、語り部の心の内や無表情の表情に隠された不穏な空気が一気に噴出してくる。血の付いた積み木で遊ぶ十五の姿が一瞬映った後、画面は天国へ切り替わる。天国では新たに五期生の紹介がなされる。五期生を映すのに広角レンズが選択され、彼らの不敵な表情と相まって、不穏な空気は十五の積み木から継続される。その空気を引きついで、画面に十五が積み木を崩す様子、真っ赤な夕日が映ると、次には血と肉片がこびりついた丸ノコが映る。そして、ジューイチが語り始め、彼は本作登場当初そうであった語り部に変貌を遂げる。彼の語りによって、この不穏さの回収がなされる。

 

五期生
©石黒正数講談社/天国大魔境製作委員会

 ここまでくると、きわめて演出的な映像技法であるモンタージュによって、随所にまかれた不穏の種が、ここで一気に回収されたのがわかる。ここでの不穏さは、「これで終わるはずがない」と視聴者が先の展開を身構えるように、これまでに培われたこの世界観の救われなさからデジャブを呼んでいたとはいえ、惨劇の原因・相手は視聴者からすれば、予想もつかない降って出た存在であった。すなわち、彼の復讐相手の存在を示唆する赤い人形が常に強調され、彼の不穏な様子をもカメラは収めていた。それゆえに、この惨劇に値する不穏さは周到に準備されながら、マルとキルコがもたらしたコミカルさと不協和音を奏でていた。そして、惨劇は起こる。そうすることで、視聴者にとってこの惨劇は、予期されていたものとして納得できるものになる。それと同時に、ジューイチが「壁の町」から逃げた日の真相が、惨劇の事後に初めて、語られることによって、今までの彼の振る舞いを反転させることができる。さらに、この反転した彼とコミカルに去ったマル・キルコとには隔絶したギャップが存在する。

 

See you ばいばい

 九話で、ジューイチは情報屋として、マルとキルコと出会う。彼は情報、そして物語を語ることで、マルとキルコから金銭を得ていた。語りの中には、彼自身が経験した「壁の町」の話も含まれていた。だが、彼にとって重要な真相は、語られなかった。語られないことで、不穏の種は、最後のホラー的展開へと芽吹く。意味、真相を知れば、その恐怖や救いようのなさはもろに表出する。

 この真相を知っているのは、死んだ者を除けば、ジューイチと視聴者のみである。ジューイチの語りを最後まで聞き届けた視聴者は、彼の物語を十全な形で享受する。しかし、マルとキルコは、この物語を最後まで聞き届けていない。そのため、二人にとって、ジューイチと十五の物語は、「良い(=幸福な)」物語として聞き届けられている。

 前述したコミカルな描写、これまでの作画からの逸脱は、この意味でアクセントといえるのではないだろうか。ジューイチと二人を画す分水嶺となる。物語の一部を知って、これまでにない幸福な物語を生きる二人と二人に語らなかった真相から惨劇、そして新たなる旅立ちに至るジューイチは、別の物語を生きているように映る*1

 こうした意味での、コミカルな要素をアクセントと見て、メインストーリーはシリアスでミステリアスなこの世界と基調はずれていないと解釈できる。そうすれば、上記で、コミカルな描写をそれ自体積極的に肯定することはできなかったが、真相を知っているかいないかで別の物語を生きる二組を描写するためのアクセントとして、消極的にでも肯定できる。こうした迂回をすることで、逸脱それ自体では逸脱の必然性を示すことができなかったが、二組の物語とコミカル・シリアスを二項対立的に考えれば、規定に示したように、コミカルさとシリアス・ミステリアスを持った本作全体とも、統一を取ることができた。

 

 

 十話特有のコミカルな描写に一応の結論がついたところで、最後に、あのセリフに触れておきたい。マルとキルコは、ジューイチから車を譲り受け、彼らの住処を後にする。そのとき、二人は九話十話と今までコミカルに使用されてきた「See you ばいばい」を、同じ使用方法で反復する。反復した二人は、車が止まってしまい、締まらない弛緩した空気を作って、去っていく。

 しかし、ジューイチの場合は異なる。彼が最後に放つ「See you ばいばい」は、コミカルな意味で反復されえない。暗い一本道を走るジューイチをカメラが追い抜いていく。その映像に、「See you ばいばい」が重ねられ、彼もまた車で去っていく。

 「See you ばいばい」を発する二組は、同じ言葉を用いてその場を去りながらも、彼らの立つ地点は絶望的なまでに異なっている。両者はどこに立つのか、そしてこの先どのような展開が待ち受けるのか、そして今後どのような展開を見せてくれるのか、楽しみは尽きない。

 

*1:よくよく考えれば、十話の物語を見る視聴者は、過去同様に物語をすべて見聞き届けていた。すなわち視聴者は、天国と魔境の両方を総覧できる立場にいるために、例えばヒルコや「マルタッチ」ができるマルに対して、不穏さや不気味さを感じることができていたのだ。