【アニメ考察】シスコンから外れた特別で普通な兄妹関係―『青春ブタ野郎はおでかけシスターの夢を見ない』

©2022 鴨志田 一/KADOKAWA/青ブタ Project

 

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●原作
鴨志田一青春ブタ野郎はおでかけシスターの夢を見ない』(電撃文庫刊 「『青春ブタ野郎』シリーズ」)

●スタッフ
監督:増井壮一/構成・脚本:横谷昌宏/キャラクターデザイン・総作画監督:田村里美/プロップデザイン:道下康太/美術設定:塩澤良憲/美術監督:大久保聡/色彩設計:横田明日香/3Dディレクター:織田健吾 ・田中葉月/2Dワークス・特殊効果:内海紗耶/撮影監督:楊暁牧/編集:三嶋章紀/音響監督:岩浪美和/音楽:fox capture plan

制作会社:CloverWorks

●キャラクター&キャスト
梓川咲太:石川界人桜島麻衣:瀬戸麻沙美梓川花楓:久保ユリカ/古賀朋絵:東山奈央/双葉理央:種﨑敦美/豊浜のどか:内田真礼/広川卯月:雨宮天

公式サイト:劇場アニメ「青春ブタ野郎はおでかけシスターの夢を見ない」公式サイト (ao-buta.com)
公式Twitterアニメ「青春ブタ野郎」シリーズ公式 (@aobuta_anime) / Twitter

 

 

※この考察はネタバレを含みます。

 

 

概要

青春ブタ野郎』シリーズについて

 本作特有の思春期に発症する「思春期症候群」を巡って、江ノ島を舞台に主人公の梓川咲太を中心として、抗う姿が描かれる。2012年にアニメ化もされた『さくら荘のペットな彼女』(以下『さくら荘』)のコンビ、鴨志田一(著)・溝口ケージ(キャラクターデザイン)の同名シリーズ(「青春ブタ野郎」シリーズ)を原作とする。『さくら荘』では、芸術大学の附属高校を舞台に、創作に付いて回る天才と凡人の格差、そして彼らの中で巻き起こる事件・ラブコメ展開が、エネルギッシュな青春物語として提示された。対して、『青春ブタ野郎』シリーズでは同じ高校生を扱いながら、女優・アイドル・家族不和の少女・不登校など、それぞれの登場人物が受けた心の傷が、多感さゆえに増幅され、非現実的な現実の傷として現象する様が描かれる。

 また、『さくら荘』と『青春ブタ野郎』シリーズでは、作品を骨格となるシリアスなテーマに違いがあるとともに、そこに挟まれる笑いの作り方も異なっている。前者が、上井草美咲・椎名ましろの常人離れした「宇宙人」が起こす奇想天外な言動・出来事とそれに反応する常識人側の登場人物たちが見せる反応のギャップが、笑いを生み、胸を刺すようなシリアスなオアシスを提供していた。後者では、そういった「宇宙人」が登場するのではなく、常識人である主人公の咲太が意図的に相手へずれた回答をしたかと思えば、ずらさず正直で率直な回答して相手が面食らうところに、笑いを生むきっかけがある。

 そのずれが悩みに苦しむ各登場人物を和ませ、気が滅入るエピソードにシリアス一辺倒を回避してくれる。というのが、鴨志田一の代表作であり、キャラクターデザインの溝口ケージ二人コンビの代表作が持っている共通点と相違点である。

 『青春ブタ野郎は○○○の夢を見ない』と題された第五巻までをテレビアニメで2018年に放映され、2019年には六、七巻を劇場公開された。そして、第八巻を基にした『青春ブタ野郎はおでかけシスターの夢を見ない』が現在絶賛上映中である。いずれも、監督増井壮一、制作会社はCloverWorksが担当する。今回は、本作について書いていきたい。

 

ストーリー

高校二年生の三学期を迎えた梓川咲太。

三年生の先輩であり恋人の桜島麻衣と、峰ヶ原高校で一緒に過ごせる学生生活も残り僅かとなった。

そんななか、長年おうち大好きだった妹の花楓は、誰にも明かしたことのない胸の内を咲太に打ち明ける。

「お兄ちゃんが行ってる高校に行きたい」

それは花楓にとって大きな決意。

極めて難しい選択と知りながらも、咲太は優しく花楓の背中を押すことを決める。

『かえで』から『花楓』へ託された想い。

二人で踏み出す未来への物語。

(劇場アニメ「青春ブタ野郎はおでかけシスターの夢を見ない」公式サイト (ao-buta.com))

 

 本作では、不登校時に生まれた人格「かえで」からバトンを渡された「花楓」が、不登校だった自分の現状とこれからについて、悩み・踏み出すための物語である。彼女の苦悩は、自分とは異なる「かえで」への負い目、学校に行けず「普通」・「みんな」とは違う自分に根差している。彼女の変化は、「かえで」の目標を引き継いで「お兄ちゃんと同じ学校に行きたい」と言ったところから、「自分で行きたい学校は決める」と言った宣言に見られる。

 本ブログでは、二点に注目して、本作を見ていきたい。それは、「触れること・触れないこと」と「兄にとって妹は普通」という二つのポイントである。一つ目のポイントでは、本作で見られる特徴的な手の動作に注目して、手で「触れること」がもたらす効果、そして逆に「花楓」の中学の同級生が触れずにかつ全く意図なく、目で「花楓」を受験不可能にした点で、「触れないこと」を取り上げたい。二つ目のポイントは、「かえで」への引け目を語る「花楓」に対して、兄の咲太が、「かえで」も「花楓」も好きじゃなくて「普通」だ、と語ったセリフにも関係してくる。彼が語る「普通」が「花楓」に与えた影響についても考えてみたい。その「普通」の真意を読みほどいていくと、特別だが普通という兄から妹へ向けられる独特な感情が見えてくる。その感情の源泉となる、「かえで」も「花楓」も咲太の妹という事実から、「花楓」は新たに自分が望む道を進む決意を固めていく。その過程を、上記二点を言及することで、確認していきたい。

 

触れて伝え、触れないで伝わらない

触れるコミュニケーション

 本作の咲太は、複数回妹の花楓の頬をもてあそぶ。ふっくらとした頬を、咲太の手に覆われて形態を変化させる。多少過剰のきらいはあるが、兄妹のみに許されたスキンシップがそこにある。というのも、彼以外花楓の頬に触れる者はいないからだ。それもそのはずで、花楓の幼馴染の鹿野琴美以外、登場するのは兄の友人・彼女だからである。そうした状況は、両親と離れ離れに暮らす二人の状況と合わさり、二人の兄妹関係に本作で特に色濃いスポットライトが当てられている。

 頬に触れる、そして肩に手を置くなど、咲太から花楓へのコミュニケーションが、いわば手のひらでのコミュニケーションであったなら、咲太とその恋人である麻衣とのコミュニケーションは、指先でのコミュニケーションであった。学校から帰宅する二人は、電車内からお互いの小指だけに触れる形で、指をつないでいる。そのようなさりげないスキンシップでも、自宅近くでその様子を目撃した花楓に驚かれ、麻衣のマネージャーに見つかり注意を受ける。

 また、指先でのコミュニケーションは別のところでも見られる。咲太が、麻衣・花楓に黙って、通信制高校の学校説明会に出席し、帰宅後に麻衣に問い詰められるシーンである。咲太の着替え中に入ってきた麻衣は、意にも関せず、彼に向き合うように、ベッドに座る。そして、彼を問い詰め、一通りの尋問が終わったところで、彼女から咲太に近寄り、体の中心に向かって、人差し指を差し出す。そのように、いいムードが作られてすぐ、花楓が麻衣同様に部屋に闖入し、ムードもこのシーンも断ち切られることになる。

 以上、咲太と花楓、咲太と麻衣の二組の関係性*1を、対比する形で並べてみた。一方が手のひらでのコミュニケーションが意識されていたのに対して、他方が指先でのコミュニケーションが志向されていた。この手への注目は、描写の力によって、補強されている。例えば、上記した咲太や麻衣の行動以外に、ノートに書きつける花楓の手、手作り弁当を咲太の口に運び、弁当箱をてきぱきと片付ける麻衣の手に、省略しても成立する箇所であるにもかかわらず、滑らかな作画に手に対するフェチ的な快楽すら感じる。快楽を生み、登場人物間で何事かを伝達する手は、そのコミュニケーションの在り方の違いから、異なる関係性を明示している。そして、本作ではこの関係性こそが重要になってくる。

 

触れないディスコミュニケーション

 先に、触れることについて、二組の関係性を提示した。この関係性の対比により、咲太と花楓、咲太と麻衣の関係性それぞれが浮かび上がる。しかし、対比は触れることの内部のみではなく、もう一段階大きい「触れること」と「触れないこと」の間でも起こる。このことがわかりやすいのが、峰ヶ原高校受験当日の昼休みに、花楓が同じ中学の生徒を発見して、一瞬目が合ったことにより、体調を崩し、受験を受けられなくなったシーンである。このシーンでは、花楓や相手の同級生に、表情や動きに意味深長には演出されていない。推測になるが、相手の女生徒は、すれ違う際、花楓の全身を一瞥し、次いで顔に目を向けて花楓と目が合い、すぐに視線を外して、流れるように歩行先へ視線を向けている。そのとき、一瞥ごとに、表情の変化・動作の変化、あるいはセリフがあるわけではない。そのため、これまた視線から推測になるが、女生徒にとってはトイレから出て、同じ制服の生徒がいたから、顔を見たが知らない生徒だったので、また歩行先に目を向けただけのシーンに過ぎない。しかし、相手にとっては何ともない一瞥が、花楓にとっては意味を持ってしまったことは重要である。

 このシーンの後、咲太が保健室に来るまで、花楓は誰とも話せず、保健室の布団にくるまっていた。そして、到着した咲太に思いを吐露する中で言ったあることが、「触れないこと」のもう一つの観点を形作る。すなわち、もう一人の「かえで」はもっと頑張っていたし、お兄ちゃんも私(=「花楓」)よりも、「かえで」の方がよかったのではないか、と彼女は言葉を吐き出す。そのことに憤りを感じる咲太だったが、咲太自身が「花楓」にそう感じさせたシーンがそれ以前にあった。麻衣と花楓二人で、咲太のバイト先のファミレスに来たシーンである。料理を運んできた咲太は、二人としばし話をする。その際に、オムライスを食べる「花楓」に「かえで」を重ねていることがフラッシュバックで描写され、その後「花楓」の左手のクローズアップが映る。このシーンで、「花楓」は咲太の視線に怪訝な表情をし、咲太に問いかけるが、彼もうまく答えられず、彼女もそれ以上聞くことはできない。その場を麻衣が収めるというシーンだった。

 もちろんこのシーンは、咲太が二人を重ねていることを観客は知っているから、二人の雰囲気が悪くなっていて、麻衣がその雰囲気を察して場を収めたことはわかる。だが、ここで「触れないこと」の点で重要なのは、観客のように咲太の心の内を透かして見られない花楓が、咲太のちょっとした視線から何らかの推測を経て、自分よりも「かえで」の方がよかったのでは、と推測してしまう花楓の視線への過敏さである。

 以上の二点で見たのは、触れないときの視線に、いかに花楓が過敏になっているかである。触れないで、何を考えているか正確に答えを出すことができないために、「花楓」に戻ったばかりで不安定な花楓は、視線の先に何を考えているか悲観的に推測してしまう。その思いが爆発してしまったのが、受験当日だった。彼女は視線に、過剰に意味を見いだしてしまう。それも悲観的な意味を。そんな彼女が望むのは、視線の意味探しをやめて、屈託なく視線を受け止められる「普通」さである。毎日、朝起きて、学校に行き、授業を受けて、友達と遊んで、放課後に家に帰ってくる。そのような「普通」である。

 

普通がいい

 「花楓」の願いは、「かえで」の思いを継ぐことと「普通」であることだ。その二点が収束するのが、峰ヶ原高校への進学である。それは、お兄ちゃんと同じ学校に行きたいという「かえで」の願いであり、「普通」になりたい「花楓」の願いでもある。

 後者の「普通」という概念は、「普通」から外れたと感じる「花楓」にとっては、彼女を追い込む強迫観念に変貌する。そのため、周囲の人間がこの「普通」さを否定して「花楓」が立ち直っていく物語が展開していくかと予想されるが、予想を外れ、彼女と向き合う咲太は、「普通」の単語を否定的に聞こえかねない場面で、「花楓」に向かってあえて言うのである。彼は彼女を追い詰める「普通」さを否定することなく、「花楓」の存在を肯定する。かけがえのない存在であるが、好きではなく、「普通」の存在。兄から見た妹の不思議な感情を、彼は「普通」に託している。そのシーンは、咲太と花楓がショッピングモールに出かけるシーンに当たる。

 

特別で普通な妹

 受験当日の騒動後、咲太と花楓がショッピングモールに出かけるとき、明確に話の展開が変わる。これまで、花楓や麻衣から予定を聞かれる立場だった咲太が、初めて花楓に予定を聞くことで予定を聞く立場に回った。彼の何かを変えようとする意志を予感させる。そして、訪れたのがショッピングモールだった。そこで繰り返されるのが、花楓の一つの悩み、すなわち受験当日に保健室で吐き出した悩みである。それは、自分ではなく、「かえで」の方がよかったのでは、咲太もそう思っているのではという不安である。

 それに答えて、咲太は「かえで」も「花楓」も好きではなく、言い訳っぽく妹だからと添えて、「普通」であると言う。この後に、ショッピングモールに赴く目的だった「スイートバレット」のリーダー広川卯月と話すことも、花楓の変化のきっかけになるが、この咲太の言葉は花楓にとって大きいように思う。というのも、彼女のことを、特別な普通さという自己矛盾した在り方で肯定してしまうからだ。

 その普通さは、兄と妹の関係性であるからこそ、「普通」なのであって、咲太が持つ他の関係性と比べて、「普通」なのではない。それがよくわかるのが、「触れること」で言及した頬に触れることである。指先でのコミュニケーションをとる麻衣との関係性、注で詳述したが距離を置いた双葉との関係性、など彼と彼女たちとの関係性にはそれぞれあるが、それにもかかわらず、毎日寝食を共にし、べたべたと触れるコミュニケーションの取り方は、他の関係性と比較すると、これまた別の在り方である。

 彼はそのことを、普通とは逆に特別さに二人の妹(「花楓」と「かえで」)との関係性を仮託したりしない。彼は二人の妹を思う感情を表現するために、「好き」ではなく、どちらも「普通」という表現を選択する。彼は「どちらも」普通であるため、同じ激しさで、「かえで」がいなくなって悲しみ、「花楓」が戻ってきて喜んだのだ。

 彼が、悲しみ・喜ぶのは、彼女たちがかけがえのない妹であるからだ。かけがえのない存在であるが、その相手に向けられる感情は普通である。それが兄にとっての妹であり、二人の妹に対する咲太が感じる感情だろう。彼の「普通」という言葉は、「かえで」も「花楓」も妹であるがゆえに、無条件に彼女たちを肯定する。その答えを受けた「花楓」がどう感じたかは明言されていないが、彼女の選択を変えるような、彼女の自己認識に変革が起きたのではと推測できる。彼女は彼女の悩みと対応するように、自分を「不登校の花楓」あるいは「かえでからバトンタッチした花楓」と措定していたのが、突如、「お兄ちゃん(=咲太)の妹」と自分を見る目が変わる。そうして彼女は、「不登校の花楓」でもなく、「かえでからバトンタッチした花楓」でもない「お兄ちゃんの妹である花楓」として、新たに自分の望む道を決断することができる。

 咲太が花楓に言った「普通」は上記のように、兄から妹への特別な普通の感情を端的に表現するよう読み取れる。普通であるのは、咲太にとっていつも一緒にいる妹であるからであり、その特別さは、前述してきたように、彼らのコミュニケーションの在り方で提示されてきた。彼らの関係性の密度は、言葉ではなく、身体で交わすコミュニケーションが見せてくれた。咲太から花楓への感情を聞き取れた。そのように妹を眺める咲太を、「かえで」はどう見ていたのか、そして「花楓」はどう見ているのか気になるところである。

 

 

 以下、感想を。上で咲太と花楓の兄妹を中心に書いてきた。かの兄妹関係を、手によるコミュニケーションと花楓の望む「普通」を別に語る咲太の言葉から、ある種神秘的な関係性である兄妹の在り方を照らし出してみた。

 そういう意味で、兄妹の魅力がみられたと同時に、花楓の魅力も最大限に発揮され、彼女のかわいさに溢れていた。そして、次は「ランドセルガール」である。今冬に次巻に当たる『青春ブタ野郎はランドセルガールの夢を見ない』の公開が予定されている。妹からロリへと繋がった物語は、どうなるのか。

 

*1:他の登場人物たちについても、本作において咲太とどのような関係性として描くかは興味深い。例えば、彼の友人である双葉理央との関係性は印象的だ。彼女が科学部で学校での活動拠点を物理実験室に置いているため、彼と双葉が会うのは物理実験室であり、本作でも同様である。二人は物理実験室の広長の教卓を挟んで向かい合う。本作では、画面サイズが劇場ゆえにビスタサイズになるに伴い、咲太と双葉の物理的な距離が空いている印象があった。これ以前、彼女が持つ科学の知見から助言を得ていたが、本作に限っては、そもそも思春期症候群を解決することが問題ではないから双葉に対して強く頼るのではないために、そのような距離感を持った演出が取られたようにも感じる。思春期症候群の要因たる、物理学的要因と心理的要因が重なっていたために、双葉は思春期症候群の謎に立ち向かう咲太に助言できた。しかし、本作の花楓の意思の問題、ひいては家族の問題に対して、彼女の距離を取りつつも事象に深く入り込む、科学的分析は不要なのである。そのため、本作で彼女は、彼と彼の妹の問題に踏み込まずに、ただ友人の話を聞く立場に置かれている。