【アニメ考察】シリアスか、淡さか―『薄暮』

ⒸYutaka Yamamoto/Project Twilight

 

 東北・福島県の地で、震災の傷を負った少女と少年が出会う。山本寛が手掛ける「東北三部作」の最終章となるのが、『薄暮』である。「山本寛オリジナル作品「薄暮」アニメ制作プロジェクト」と銘打ったクラウドファンディングや制作会社:トワイライトスタジオの設立、東北を中心とした数々のイベント実施など、『薄暮』は作品抜きにして、話題の作品となっていた。今回、この『薄暮』を取りあげる。

 

  
●スタッフ
原作・脚本・監督・音響監督:山本寛/キャラクターデザイン ・ 総作画監督:近岡直/美術監督:Merrill Macnaut/色彩設計:村口冬仁/音響演出:山田陽/音楽:鹿野草平/制作総指揮:和田浩司/制作プロデューサー:伊藤光

アニメーション制作:Twilight Studio/配給:プレシディオ

●キャラクター&キャスト
小山佐智:桜田ひより/雉子波祐介:加藤清史郎/ひいちゃん:佐倉綾音/リナ:雨宮天/松本先輩:花澤香菜/部長:高橋大輔/小山昇:下野紘/小山聡子:島本須美/小山恵美:福原香織

公式サイト:劇場アニメ『薄暮』公式サイト (hakubo-movie.jp)
公式Twitter劇場アニメ『薄暮』公式 (@Twilight_anime) / Twitter

 

 

※この考察はネタバレを含みます。

 

 

概要

あらすじ

 主人公の小山佐智は、福島県いわき市に住む。音楽部でヴァイオリンを弾き、一人で山道を散策して、大自然の中で、夕暮れを見るのが趣味の少女である。そんな彼女は、いつもの散策最終地点で、雉子波祐介と出会う。彼は、帰還困難区域から避難してきた。故郷の風景が、一瞬で震災の後になったことを受けて、雉子波は、絵で何とか周りの風景を残そうと試みる。絵のモチーフとなる風景を探す雉子波と案内役の佐智は、次第に仲を深めていく。雉子波の風景画が完成し、佐智の文化祭コンサートが終了した時、お互いの気持ちを認め合い、二人は結ばれる。

 

どういう魅力がある?

 福島県を覆う緑と橙を中心にした色彩豊かな自然、部活の中で一心に楽器に取り組む少女たちの姿、佐智と雉子波の初々しく飾るところのない恋愛劇、複数の要素が表層に現われる。対して、震災後の東北を扱うため、震災による心の傷が残る彼女たちを描きながらも、心の傷そのものは、劇中に明示的に表面化してこず、深層に留まり続けている。物語は、一人の少女の物語を、部活の取り組みと友情や恋愛を「日常・空気系アニメ」的に紡ぎ出す。その描き方は、アニメーション・恋愛物・色彩・そして震災の取り扱い方、すべてに対して同程度に「日常系・空気系アニメ」が持つ「淡さ」を含んでいる。震災が生み出した想像を絶するシリアスとは、かけ離れた淡さを、作品の一つの特徴としている。その淡さは、本作の持ち味となると同時に、本作を、淡さの丹念な読みを要請し、容易には掴めない作品へと導いている。

 そのため、本ブログでは、本作の魅力を発見できるように、本作を丹念に読む、ことを実践したい。ここで採る、発見に至る探求の道程は、比較にある。他作品と比較することによって、淡さに包まれた本作単体を闇雲に探究するよりも、本作固有の特長がより明確に浮かび上がってくるからだ。比較対象としては、第一に、監督:新海誠の『君の名は。』、第二に、監督:エリック・ロメールの『緑の光線』を取りあげる。二作品を選んだ理由は次の通りである。

 『君の名は。』については、本作同様に東日本大震災後に公開された映画で、災害を扱っている。さらに、災害の起った時期を過去に設定していること、「風景を描く」シーンがあること、という二つの共通点がある。だが、災害の向き合う時間軸が、現在か過去か、で相違点が生まれている。この相違点に二作品の目指す先、ひいては本作の特長の一端が見えるのでは、と予想している。この三点が、『君の名は。』を取り上げる理由であり、比較を行うポイントである。

 『緑の光線』については、劇中で雉子波の口から作品名を言及されることもあるが、薄暮に見える「緑の光線」が両作品に登場する。また、本作で佐智の多量なモノローグが使用されるのに対して、『緑の光線』では詳細な心理描写を避け、その代わりに多量の会話(ダイアローグ)が使用される。その会話(ダイアローグ)の在り方から、本作のモノローグがどのような意味を持ちうるか、を明らかにしてくれるだろう。

 二作品との比較を終えた後に、二作品との比較を総合して、『薄暮』という作品が目指す先を文字として再構成する。そして、その目指す先を参考に、『薄暮』が到達している地点を簡単に位置づけたい。

 

入れ替われないラブコメと入れ替わるラブコメ

 『君の名は。』は、新海誠を一躍アニメーション界のスターに祀り上げた、彼の出世作品である。東京に住む少年:瀧と田舎に住む三葉の二人に、不思議な入れかわり現象が起き、その入れ替わり現象により二人が出会う「ボーイミーツガール」作品である。「ボーイミーツガール」要素で恋愛面が描かれるだけではなく、三葉が住む糸守町に彗星が落下するという形で、災害を扱っている。

 2016年に公開された『君の名は。』の特徴を挙げ、参照軸とすることで、2019年に公開された『薄暮』の特長を照らし出してみたい。

 

 『君の名は。』のボーイミーツガール要素については、以下ご参照ください。

 

nichcha-0925.hatenablog.com

 

災害は過去、舞台は現在

 一つ目の共通点は、災害の時期が、過去であることだ。『薄暮』では、震災が過去の出来事で、震災後の現在という時間軸の中で、震災の傷を抱えた少女・少年として佐智・雉子波が描かれる。『君の名は。』では、同様に主たる視点主の瀧にとって、彗星落下は、三年前に起きた過去の出来事である。

 要するに、現在進行形の災害を描くのではなく、過去の出来事として描かれていることだ。現実世界では、東日本大震災直後から、数多くの震災・津波が映る生の動画が出回っている。そこには、フィクション的耐用性を軽く凌駕する自然の猛威(・迫力)が、克明に記録されている。そういう意味では、フィクション作品が、地が揺れ、大波が押し寄せる災害状況を現在進行形で描くことは、不可能ごとになっているのかもしれない。だからこそ、両作品は、対象は異なるにしても、共通して災害の瞬間ではなく、災害以後を物語の中心点に置いているとも推測できる。あるいは、より積極的に、災害以後の人々の被災状況や営みをこそ、フィクションが描くべき、という共通の作家的意識が働いたとも言える。

 この時間軸は共通点であるばかりでなく、相違点を含んでいる。共通点の中にも相違点があり、それこそが『薄暮』と『君の名は。』を接続させながらも、全く異なる作品にさせる重要点である。同じ過去を扱いながらも、過去を現在に引きずる『薄暮』と入れ替わりによって過去を現在として体験する『君の名は。』の違いがある。ここにこそ、各々の作品が、描こうとしたものの一端が隠されている。

 次にこの点を掘り下げる前に、もう一つの共通点、「風景を描く」点に移りたい。

 

風景を描くこと

 『薄暮』の雉子波は、震災により、故郷が一瞬で全く別のものになった経験から、何とか現在の風景を残しておこうとする。その手段が、絵だった。『君の名は。』の瀧も、糸守町を描く。三葉との入れ替わりができなくなってすぐ、入れ替わり時に見た糸守町の風景を紙に描き出し、絵を手にして、彼女に会いに行く。

 どちらでも描かれるのは、風景である。山や木々などの自然、住居や田畑などの自然の周りで営む人々の営みである。『薄暮』と『君の名は。』では、共通のモチーフが描かれるが、描かれるモチーフが持つ意味は少し異なる。すなわち、『薄暮』では、雉子波が暮らした故郷の景色は、すでに変容してしまった。彼のその体験は、風景が不変のものという認識を改めさせる。そうして、彼はいつ来るか分からない変容に備えて、自分が暮らす場所の風景を残していく。要するに、『薄暮』の目線の先は現在から未来にある。反対に、『君の名は。』では、目線の先は過去にある。というのも、三年前の糸守町の風景は、彗星落下の被害を待っている状態の風景であるからだ。いわば、各々で対象となる被災を起点にして、『薄暮』では、震災から未来の異なる風景を残しておこうとするのに対して、『君の名は。』では、彗星落下以前である過去の風景を求めて描き出している。

 また、この目線の違いは、雉子波と瀧が描く絵のスタイルにも現れている。雉子波の絵が、いわゆるアクリル絵具の絵画的な風景画なのに対して、瀧が描く糸守町は、鉛筆な明瞭な線で描かれた写実的・写真的な風景となっている。この点、風景の印象を「残す」目的とその風景を「探す」目的で、それぞれ絵が持つ目的に通じている。さらに、絵のスタイルの違いは、時間軸の違いと共鳴している。

 次に、両者の目指す先、すなわち各作品が表現しようとするものを、時間軸の違いから述べていく。その過程で、絵のスタイルの違いの意味も明確にしたい。

 

被災に向き合う時間軸

 先に、両作品には、時間軸の違いがある、と書いた。『薄暮』は、過去の震災の傷を現在も引きずる少女・少年の出会いを描き、『君の名は。』は、入れ替わりによって、過去の災害を現在に体験する「ボーイミーツガール」を描いていた。

 この作品における一部分の相違点でさえ、作品ごとの、災害への扱い方が全く異なっている。『君の名は。』において、現在の瀧が、過去の彗星落下を、過去の三葉として体験する。現在の彼が、三年前に彗星の美しさに見とれる姿は映るが、三年前から現在まで、「この災害」に関心がほとんどなく、忘れていたくらいだった。ましてや、その被災者個人のことを、意識することさえなかった。だが、入れ替わりによって、被災前の糸守町やそこで住む人たちに触れる。その体験によって、彼は、以前であれば意識しなかった「過去となってしまった」被災に対して、あの町に、そこに住む名前を持った個人に、強く関心を向けている。それゆえに、彼は当時興味のなかった、糸守町の災害に興味を持ち、また過去となってしまった災害の事実、被災した糸守町、そこで住んでいた人々に、強固に思いを馳せるようになる。

 そうした意味で、過去の被災を、瀧が現在として体験する様子は、未体験だったことではあるが、三年後を生きる彼にとっては、東京から離れた糸守町で起きたことの再現である。この意味で、彼が描いた絵が写実的であることと通じる。絵はもちろん、彼が糸守町を探す見本とする目的で、写実的に描かれている。見本として使用する絵に、抽象性・非写実的な美しさは不要である。しかし、見本にとって、写実性は必要であり、写実性の程度によっては、風景の再現とまでも呼べる。この絵について、高山ラーメン店の店主が、瀧の絵を見て、一瞬で糸守町と気づくシーンがある。それは、彼が描いた風景が、糸守町の再現にまで至っていることを示唆する。そうした観点でも、彼の絵は、記憶に浮かぶ彼の主観的なイメージを表現するものではなく、「彗星落下に遭ったあの町は、こういう町だった」という共通認識が得られる、客観的な再現だったのである。

 以上を総合すると、『君の名は。』を、過去の災害を現在に引き戻す試みとして読みとくことができる。このことを踏まえて、現実世界に立ち返ってみると、『君の名は。』は、震災から五年経った2016年に公開されている。震災の非被災者にとって、過去の出来事の一つとなりつつあったこの時期に、新海は、災害を現在に引き戻す試みを見せてくれた*1

 それに対して、『薄暮』は、震災の被害を現在進行形で、引きずる登場人物の姿を描く。上で述べた『君の名は。』が、あの時の災害へ引き戻す作品だったとしたら、『薄暮』は震災の被害は、今もそこにあることに着目する作品と言える。しかもそれは、目に見える物理的・肉体的な被害ではなく、精神的な被害なのである。

 佐智は、日常生活を普通に過ごしているが、震災のショックで、人と深く付き合うことができない。雉子波も故郷が、変わり果てた姿になり、少なからぬショックを受けている。『薄暮』では、被災後にいつまでも現在進行形で付きまとう被災状態を描こうとしている。それゆえ、この被災状態を描くことは、『君の名は。』での、過去の事実となってしまった災害を、現在の人々の元に引き戻すという客観的な問題とは一線を画する。被災状態を描くことは、被災した当事者が、その当事者の数だけ存在する主観的な問題に関連している。しかも、本作が描き出すのは、震災当時、多感な時期の中学生だった少女・少年である。そうした状況の彼女たちを描き出そうとすることは、先にした絵のスタイル、さらにヴァイオリンを弾く佐智にも通じる。彼の思いは、誰もが同じものを見見られる写真のような再現ではなく、彼が見たその景色の印象を描き出す。また、彼女の思いも、音楽に載せられる。

 以上で、『薄暮』と『君の名は。』を比較してきた。この比較を通して、『薄暮』が描こうとしたものが、少しはクリアになった気がする。まとめると、『君の名は。』が、過去の災害に、無関係だった人間を立ち会わせることで、過去となってしまった災害を現在に引き戻す試みだったのに対して、『薄暮』は震災当時中学生だった少女・少年の、震災から現在進行形で続く被災状況を表現する試み、と読み解くことができた。その性質上、『君の名は。』では、災害がどのようなもので、彗星が落下した町・そこに住む人々はどのようであったか、という客観的な視点を重視したのに対して、『薄暮』では、震災を経た、被災者の彼女たちがどのような悩みを、現在も抱え続けているのか、という主観的な視点を重視している。

 次に、もう一つの比較作品『緑の光線』を俎上に上げ、『薄暮』の精緻化を図りたい。

 

日本の緑とフランスの緑

 佐智と雉子波は、佐智お気に入りのバス停で出会う。彼女のお気に入りは、バス停から見える自然、茜色に輝く夕焼け、そして薄暮に空を染め上げる「緑の光線」にある。雉子波もその風景を気に入り、バス停で絵を描き始める。そこから二人の関係性は着実に接近していく。

 佐智お気に入りの「緑の光線」が登場するのは、二人が出会うこのシーンであるし、ロメールの『緑の光線』の作品名が口に出されるのもこのシーンである。どちらの作品も、薄暮にできる緑の光線がモチーフとして使われ、さらに大切な人となる人物と、一緒に緑の光線を見ることになる。そうした意味で、何かが欠けた人物たる、佐智とデルフィーヌ(『緑の光線』の主人公)は、似た境遇にある。しかし、二人、及び二人を描く手つきは、一見すると正反対と言ってもよい。『薄暮』では佐智のモノローグが多用され、『緑の光線』ではデルフィーヌが多人数との会話(ダイアローグ*2 )が多用される。『薄暮』と『緑の光線』の比較については、この違いに焦点を当てて、進めていきたい。

 

緑の光線』の補足

 本題に入る前に、『緑の光線』について、簡単に補足しておきたい。『緑の光線』は、ヌーヴェル・ヴァーグ最後の旗手たるエリック・ロメールの代表作の一つである。生っぽい映像・演技、長尺を占める会話、それらを用いて貫かれる軽やかな男女の恋愛劇、これらが絶妙なバランスで混ざり合い、作品に結実するのが、ロメール作品と言える。

 彼の『緑の光線』は、よりラディカルに、生っぽさを追求している。一括した脚本を作らずに、撮影に臨む即興的な撮影は、役者の演技から演技らしさを取り除き、カメラにも表現する余地を奪う。そうした意味で、ドキュメンタリーに近いフィクション作品に仕上がっている。また、会話劇というロメールの特長を、本作も引き継いでいる。主人公のデルフィーヌは、友人たちに休暇の誘いをかけ、彼女の現状を相談し、また休暇中に赴いた先で出会った人々と会話・活発な議論を繰り広げる。その本編のほとんどを、会話が占めている。

 そのような『緑の光線』のあらすじはこうである。

 

オフィスで秘書をしているデルフィーヌは20歳も前半、独りぼっちのヴァカンスを何とか実りあるものにしようとする。恋に恋する彼女の理想は高く、昔からの男友達も、新たに現われた男性もなんとなく拒んでしまう。ヴァカンスを前に胸をときめかせていた。7月に入って間もない頃、ギリシア行きのヴァカンスを約束していた女ともだちから、急にキャンセルの電話が入る。途方に暮れるデルフィーヌ。周囲の人がそんな彼女を優しく慰める。女ともだちのひとりが彼女をシェルブールに誘ってくれた。が、シェルブールでは独り、海ばかり見つめているデルフィーヌ。8月に入り山にでかけた彼女は、その後、再び海へ行った。そこで、彼女は、老婦人が話しているのを聞いた。ジュール・ヴェルヌの『緑の光線 』の話で、太陽が沈む瞬間に放つ緑の光線は幸運の印だという。「太陽は赤・黄・青の光を発しているが、青い光が一番波長が長い。だから、太陽が水平線に沈んだ瞬間、青い光線が最後まで残って、それがまわりの黄色と混ざって私たちの目に届く」という。もちろん、それを見た者は幸福を得られる[1]。何もなく、パリに戻ることにした彼女、駅の待合室で、本を読むひとりの青年と知り合いになる。初めて他人と意気投合し、思いがけず、自分から青年を散歩に誘う。海辺を歩く二人の前で、太陽が沈む瞬間、緑の光線が放たれたのだった。

緑の光線 (映画) - Wikipedia

 

ロメールの語り」と「山本寛の語り」

 ロメールの作品の特徴と『緑の光線』について、確認した。キーワードは、会話だった。反対に、『薄暮』で印象に残るのは、ダイアローグではなく、モノローグである。佐智の現状、風景への思い、雉子波への思いが、モノローグで詩的に語り上げられる。この点、それぞれの効果を見て、『薄暮』のモノローグがどのような意味を担うのか、突き止めたい。

 

ロメール」:他者をぶつけることでの主人公像

 『緑の光線』では、デルフィーヌを取り巻く人物、久しぶりに出会う友人、旅行先で出会った人物たち、など数多くの他者が登場し、彼女と言葉を交わす。そこでは、デルフィーヌの状況を巡った会話、肉食についての会話、恋愛観・男性観など、相手ごとに異なった話題を矢継ぎ早に、会話が繰り広げられる。彼女の感情は、その時々断片的に、吐露される。彼女は、休暇を過ごす相手がいない寂しさ、自分の欠点について、吐露する場面を見せるが、彼女自身が強がりから偽装する言葉、支離滅裂に映る彼女の行動・発言に、観客は彼女の感情を理解し、同情することを阻まれる。しかし、彼女の感情を理解し、彼女に同情・哀れみを抱くことはできなくても、彼女は彼女なりの意見を持っていることは分かる。彼女は、彼女の意見を主張するために、他者の主張に反論することをためらわない。彼女はその場から浮こうが、彼女自身の意見を突き通す。その一貫した様子を見て、彼女が何を感じているか、という感情面での理解は拒みながらも、感情を理解することはできなくても、一つの芯がある人物と感じられる。そうした迂回路を経由することで、ステレオタイプ的な感情を彼女に帰すことで、同情・憐れみを誘うことなく、彼女を一人の人間として、親近感の湧く存在に仕立て上げる。

 このように、『緑の光線』では、デルフィーヌが、多数の人物と種々の話題について、会話し、その中で、自分の意見を曲げることのない芯のある人物像を開示していく。デルフィーヌに他者と本筋に直結しない話題をぶつけることで、デルフィーヌ自身や彼らの周囲の人間に彼女の心情・性格などを言葉で語らせることなく、彼女を確固として画面に彫像する。こうした方法で、会話は巧みに利用される。

 

山本寛」:柔らかな自語りの完結性

 対して、『薄暮』では、モノローグによって、その時々の佐智の感情を語ってくれる。彼女が好きな散歩道の景色の描写、人間関係・恋愛への興味が薄いこと、バスでよく見るようになった雉子波への興味、彼と話してラインを交換できたときの高揚感、彼が思いを寄せる人がいると知ったときの動揺・不安、それを振り切ろうとする焦燥的な思い、彼と思いを通じ合えた喜び、などモノローグですべて語り始める。

 しかし、すべてが語られる言いつつも、語られないこともある。それこそが、彼女が感じている人への興味の希薄さの要因、雉子波との不和が生じた日の不安である。要するに、彼女が抱えている深刻な悩み、悩みの種については、明示的に語られない。そのことは、人を避けて一人で自然を楽しむ様子、幼い頃から続けるヴァイオリンを演奏する様子、雉子波の初恋相手の存在を知った後の彼女の振舞い、など彼女の行動に集約されていると思われる。

 一見すると、モノローグですべてを語る『薄暮』と言葉で大切なことは語られずただ会話が繰り広げられる『緑の光線』は、別物で正反対である。しかし、大切なことは語られないという点で、『緑の光線』と通じる道が生じる。デルフィーヌの感情・行動を理解することができなかったのと同様に、佐智の悩み・悩みの種が彼女自身から語られないので、彼女の悩みは何か、悩みの裏返しとなる、彼女が本当は何を求めているかは、不明のままである。

 『緑の光線』がデルフィーヌと他者との会話という間主観的な場で、芯の通ったデルフィーヌ像が築かれるのに対して、『薄暮』は、佐智のモノローグという主観的な<会話>から、可塑的な時期にある彼女の在り方が描かれる。しかし、彼女たちの求めているもの、すなわち欲望、あるいはその原因となる本質的な苦悩は語られない。その詳細については、彼女たちの話す態度や、『薄暮』については、ヴァイオリン演奏へ自分のアイデンティティを賭ける態度を見なければならないだろう。

 欲望や本質的な悩みを表現する地点で、ダイアローグの『緑の光線』とモノローグの『薄暮』は交差する。『薄暮』では、自らの芯が確立していない少女・少年を登場人物に据えている。それゆえ、外的な出来事に触れ、日々変化していく佐智が、その変わりつつある自分のみに話しかけるモノローグを取ることで、ある意味で<会話>は成立している。

 

結論

 以上で、『薄暮』と『君の名は。』、『薄暮』と『緑の光線』と比較してきた。二つの比較を通して、『薄暮』という作品について、幾分か見通しがよくなったように思う。そのため、最後に、前述してきた『薄暮』の特長を、『薄暮』が目指す地点に位置付ける。そして、本作がその地点に達しているかを判断して、本ブログは締めくくりたい。

 

薄暮」が目指す地点

 まず、『君の名は。』との比較から、『薄暮』は震災から現在に、現在進行形で続く被災状況を描いていることと解釈できた。そして、被災状況は、物理的・肉体的な被災状況ではなく、震災が与えた心の傷にフォーカスしている。特に、その傷は、感じやすい中学生の時期に被災した、佐智と雉子波を主役に据えて描かれる。そのことは、雉子波が、雉子波の印象を反映した絵画的な風景画を描いているところから、強調されている点も、指摘した。さらに、この精神的な被災状況は、次で触れるモノローグを通して、描かれる。

 次に、『緑の光線』との比較では、『薄暮』が多用するモノローグに焦点を当てた。モノローグは、佐智の心情を扱う主要な手段となる。まず、その都度の感情や考えがモノローグで断片的に語られる。しかし、彼女の本質的な悩みや彼女が望むことは語らない。その点は、モノローグ外で語られていると予測した。また、前述したように、佐智のモノローグは、精神的な被災状況を、多感な年齢ゆえに変わり続ける自分(他者)との会話として、『緑の光線』が持つ会話劇と共通することを指摘した。

 まとめれば、『薄暮』は、震災によって現在進行形で続く、精神的な被災状況を描いていると言える。精神的であるから、個々人がそれぞれに異なった悩みを抱えるという意味で、主観的であり、その主観性が、雉子波の絵、さらに佐智のモノローグで表現される。また、彼らが可塑性溢れた年齢であるからこそ、佐智のモノローグは単なる独り言にならず、変容し続ける自分という他者との会話に位置付けることができる。

 以上が、『薄暮』が目指したであろう目的地点である。

 

薄暮」が到達している地点

 『薄暮』の目的地点を書いた。上の特長を基準に置くならば、本作での目指すべきところは、震災を経験した佐智と雉子波が、現在進行形で続く悩みを抱えながら出会わせるところにある。それでは、主人公である佐智の悩みや求めるものは、何だったのだろうか。物語が終着した、お互いに思いを向ける恋人、または一つの達成を共に分かち合った仲間なのだろうか。自己陶酔的な佐智のモノローグに比して、この本質的な悩みは、語られもせず、表現されもしていないように思う。その本質的な悩みと予想した、精神的な被災状況は、あくまで佐智という人物を描写するだけの冗長なモノローグの行間に隠れ、本作全編を覆う淡さと混ざりあってしまったのだろうか。その点で、本作を、これまで災害を扱う作品と位置付けていたが、それは誤りで、あくまでも東北は舞台設定以上の意味を持たず、その中で「空気系・日常系アニメ」的な少女の日々を描く作品だったのかもしれない。

 

 とはいえ、そもそもの比較、比較から抽出した本作が目指す先自体、一つの見方に過ぎない。2019年の作品だが、本作を観た、数多くの考察が、本作のよい点を照らし出してくれるのを期待したい。

*1:災害を現在の問題に戻しながらも、『君の名は。』では、入れ替わりによって、災害自体を防いでしまっている。この点は、入れ替わりにより、ほとんど災害に関わりのなかった人間に、過去の災害を体験させるという意図と入れ替わりによってエンターテインメントに寄与できることの板挟みがあったことは否めないだろう。

*2:厳密には、会話と対話(ダイアローグ)は異なる。ロメールの他作品に通底するのが、一対一の対話である。そこでは、愛・人生観について、二人が顔を突き合わせて真摯に議論を交わす。それに対して、『緑の光線』は、対話部分もあるが、複数人を交えた会話部分も多い。しかし、この複数人でのやり取り部分の会話も、対話と捉えられる。というのも、複数人での場合でも、一対一での対話で見られるように、自己の意見を主張し、相手の主張を理解できるよう問いを投げかけ、異論がある場合は真面目に反論して、登場人物たちは、誠実な相互理解を図っているからである。そのため複数人で言葉を交わす場合も、ただ話をする会話というよりも、相互理解を目指している対話と呼んだ方が適切である。