【アニメ考察】嘘と本当の共生生活ー『エイリアン9』

© 富沢ひとし秋田書店/エイリアン9製作委員会

 

●原作
富沢ひとし秋田書店ヤングチャンピオンコミックス」刊)

●スタッフ
監督:藤本ジ朗(第1巻)/入江泰浩(第2~4巻)/シリーズ構成:村井さだゆき/キャラクターデザイン:入江泰浩/クリーチャーデザイン:岩倉和憲/美術監督:東潤一/色彩設定:店橋真弓/ 撮影監督:高瀬勝/編集:西山茂/音響監督:岩浪美和/音響制作:HALF H・P STUDIO/音楽:蓜島邦明/製作プロデューサー:杉山潔・並木俊治・田中茂裕・八木仁/企画:川城和実・柳沢隆行・前山寛邦・今西和人/プロデューサー:大沢信博(GENCO)・松倉友二(J.C.STAFF)/制作担当:加藤淳

アニメーション制作:GENCOJ.C.STAFF/製作:エイリアン9製作委員会

●キャラクター&キャスト
大谷ゆり井端珠里/川村くみ:清水香里/遠峰かすみ:下屋則子/久川めぐみ:久川綾/丘田知紗:佐久間レイ/ボウグ:中尾隆聖/珠木美佑:中山さら/イエローナイフ石田彰/ゆりの母:加藤優子/くみの母:豊島まさみ/かすみの父:永野広一

公式サイト:J.C.STAFF オフィシャルホームページ (jcstaff.co.jp)

 

 

※この考察はネタバレを含みます。

 

 

概要

 地上にエイリアンが降ってくるのが、当たり前の世界。エイリアンとの接触・エイリアンに対処する「エイリアン対策係」の設立が当たり前となった世界。今回取り上げる『エイリアン9』の世界である。第9小学校に通う主人公の大谷ユリは、エイリアン対策係に選ばれる。6年椿組のゆり、藤組の川村くみ、桃組の遠峰かすみの三人がエイリアン対策係となる。三人は、学校に出没したエイリアンを捕獲・撃退する、エイリアン対策係の活動をこなしていく。エイリアンに対抗するため、三人は共生型エイリアンの「ボウグ」を頭に被り、三人の力とボウグの力を合わせて係活動に励む。

 マンガ家富沢ひとしの同名代表作を原作に取りながら、一話を藤本ジ朗、二話~四話を入江泰浩が監督を務める。『この世界の片隅に』を代表作とする「プロデューサー集団」GENCOと『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか』、『アイの歌声を聴かせて』を代表作とするJ.C.STAFFが制作する。

 

ストーリー紹介

 エイリアン対策係に任命された三人は、共生型エイリアンを装着して、学校の平穏を守るため、エイリアン討伐活動にいそしむ。臆病なゆりは、いつまでも対策係の活動に慣れない。ゆりを中心として、少女たちの悩み、そして彼女たちを巻き込む、陰謀が彼女たちに迫る。

 

何を書く?

 ストーリーを簡単に紹介したように、本作では、エイリアンが登場するSFホラー要素が描かれると同時に、エイリアン対策係のメンバーとゆりの親友珠木美佑たちの人物模様が描かれる。前者の要素では、類似タイトルの実写映画『エイリアン』に似た、SFホラー要素を持っている。また、後者の要素では、エイリアンが存在するのが当たり前の世界で、当たり前に起こる少女たちの人間模様が描かれる。まとめてしまうと、「ほのぼの日常系SFホラー」とでも呼べる作品に仕上がっている。

 そのため、本ブログでは、ほのぼの日常系SFホラーという位置づけから、SFホラー要素・ほのぼの日常系要素を順に取り上げ、『エイリアン9』の魅力は何だったのか見ていきたい。

 

ほのぼのSFホラー

「エイリアン」の位置づけ

 世界観に言及したように、『エイリアン9』の世界は、エイリアンの存在が当たり前の世界である。しかし、その存在が当たり前だと言っても、エイリアンと良好な関係を築き、共生しているわけではない。エイリアンは空から飛来し、人間に危害を加えるものが大半のため、日常(学校)生活の中に、対エイリアンの活動が組み込まれている。エイリアンの知識は社会の授業の知識とされ、エイリアンに対処するため学校にエイリアン対策係が設置されている。「エイリアン」が、本来「よそ者」、「異人」という意味するのだが、この世界観では「異星人」も日常的に地上に飛来しており、日常と化している。それでも、人間に害をなすエイリアンたちは、侵略目的で飛来しているとみなされ、共生の対象ではなく、撃退の対象とされている。

 

鏡の二面性

 日常に組み込まれながらも、その存在を認められていない。エイリアンは二重の立場に置かれている。そのことは、本作自体が、少女たちの日常を描きながら、エイリアンを主題とするSFホラーを同時に描いていることにも重なる。これらの二面性を端的に表すのが、鏡を代表とする反射物の二面性である。

 本作では、鏡・窓ガラス・机などに反射した(鏡)像が丁寧に作画されている。もちろん、このことは反射という事実を、本作の世界にも持ち込むことで、突拍子もないこの世界にリアリティを付与する。すなわち、反射は、『エイリアン9』という絵の世界に情報量を追加する。しかし、反射の効果はこれに尽きず、むしろこのリアリティの獲得は副次的なものに過ぎない。

 反射が主にもたらすのは、先述したように、二面性の象徴である。本作には、少女たちが体験する日常とSF的非日常、味方と敵、自分と(内的・外的)他者、現実と夢などの二面性が多分に含まれている。そして、その二分は物語から、すなわち少女たちがエイリアン対策係に選ばれたときから徐々に、一面的な日常生活を侵略していくのだが、ここではまず、この二面性がうまく融合された形で表現された事例を出発点にする。

 

世界の映り込み

 この事例とは、一話にある、エイリアン対策係の担当教師久川めぐみの自室シーンである。日課であるエイリアン対策係の記録を付け終わった後、彼女は鏡の前に座る。三面鏡の中心にある鏡は、彼女の姿をまっすぐに、視聴者が見たままの姿を映す。カメラは左からの肩越しに鏡を映している。カメラはゆっくりと左へスライドして、三面鏡の右側がフレームに収まる位置取りに至ったとき、彼女のもう一つの顔が見える。右側の鏡に彼女の顔の右側が映ると、右側の鏡と彼女の姿が混ざり合い、異様に目元が寄った奇妙な彼女の像ができる。その直後、彼女の髪がうねり始め、対策係のメンバーが被っていたボウグと同じドリル上の触手へと変貌する。

 彼女の変貌は、身体的な変貌に収まることなく、彼女のイメージをも揺らがせる。彼女はエイリアン対策係のメンバーの味方か、それとも敵なのか。エイリアン対策係を率いて、エイリアン捕獲という名目で学校活動に勤しむ教師像から、人間かも怪しい得体のしれない教師像へと変貌する。得体のしれなさは、本作を彩る一つの要素、SFホラーの重要な一端を担い、本作の一つの主役であるエイリアンはその「得体のしれなさ」を秘めている。

 

SFホラー

思考・感情の共有

 本作では、多種多様のエイリアンが登場するわけではない。その少数のエイリアンの中でも、異彩を放つのが、ゆりたちエイリアン対策係が被るエイリアンである。共生型エイリアンに分類され、「ボウグ」と呼ばれる。ボウグは宿主を守り、宿主は老廃物をボウグに老廃物を提供する。そうした宿主とボウグの交換条件を経て、ボウグと宿主は共生関係を構築する。

 ボウグの奇妙な点は、宿主の思考・感情がボウグへと共有される点だ。ボウグは宿主の精神状態の影響下に置かれ、宿主の強い感情によってボウグは過剰に反応する。

 ボウグは人間に危害を加えないエイリアンといえども、人間に固有の意志疎通方法に依らずとも、感情の共有ができる奇怪な存在である。ボウグは、言語によるコミュニケーションが可能である。ただ、宿主の感情は一方的に流れ込んでくるようだ。

 感情を勝手に読み取るボウグの力と頭に被るボウグの装備形態を見ると、ボウグを被った少女たちの姿自体に、共生型と言いつつも、宿主を乗っ取る可能性があるなど不穏さが付きまとう。その不穏さを加速させるのは、前述しためぐみ髪の毛がボウグの触手に変わるシーンである。エイリアン対策係の三人もめぐみのようになるのでは、という疑問が頭をもたげる。他のエイリアンについてもそうだが、エイリアン対策係を守るボウグについて、ボウグひいてはエイリアンの正体が明らかにされないため、ボウグを被るという行為自体が、視聴者の不安を煽り、不穏さを感じさせる。

 

ボウグの真価から過成長

ユリを守るボウグ

 ボウグに根付く不安感は、宿主の感情が自動伝導することにとどまらない。ボウグは宿主を受動的に守るだけではなく、他のエイリアンに対抗する力を持っているために、侵略エイリアン同様に、人類の脅威となる可能性を秘めている。そのことが、印象的に描かれるのは、主人公ゆりの「恐い」という強い感情により、ボウグが防衛・暴走した二つのシーンである。

 一つ目は、一話でのエイリアン対策係の初活動である。ローラースケート、転倒用のプロテクターを身につけ、対策係の三人は小型のエイリアンに立ち向かう。みく・かすみが取りこぼしたエイリアンがゆりに飛びかかったとき、ゆりは「恐い」と立ちすくんでしまう。恐怖の感情を受け取り、ドリル状の触手を広げ、小型のエイリアンを串刺しにする。

 ここでの色を用いた演出が面白い。地を這うエイリアンが飛び掛かるとき、白と黒の色調を効果的に利用している。ボウグが覚醒して、触手を一挙に広げたとき、諦めて目を背けるゆりと連動するように、背景が真っ白に変わる。その瞬間、白の背景に置いて、ゆりと触手を広げるボウグが、黒く塗りつぶされ、白黒の切り絵のように画面に浮かび上がる。白い背景の中で、覚醒するシルエットは、天使の羽から幾多の管が伸びる。続いて、白背景からカラーに戻ると、ボウグはゆりを抱え、触手をエイリアンへと伸ばす。再度、カメラは引き、今度は赤い背景に変わる。ボウグがエイリアンを触手で刺し殺す瞬間を、赤背景に乗るシルエットの黒が鮮やかに描き出す。そして、画面はカラーに戻る。ボウグの舌がエイリアンをあっさりとつぶし、中から緑色の体液が飛散する。飛散した体液は、粘り気まで描写され、自分にかかった体液を見て、ゆりは気絶してしまう。

 以上記述してきたように、初めてボウグが覚醒するシーンを劇的にしたのは、ボウグの動きに彩りを与えた色の要素である。背景の白と赤は、シルエットとなり、正体がつかめないボウグを印象的に映し、背景の赤で連想されるエイリアンの血は、緑色であることから、人間とは異なることを嫌でも指し示す。また、ゆりを守るために触手を広げる際は白の背景で、小型エイリアンを殺すシーンは赤の背景を使い分け、「宿主を守り外敵を排除する」ボウグが持つ攻・守の二面性を巧みに表現する。少ないショットで、だが触手の挙動はスローモーションで描き出し、いつの間にか体液がかかっていたゆりの時間間隔を画面に反映させながら、色彩を効果的に用いることで、初めてのエイリアン対策係の活動に、多重な意味が重ねられる見ごたえのあるシーンになっている。

 

ボウグとユリの過成長

 二つ目は、二話で、捕獲されたエイリアンをゆりが世話をしている最中に、寄生型エイリアンに襲われ、二度目のボウグの覚醒(暴走)を果たしたシーンである。このシーンは、宿主であるゆりの感情によって、宿主を守り、宿主の意思とは関係なしに、エイリアンを殺し尽くしもするボウグの恐ろしさが如実に表れるシーンである。寄生型エイリアンに襲われるとき、ゆりは背後から近づくエイリアンたちに気づかない。彼女が感知していないため、ボウグは寄生型エイリアンの触手に刺される直前で気が付くも、応戦することができない。自分が被るボウグの血が顔を伝って初めて、ゆりは襲われている事実に気づく。訳も分からない彼女は、一話より遥かに強い「恐い」という感情をボウグと共有してしまう。その結果、ボウグは暴走し、彼女と一体化し、彼女の頭から伸びる白髪がドリルへと変化し、寄生型エイリアンやその場に居た捕獲済エイリアンもろとも殺戮する。殺し尽くしたゆりとボウグは、白髪と化していたボウグが彼女の頭から脱げ、彼女たちの暴走は停止する。

 二つ目のシーンで用いられるのは、一つ目のシーンとは異なり、色ではなく、クローズアップショット・カメラワークである。寄生型エイリアンの触手にボウグが刺された際、苦痛に歪むボウグの顔がクローズアップで画面に映る。同一ショット内で、そのボウグを被ったゆりが顔を上げ、ボウグの顔があった位置に、恐怖で歪むゆりの顔が重なるように映る。ゆりとボウグのシンクロの純度は、カメラワークを利用して高められる。ボウグの血が滴る様子を二ショット映し、次ショットでは、エイリアンに寄生された少年たちからその前方に位置するゆりへとカメラが引いてくる大胆なカメラワークを取っている。寄生された少年たちからゆりへと引くカメラワークは、カメラワークの終点でゆり・ボウグを画面の中心に置きながら、奥と少年と手前のゆりを同じ秤にかける効果がある。寄生型エイリアンと寄生された少年を、ボウグとゆりと比較する俎上に上げることで、彼女たちの関係性がより明確になる。

 カメラワークの終点では、寄生型エイリアンと寄生された少年が背景に立ち、ゆりと共生型エイリアンのボウグが前方に居る。背景に映る少年たちからカメラが引いてきた先のゆりたちは、全く別物のエイリアンとの付き合い方に見える。前者が、一方を支配することによって一つになるのに対して、後者が、お互いの自我は保ちつつ、感情面でのつながりによって一つになる。こうした意味で、背景(地)の寄生型と主題(図)の共生型の違いを奥行きでつけることによって、カメラの引きはゆりとボウグのシンクロは強調する。

 最終的には、ゆりの恐怖が最高潮に達したとき、ボウグの上部がゆりから剥がれ落ち、そこから白髪が広がる。ここからはボウグによる殺戮の時間である。白髪は触手へと変わり、寄生型エイリアンを触手と瞬時に突き殺すと、続いて捕獲済みの檻の中のエイリアンを蹂躙する。異形で多様な形態を持つエイリアンたちを、これまた多様な殺し方で、臓器・体液をまき散らすグロテスクさ際立つ作画でもって、ボウグの殺戮シーンが描き出される。一話で見ためぐみの髪からゆりの髪へ連想され、不可逆的な変化を推測するよう促し、暴走する可能性のあるボウグ恐ろしさを表現していく。

 

学校に差す影

 以上で述べてきた、ゆりたちとエイリアンの関係は、学校を舞台にして描かれている。彼女たちの学校では、俯瞰のショットが多用されている。俯瞰ショットは、視聴者に多くの情報を提供してくれ、学校の様々な顔を見せてくれる。その中でも、渡り廊下や校舎の建物が作る影は視聴者の目につきやすく、意味ありげに映る。本作に差す影の部分、すなわちエイリアンの恐さや大人たちの陰謀は本作の展開に影を落とし、同時に学校という建造物が生む影が差すことで、ゆりたち少女が生きる世界に立体感を醸し出し、彼女たちが生活する日常の空間を構築してくれる。次に、本作が持つSFホラーとは別にある、少女たちの日常部分、人間模様に目を向けてみたい。

 

ほのぼの日常系

 本作の魅力は、単純に『エイリアン』的なSFホラーのみで成立しているわけではない。このSFホラーの象徴たるエイリアンたちが、闖入していく少女たちの日常と掛け合わさることにある。つまりは、日常シーンも魅力があるのである。本作の中でも、エイリアン対策係の三人とゆりの親友美優の仲が深まる三話のシーンを中心にみていきたい。以前、『ヒーラー・ガール』を取り上げた際にも書いたように、二話~四話の監督入江泰浩は、画面内に奥行きを利用することに長け、またフレーム内の人物配置により、いとも簡単に人物の関係性に築き上げてしまう。本作でも、この奥行きと人物配置に加えて、視線という点で、具体的なシーンを見ていきたい。

 

『ヒーラー・ガール』については、以下記事をご参照ください。

nichcha-0925.hatenablog.com

 

同一空間の使用

 夏休み前を予感させる三話のアバンタイトルでは、画面が極度に制限されていたり、逆に弛緩させられたりと、急激な変化を画面に持ち込んでいる。担任に対策係をやめたいと打診するゆりのショット、訓練に励むかすみとくみのショットは障害物により、画面が制約される。それに対して、職員室から出てきたであろうゆりが渡り廊下を通り、エイリアン対策係の部屋につくときには、渡り廊下は奥行きが、部屋は広さが異様に強調されて映される。否が応でも、彼女たちが立つ空間に目を向けさせられ、視聴者が空間に敏感な目を保持したまま、いつものOPが始まり、いつものOPの終わりとともに、彼女たちの夏休みが始まる。

 

夏休みの電車

 ベッドにもぐりこむゆりを、三人が向かいに来て、彼女たちの夏休みの光景が始まる。母親に起こされ玄関に向かうと、扉の前には三人の姿が目に入る。二話の時点では、ゆり宅に来るか迷っていたくみは扉の前にいなかったが、今回は三人が扉の前に収まるように立っている。ここでゆりと彼女を迎える三人の構図が出来上がる。

 直後のシーンでは、急いで電車に乗り込むシーンに移る。奥の跨線橋を走る四人が見えて、彼女たちは跨線橋の窓から一瞬消える。そのまま同一ショット内で、カメラがパンダウンした先に跨線橋の下り階段が見える。彼女たちはそこから降りてきて、電車に乗り込んでいく。この一連の流れがワンショットで展開され、ホームから電車へ乗り込む彼女たちの足元のクローズアップが映し出される。彼女たちのホームの移動をカットなしに映すことで、彼女たちが電車に乗るまでに、跨線橋・下り階段・ホームを経由する駅の奥行きを与える。また、直後の足元のクローズアップでは、最後尾を走るゆりの足が見えるタイミングを、他の三人が見えるタイミングとずらすことによって、三人から遅れるゆりの特徴(=運動が苦手)を描写しながら、ゆり宅で見えたゆりと三人の構図がここでも維持されている*1

 

手前と奥_別荘地でのやり方

 電車は別荘地の最寄り駅に着き、船でかすみの家族が持つ別荘地へ向かう。別荘地で印象的なのは、部屋に入った直後の四人の動きである*2。特に美優の描き方である。別荘地について質問するくみとゆり、それに答えるかすみが画面手前に位置取り、美優は外の景色に誘われて、画面中央部に位置する奥のカーテン前に進んでいく。手前の三人での会話が進む中、カーテンの外を確認している美優、そして数ショット挟んで、美優が見せる夕日が画面に広がっていく。

 彼女たちが対策係の三人を手前に置き、奥に美優を見せることで、対策係の三人と美優の関係性が表現される。また、ここで対策係の三人に共有されるかすみ兄の話は、四話で登場するエイリアンのイエローナイフ戦への伏線となっている。このシーンでは、このような関係性・物語の伏線を張りながら、端的に彼女たちが過ごす別荘の空間を視聴者に提示する。手前の三人と奥の美優に分け奥行きを感じさせる構図、夕日ショットから引いてくるカメラワークは、絵でしかないアニメーション空間に、彼女たちが生きる確かさを与えている。

 

視線のやり取りと関係性

 別荘でのシーンの後、三人は海で遊び、肝試しをする。夏の風物詩を楽しむ中で、夏夜の風物詩である花火のシーンが挟まる。このシーンの前で、くみ・かすみはボウグの影響によって、ゆりの悪夢に同期し、彼女が夜中に苦しんでいる様子を目撃する。そして、くみは、ゆりと花火を買いに行った際、ゆりの肩を抱きながら、みんな友達だからいつも一緒と伝えて、彼女を安心させる。

 続く、花火のシーンでは、視線の行き交いを通じて、登場人物たちの思いを画面に表現する。くみ・かすみがゆりに視線を向け、視線を受けたゆりは花火からみく*3を見て赤面する。ゆりの様子を見たかすみは何かを察し、くみに視線を向ける。くみもゆりを見ていたが、かすみの視線を感じ、かすみの方を見るも、すぐにそっぽを向く。会話のないこのシーンで、「三人が何を思っているのか」、が視線のやり取りから一目瞭然になる。

 また、このシーンでは、誰をどのようにショット内に映すか、そしてどこを見ているかが非常に重要となる。この一連のショットは端的に言えば、ゆりの悪夢をくみ・かすみが見て、そのあとにゆりとくみの関係性が進展し、かつその進展にかすみが気付く、という展開を表現する場面である。そのため、悪夢を共有できていない美優は、この三人の視線のやり取りには参加できない。ショットを見ていくと、ゆりのクローズアップで、ゆりと美優二人が同じ先、すなわち花火を見ているとき、美優はゆりの奥に位置し、顔全体が映っている。しかし、ゆりがくみとかすみの視線に気づいたとき、カメラはゆりの顔に寄って行く。徐々に美優は画面から見切れていくが、かろうじて右目周囲はフレーム内に収まる。このとき、この美優の右目は花火を見続けているが、ゆりはくみとかすみの視線に気づき、二人の方向に視線が向く。ゆりと美優の視線にずれが生じる。このずれを見せるために、美優の右目がフレームに残るよう配置される。そしてこのずれが表現されることによって、ボウグによって夢(や感情)を共有するようになったエイリアン対策係の三人の特別性が読み取ることができる。

 こうして見ていくと、元々友人のゆりと美優、ゆりを心配するみくとかすみのツーショット、視線の会話をする三人と局外の美優など、フレーム内の人物配置と視線のやり取りによって、花火の音、祭り客の盛り上がりなどの意味を欠いた音のない空間に、感情・思い・関係性における意味を充満させる。

 視線のずれを指摘してきたが、最終的に、彼女たちの視線は、夜空に轟き花を咲かせる打ち上げ花火に注がれる*4。ここで、全員が空を見上げ、彼女たちの視線は一致する。花火のショットが終わると画面は暗転し、彼女たちの仲を深めた夏休みは明け、学校開始初日のゆりの部屋へとシーンは移る。

 

楽しい本当の夏の思い出

 夏休みに別荘で遊ぶという非日常的でありながらも、海・肝試し・夏祭り・花火という夏の風物詩を楽しむ様子が映されてきた。その中で、ぎこちなかった四人は、最後に同じ花火を見て、仲が深まったと予想させる。花火のシーンから暗転、そしてゆりが朝に起きるシーンにショットが繋がれることで、ゆりにとって夏の思い出が、夢のような時間だったことが強調される。ただ、これは夢ではない。そのことを証明するように、机横のコルクボードには、ゆりたちが作中で撮影した写真や作中のシーンが写真として、数多く貼られている。写真とバス停でのくみとの会話から力を得て、彼女のエイリアン対策係がある学校生活へと戻っていく。

 

 以上で、エイリアンの存在が当たり前の世界観にある、少女たちの人間模様をいかに描写していくかを、ほんの一部のシーンのみだが記述してきた。彼女たちが過ごす空間を創造し、フレームの人物配置で、彼女たちの関係性を画面に立ち表す。こうして、四話で登場する最終エイリアンが闖入する先である、少女たちの日常をしっかりと準備し、物語は一挙に佳境に突き進んでいく。

 最後に、ここまで触れてきた「SFホラー」と「ほのぼの日常系」を本作が共生させる要素を見ていく。この共生が行き着く先、物語のラストに触れて稿を終えたい。

 

不穏で楽しい共生

 以上のところでは、「SFホラー」の要素と「ほのぼの日常系」の要素をそれぞれ別個に指摘してきた。しかし、相反するような二つの要素は順不同に差し込まれて、各話で一方の比重が高いことはあるにせよ、双方の要素は丁寧に描かれてきた。二つの要素は、本作の中で混ざり合い、共生している。前述した二面性は、本作を貫く「SFホラー」と「ほのぼの日常系」の二分だけではなく、鏡で作られた二面性など多くの二面性が象徴的に用いられている。

 最終話四話のラストでは、物語世界の二面性の一つ、「現実」と「夢」が、今まで截然と分けられてきたのに対して、混濁した形で提示される。EDがかかる中、治療を受けるかすみ、ローラースケートで滑るくみ、机に宿題を広げるゆりが個別のショットで映る。窓から見える空の青さに対して、モノクロの図書館でくみは絶命している。続くショットで、ゆりが目覚めるショット、ゆりのいる部屋、ゆりが泣き出す涙を流すシーンへとショットへと繋がれる。そして、エンドロールが流れ始める、という衝撃的なラストを迎える。

 展開の衝撃さに加えて、くみの死が現実だったのかだとか、なぜ死んだのかという疑問に回答は与えられないまま、無情にもエンドロールが流れ始める。くみが倒れているショットからゆりの目覚めへのモンタージュにより、悪夢を見てきたゆりの夢だったのでは、と「現実」と「夢」の境目はあいまいとなる。

 本作の「二面性」に指摘する際、めぐみの髪が触手に変わるシーンについて触れた。めぐみが持つ教師像の二面性、すなわち味方か敵か(人かエイリアンか)という謎を取り出した根拠は、めぐみの髪=ボウグの触手から、めぐみとボウグが一体化している、と想像できるとこ炉にある。物語ラストの「現実」と「夢」にあるあいまいなすみ分けは、住み分けと言うにはおぼろげなほど、どちらか判別がつかず一体化しているものと言える。暗い図書館、影にいるエイリアン対策係の三人はモノクロに描かれ、光に当たる背景や人物(めぐみ)とは色合いが全く異なっている。かすみの死は「現実」か「夢」か、モノクロで映されていた登場人物は「現実」か「夢」か、きっぱりと分けることができない。ゆりが悪夢を見るようになったのが、ボウグを被ってからだったのを思い出すと、もしかすると、この「現実」と「夢」が混濁したラストは、ボウグが原因だったのではないだろうか。共生型エイリアンのボウグと人間は、本当に「共生」していたのだろうか。最終のエイリアン、イエローナイフを倒した後も、不穏さの「SFホラー」、楽し気な「ほのぼの日常系」、どちらの可能性を残している。思い返してみると、どっち付かずで居心地の悪い「共生」こそが、不穏で楽しい『エイリアン9』の醍醐味なのかもしれない。

 

*1:直後の車内のシーンでは、ゆり・美優とくみ・かすみのツーショットとなる。以後、ゆりがツーショットで映るのは、美優だけであるが、肝試しでくみに助けを求めてから、海・バス停とくみとのツーショットが多く挟まれる。最後には、花火のシーンで、ゆりとくみの顔のクローズアップのツーショットで夏休みは幕を閉じる。

*2:別荘に入った直後から、組み分けがなされる。天井に吊られる自転車に重なるかすみ、自転車と重ならない右側を通るゆり・くみ・美優の三人。ここでは、ホスト(かすみ)とゲスト(三人)に分けられる。その後に、本文で記述する美優とエイリアン対策係(三人)が分けられる。

*3:ゆりのショットとくみ・かすみの反応を映しているショットしかないため、みくを見て赤面したかはわからない。そのため、正確には、「二人の方を見て赤面した」となる。

*4:ここでは、画面に些細な嘘がつかれる。花火を見上げる彼女たちが、ゆり(手前)・くみ(奥)とかすみ(手前)・美優(奥)のツーショットが映る。ここでの並びは、直前に視線の会話が行われたときと並びが異なっている。後者が、ゆりから時計回りに、美優・くみ・かすみの順で円形に並んでいたのに対して、前者では、ゆりから時計回りに、かすみ・美優・くみの並びに変わっている。この並びの嘘は、最後にゆりとくみのツーショットを入れるために、苦肉の策であるが最善のものとして取られているように思える。