【アニメ考察】世界のことを好きになる一つの方法―『天気の子』

Ⓒ2019「天気の子」製作委員会

 

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●スタッフ
原作・脚本・監督:新海誠/キャラクターデザイン:田中将賀作画監督:田村篤/美術監督:滝口比呂志/演出:徳野悠我・居村健治/CGチーフ:竹内良貴/音楽:RADWIMPS/音楽プロデューサー:成川沙世子/音響監督:山田陽/音響効果: 森川永子/撮影監督:津田涼介/色彩設計・助監督:三木陽子/製作: 市川南・川口典孝/企画・プロデュース/川村元気/エグゼクティブプロデューサー:古澤佳寛/プロデューサー:岡村和佳菜・伊藤絹恵/音楽プロデューサー:成川沙世子/アシスタントプロデューサー:加瀬未来・堀雄太

制作:コミックス・ウェーブ・フィルム/制作プロデュース:STORY inc./製作:「天気の子」製作委員会/配給:東宝

●キャラクター&キャスト
森嶋帆高:醍醐虎汰朗/天野陽菜:森七菜/天野凪:吉柳咲良/須賀圭介:小栗旬/須賀夏美:本田翼/立花冨美:倍賞千恵子/安井刑事:平泉成/高井刑事:梶裕貴

公式サイト:映画『天気の子』公式サイト (tenkinoko.com)
公式Twitter映画『天気の子』 (@tenkinoko_movie) / Twitter

 

 

※この考察はネタバレを含みます。

 

 

四季よりも根幹の天気

 四季折々の美しさ、さらには自然の美しさなど、アニメーションの基礎となる作画以外でアニメの魅力を作り出すのは、新海の作品作りの一つの特徴と言える。『君の名は。』より、作画監督に安藤雅史を迎え、人物の微細な芝居やダイナミックなアクションという過去の新海作品では、なかったものが生み出された。本作でも同様に、アクションは生かされている。

 しかし、本ブログでは、改めて『天気の子』における新海らしい背景・編集による表現に注目したい。『天気の子』において、登場人物たちの物語を成立させる世界の美しさを、それらの描写により構築するだけではなく、美しさそのものが何らか意味を持っているとしたら、どのような意味を持つのか探求する。付け加えて、本作で主人公の帆高は、<世界>*1の天気か、「天気の巫女」の陽菜か、選択を迫られる。この点で、本作を、アニメ作品に特徴的なジャンルの物語構造である「セカイ系」と捉え、上記した背景・編集の表現と「セカイ系」の物語を接続してみたい。

 

最高地点としての晴れ女仕事

 本作の主人公帆高は、地元の島に差した光を追って、上京して、その先でヒロインの陽菜と出会う。陽菜も、母親が入院しており、「光の水たまり」のように太陽の光が差す、ビル屋上の小さな鳥居に誘われる。そこで母親と外で出かけられるように、晴れるようにと強く願って鳥居をくぐり、彼女は「天気の巫女」となる。

 二人は、太陽の光に誘われる。反対に、陽菜の母親が入院していた時期も、帆高が上京してからも、東京の街には雨が降り続いている。雨に濡れる服の質感や曇り空の暗さの中で街の光に雨が反射する様子、雨粒が地面に衝突し飛び散る描写が丁寧にかつ美麗に描き出される。東京に家出してきた帆高の期待感を高める魅力が、雨の東京の街に溢れ、同時に、その魅力が一点の曇りのない澄んだものではないことが明示される。新海の過去作品でも、雨は印象的に用いられている。

 一つ例を挙げると、『言の葉の庭』では、雨の降る日のみ、タカオとユキノは出会える。二人にとって、二人が会える時間を作り出す雨とその時間を生む雨そのものの美しさと二人を引き裂く晴れ模様(=梅雨明け)は、現在に問題を抱える二人に、独特な感情をともって体感される。それゆえ、雨と晴れが物語上で果たす、二人を出会わせ、引き離す役割も重要だが、同様に重要なのは、新宿御苑で降る雨が作り出す、文字通り緑に覆われた幻想的な世界の美しさや梅雨が明けて二人を引き離す、残酷なまでに鋭く地上を照らす夏の晴れ模様は、それ自体美しさを持っていることである。天気が持つ物語上の役割・意味とその表現自体の美しさが表裏一体の重要性を持っている。これと同様のことが、『天気の子』でも言え、雨や晴れは特別な意味を担い、天気が持つ些細でありながら壮大な美を孕んでいる。

 『天気の子』では、雨の中で帆高と陽菜は出会う。雨が降る時間を通して、関係性を積み重ねる。二人の関係性が構築される前半部分の最高点は、神宮外苑花火大会で、「晴れ女」の仕事を果たし、花火大会に晴れをもたらしたときである。そこに至るまでに二人は、二人が出会った雨降る東京に、「晴れ女」の仕事を通して、雨続きの日々に暮らす人々に晴れ間を届ける。その過程で、二人はお互いのことを知り分かり合っていく。

 『天気の子』を四分割して、最初のパートでは、帆高が上京して、辛い日々を過ごしながら、陽菜との出会いと、そして須賀の会社に拾われ、東京で居場所を見つける。東京での居場所を見つけた帆高は、東京で何とかやっていけそうな兆しが見える。『君の名は。』で瀧と三葉の入れ替わりの日々が描かれたのと同様に、音楽を担当するRADWIMPSの『風たちの声 (Movie Edit)』が掛かり、音楽に乗せて、須賀の元での生活が軽快に描き出される。そして、音楽と映像が合わさるMV風の映像表現により、登場人物たちの経過していく日々を描く手法は、帆高・陽菜・弟の凪の三人で、「晴れ女」の仕事にまい進する日々でも使用される。そこでは、『グランドエスケープ (Movie Edit) feat.三浦透子』が掛かり、晴れを願う依頼者それぞれの切実な依頼と依頼が成功した後に、三人に感謝し、喜ぶ姿の依頼者が見せられる。雲の影に覆われた暗い街に、空からかかる光が、地面や建物を黒から明るく塗り替えていく。

 「晴れ女」仕事のクライマックス、花火大会の日に、陽菜が高層タワーの最上階で、空に晴れを願う。すると、空の雲が割れ始め、光が差す。「晴れ女」の力を使ったとはいえ、ただ晴れるという現象が、本作の最高点と思えるほどに、ドラマチックに描き出される。どんよりした雲間から晴れ間が現れ、夕暮れの橙の日差しが、東京中を明々と照らしていく。その晴れを作った彼女の姿は、光の元となる雄大な空や西日に照らされる建物ひしめく東京の街に比して、高層タワーの屋上で小さく弱々しい後ろ姿に見える。

 以上で、登場人物たちが暮らす世界の天気の美しさに焦点を合わせてきた。このこと、特に晴れ間について、うまくまとめているのが、晴れ女の依頼の合間にモノローグで語られる帆高の次の言葉である。

 

人の心って、不思議だ。例えば、朝、窓の外が晴れているだけで、元気になれてしまう。空が青いだけで生きていてよかったって思えたり、となりにいる誰かをもっと愛おしく思えたりする。雨ばかりの東京では、皆が様々な理由で晴れを求めていた。陽菜さんが呼べるのは、小さな範囲の短い晴れ間だけだったけれど、でも必ず、空は彼女の願いに応えた。彼女は本当に百パーセントの晴れ女だった。それはまるで街が華やかな服に着替えていくかのようだった。僕はなんて素敵な世界に生まれてきたんだろう、そう思えた。ただの空模様にこんなにも、気持ちは動くんだ。人の心は空に繋がっているんだと僕は初めて知った。

(『天気の子』帆高のモノローグより)

 

 帆高と陽菜は、「晴れ女」の仕事を通して、ただ晴れることに特別な意味を見出すことができ、さらに二人が出会った雨の日にも特別な意味を見出すことができる。このときの二人にとって、天気はただの環境ではなく、空を見上げ美しいと感じる鑑賞の対象になり得、かつ空を通して二人がつながれた重要な意味を持っているものとなる。

 また、ここまでで、二人は出会い、お互いを認め合う。どこにも居場所がなかった二人に、お互いを認められる居場所ができる。二人にとって、最上の時間が流れるが、その時間は長くは続かない。東京の風俗街で拳銃を発砲し、警察に追われる帆高、凪と二人だけで暮らし、児童保護の対象となっている陽菜。二人を引き離す社会の手が迫りくる中、「天気の巫女」としての陽菜は、徐々に体を蝕まれていく。そして、彼女は遂に天気を修復する代わりに、人柱として地上の世界から姿を消し、はるか上空の雲の上の世界に飛ばされる。彼女と引き換えに、地上の秩序は守られる。

 

世界よりも彼女を選ぶということは?

 前章で、新海作品で晴れや雨の描写が丁寧に描かれ、その描写自体が美しいこと、さらにその描写が物語自体に意味を持っていること、さらに『天気の子』でも晴れと雨がうまく使用され、「晴れ女」としての仕事に二人は幸福を感じ、また『天気の子』でも雨と晴れの描写が美麗に描き出され、かつ二人が天気に肯定的な感情を持っていること、を確認した。

 ここでは、『天気の子』後半部分に浮上してくる「セカイ系」という側面に触れていく。「天気の巫女」は、天気に異常が発生したときに、自らを犠牲に天気を正常化する。端的には、天気を修復する天への供物となる。本作での「セカイ系」要素はこの点にある。すなわち、帆高が、世界の天気と陽菜を天秤にかけた上で、陽菜を選び取り、世界に三年間止まない水害が発生する物語展開にある。

 『天気の子』の魅力は、「セカイ系」の中でも、個々具体的なヒロイン陽菜と遜色ないレベルで〈世界〉が具体的に描写され、それにより、選択の秤がある人物と<世界>が、同等の重みを持つよう、表現されているところにある。ただ、この点で重要なのは、このとき言う〈世界〉が陽菜以外に主人公に近しい人物を設定して、その人物との選択になっていないことだ。というのも、そうであるなら、<世界>か、ある人物(ヒロインであることが多い)か、の選択の葛藤、およびその葛藤を超えた選択の美しさが減殺されるからだ。その比較は、ある人物よりも別の人物の方が大切というレベルの比較ではなく、この世界と引き換えにしても具体的な人物を選ぶ、一見倒錯した姿に、魅力があると思われる。したがって、「セカイ系」で、〈世界〉の内実を丁寧に描き、〈世界〉の価値を高めることで、その価値を裏切ってまでも、ある人物を選ぶということに感動を生む。『天気の子』では、その位置に、天気と陽菜が置かれている。

 本作では、前半部分に陽菜との出会い、二人の関係性が深まる過程を描きながら、他方で、逆の天秤にかけられる〈世界〉の描写がなされる。すなわち、日々降る雨の魅力、晴れ・晴れ間の魅力、さらに晴れを願う人々の姿と晴れ間を見届ける人々の喜び、何よりそのことから上で引用したように、帆高が「僕はなんて素敵な世界に生まれてきたんだろう」と思わせたこと。普段、何気なく通り過ぎてしまう雨や晴れの美しさやそれに心動く人々の感情の動きを丁寧に捉える。そうすることによって、人間が生きる条件である天気(=〈世界〉)が、人々にとって重要で美しさを身に染みて実感でき、<世界>は空虚な概念としてではなく、内実を伴うしっかりとした重みをもって秤に乗せられる。

 観客は、ヒロインとは逆の天秤にかかる〈世界〉の重さを感じる。帆高が陽菜を選べば、この世界に存在する年中見られる美は失われ、それによって、人々から生まれるはずだった感情が損なわれることになる。劇中で登場した、「晴れ女」の依頼で、晴れ間を迎え、喜びを見せた彼らから、そのような喜びは今後失われることになる。

 本作の構成上、帆高や陽菜が恵まれない環境に居た構成が取られ、それを基に二人を助けることができない社会に対する疑問が、帆高の選択に影響を与えるのも当然である。そうした形で、〈世界〉に対する不満が二人、特に帆高にはある。陽菜を取る選択をする彼は、依頼で出会った晴れを待ち望む人たちを裏切ることになる。しかし、帆高が上京した理由は、あいまいにぼかされ、過去が想像できるのは、アパートの様子に堆積した生活の跡を基にできる、陽菜の側だけである。

 こうすることで、「セカイ系」であれば、あいまいだが守られるべき〈世界〉と具体的な恋人や主人公の境遇とが対比される構図が、『天気の子』では天秤は釣り合いを見せる。限定され重みづけられた〈世界〉、天気の美とそれに支えられる人々の姿が具体的に描かれ、ただ帆高の描写は、過去等にまでさかのぼって丁寧に描かれるわけではない。だが、陽菜の描写は、助けられるべき陽菜の過酷な状況が、アパートの様子から推察できる。そのため、主人公の〈世界〉への鬱屈は観客の想像に任せるままであり、彼の境遇を基にして、彼の選択を正当化はさせないようになっている。唯一確信を許されるのは、そのような居場所がなかった二人に大切な居場所・関係性ができたという狭小な関係性の側の重要性だけである。

 主人公の反社会感情をあいまいにして、かつその二つの、つまり〈世界〉と狭小な関係性が同程度の重みづけがなされることで、<世界>と狭小な関係性のどちらを選択するのか、という「セカイ系」的な問いが、真正な問いとして提起される。そして、その真正な問いの前に立った帆高が、<世界>を犠牲にして、陽菜を選ぶことから、大きな感動が生じる。

 かくして、帆高は陽菜を救う決断をし、東京は常に降り続く雨に包まれる。その雨は、東京を呑み込み、いくつかの地域を居住不可能な地域へと変え、帆高は世界の形を変える選択に至った。

 

狂った世界の美

 「セカイ系」の二者択一の選択は、選択の限界性を突き詰めるがゆえに、フィクション的な美しさが存在する。一方で、帆高がやっと見つけた居場所である陽菜を助けるのか、それとも他方で、人々に恩恵を与える〈世界〉の一要素である天気のどちらを取るか。『天気の子』では、あくまでも抽象的な〈世界〉ではなく、人間が生きる条件である世界を天気として、具体的に描き出す。それゆえに、〈世界〉の側の重みづけに成功している。

 最終的に、帆高は世界を、雨の降り止まない世界の形を変え、東京の街を沈めてしまう。それでも、人間の狭い料簡を超越する自然からは、それほど大きく変わってはいない。須賀の言うように、「世界なんて、狂っている」かもしれないし、そうではないかもしれない。世界は、人間に猛威を振るうほどの力を持っていようが、その姿に大きな変わりはない。変わってしまうのは、それを受け止める人間の知覚や美的認識においてである。もちろん二人の以外の〈世界〉の側で、変わらないからと言って、それで物語は大団円で完遂するわけではない。

 物語は、助かった陽菜が祈る姿で終わりを迎える。手を合わせ、深く祈る彼女の姿を、後方から、画面に収める。彼女の前方には、水没した東京の悲惨な姿が浮かぶ。一番最初の「晴れ女」仕事のバザーや花火大会の屋上で祈ったように、陽菜は変わらずに祈り続ける。その姿を見た帆高も、二人が変えてしまった事実を受け止める。彼が読んでいた『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のホールデンが雨降る動物園で妹のフィービーが回転木馬に乗っている様子を見ているだけでどうしようもなく幸福を感じた*2ように、この雨が降り続ける世界で、陽菜を一緒にいることを選んだ、と幸福そうに確信する。

*1:セカイ系」を扱うが特に、世界の存亡が狭小な関係性によって左右される「セカイ系」の内、登場人物が世界か、それとも親しい人間かの選択を求められる話型が本作に当てはまる。本ブログでは、選択の天秤にかかる世界を<世界>と表記し、一般名詞の世界は世界と表記する。(参考:セカイ系 | 現代美術用語辞典ver.2.0 (artscape.jp))

*2:J.D.サリンジャー村上春樹訳、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』、株式会社白水社、2006