【アニメ考察】海防するトーチカ―『わたしのトーチカ』

Ⓒ2021 ISHIDATE Namiko/Tokyo University of the Arts, Graduate School of Film and New Media, Department of Animation

 

vimeo.com●スタッフ
監督:石舘波子 / 音楽:伊藤友紀 / 音響:鶴岡紗衣・藤垣美南 / プロデューサー:山村浩二・岡本美津子

●キャラクター&キャスト
潜水服・母:沢城みゆき/透明:広橋涼 /つぎはぎ:水沢史絵

公式サイト:Our Little Pond | Namiko Ishidate web

 

 

※この考察はネタバレを含みます。

 

 

概要

石舘波子とは?

 石舘波子によって、東京藝術大学修士課程修了作品として、『わたしのトーチカ』は提出された。彼女は、『ペンギン・ハイウェイ』を筆頭にスタジオコロリド作品に、作画監督で参加している。直近(3/21)には、ロックバンド「緑黄色社会」とタイアップしたショートアニメーション『秘密の花の庭』がYouTube上で公開されている。

 上記のようなアニメーション実績を持つ石舘だが、多摩美術大学卒業後、アニメーターとして活躍し、東京藝術大学に戻って、修了作品に手掛けたのが、『わたしのトーチカ』だった。本ブログでは、『わたしのトーチカ』を取りあげていく。

 

ストーリ・エッセンス

 短編アニメーションとなる本作がどのような話か?は、作品詳細に簡潔に紹介されている。

 

潜水服は、水中の世界の中で唯一ボンベがないと生きられない。我侭な女の子や複雑な家庭環境の友人に囲まれながら、平穏な日々が壊れないよう、どんなに息苦しくても見て見ぬ振りをしていた。

(Our Little Pond | Namiko Ishidate web)

 

 作品詳細が予感させる悲惨な展開とは裏腹に、二頭身のデフォルメされた登場人物たちが描かれ、彼女が参加していたスタジオコロリドチックな空想的な世界が画面に広がる。しかし、その悲惨さは観客の心を打ち、容易には救いが訪れない展開に、観客はヒリつくような緊張感からなかなか解放されることがない。本編のラストは、本編が夢の中での回想だったことが明らかになり、目覚めた主人公の潜水服が、野原に歩き出していく。目覚めて歩き出した彼女の姿を見て、初めて観客はその緊張感から解放され、深い安堵に包まれる。

 本ブログでは、この緊張感を生み出し、そして観客を、解放を伴う安堵へと導く仕掛けを探りたい。まず、二頭身のキャラクターデザインと描かれる現実のギャップから悲惨さを盛り立てる演出を確認する。とはいえ、悲惨さを作り出し、緊張感を高めるのはこのギャップのみによってではない。そこで、このギャップとは別の要素、すなわちデフォルメされた顔について、見ていきたい。それは、本作がテーマに置く孤独さを明瞭にするとともに、主人公が孤独に苛まれる要因を生んでいるとも受け取ることができる。最後に、本作のラストに、本作の本編が夢だったことが明かされた点に着眼し、上記したギャップとデフォルメされた顔の二点より演出された本作が、いかなる作品であったか総括していく。

 

ギャップから生まれた緊張感~デフォルメと辛い現実

 本作では、潜水服が感じる孤独を、痛切なものに見せるため、ギャップが利用されている。彼女の孤独を描く重々しいテーマに対して、頭身の低いデフォルメされた登場人物の風貌が落差を生み出す。

 本作では、より人間に近いキャラクターデザインではなく、頭身の低いデフォルメされたキャラクターデザインが採用されている。その登場人物たちは、一様に人間であるわけではなく、様々な姿を持っている。主要な登場人物たちは、その姿から連想される名前で呼ばれる。水中で呼吸ができず、いつも学校で潜水服を着ているため、主人公は潜水服、体中に縫合跡が無数にあるつぎはぎ、顔部分が透けている透明、など特徴的な登場人物たちが登場する。そして、潜水服と暮らしながら名指されなかった、わがままな少女が登場する。前半部分、潜水服にわがままを言い放題の彼女は、潜水服の妹のようにも見えるが、後半部分に潜水服は彼女を「ママ」と呼んでいる。母親でありながら、わがまま放題の少女。一方が外見的特徴で、呼び名が定まっているのに、母親については、フリルの着いた服・わがままな性格・レース付きのベッドなどの要素から連想される呼び名ではなく、あくまでも「ママ」*1なのである。この対比からも、潜水服が過ごす家庭の歪みが見える。が、この点については、次章で詳述する。

 本作の主人公、潜水服は孤独を抱える一人の少女である。その様が、家での様子、学校での様子を通して描かれる。家では、水中にいられないがゆえに、一人ぼっちで地上に暮らしている。そんな彼女にも、家の地下に当たる水中に、母親が住んでいるが、良好な関係とは言えない。彼女がわがままな母親の面倒を見るという、逆転した親子関係の歪みが見える。家での彼女の生活には、タフでシリアスな現実が横たわっている。

 しかし、そのような現実は、家を離れた社会でも続いている。水中で潜水服を着ないといけない彼女は、学校内で例外的な存在である。潜水服を着た風貌が奇異に映るだけではなく、水中慣れしていない動作・ふるまいは、彼女が周囲から穏やかに疎外される要因となる。そんな彼女は、見下していた“つぎはぎ”に、逆に見下して安心できる存在に見られ、唯一仲が良いと思っていた“透明”から友人と思われていないことに気が付く。

 家に居場所がない彼女は、漠然とした孤独を感じている。家とは違い、学校には同年代で自分と比較的に似た境遇の人物たちが集まる。学校の中にも、彼女の居場所がないと分かったとき、おぼろげだった孤独の感情が、明瞭な輪郭を帯びて、彼女の眼前に突き付けられる。そうして、孤独を的確に描きだすことで、観客の心をえぐり、潜水服の動向から目を離させない。

 

ギャップを利用する作品との比較

 ただ、このようなギャップを利用する手法は珍しいものではない。2010年代に魔法少女物の人気を再燃させた『魔法少女まどか☆マギカ』や映画・テレビアニメとなった『メイドインアビス』など、デフォルメされたキャラクターデザインと悲惨な物語展開とのギャップを利用した作品は多々ある。

 もちろん、先述したように、孤独の苦しみを増幅させて、観客に体験させることで、観客の緊張感を持続させ、画面にのめり込ませる効果は生じている。とはいえ、このようなギャップは、映像全体に緊張感を持たせる一つの方策に過ぎないし、どちらかといえば演出技術的な問題である。本作が表現する孤独そのものに直結する、より本質的な方策は、デフォルメの効果に見られるが、デフォルメすることそのものにあるわけではない。次に、その方策について深掘りしていきたい。

 

ギャップを超えた緊張感~辛い現実の内実

アニメのデフォルメ、デフォルメのアニメ

 デフォルメとは、表現対象の形態を変形させる表現技法である。イラストやアニメで一般的に使用される意味はこれよりも限定されるのが通常で、表現対象の特徴を強調して表現する技法程度に理解されている。この意味で、潜水服たちの低頭身のキャラクターデザインも、一般的にはデフォルメと解釈できる。

 そもそも、本作が分類されるアニメーションというジャンルそのものが、デフォルメの産物である。というのも、現実の情報量をすべて画面に映すことができず、その情報量の一部のみを強調させて表現するジャンルだからだ。アニメーション一般において、頻繁にあるいは顕著にデフォルメが施され、本作でもデフォルメの程度が強いのは、登場人物たちの顔である。複雑なパーツの複合体であり、その人物の感情によって一フレームごとに、表情を変えていく。それに応じて、表情を生み出すパーツの位置変化、しわの生滅により、複雑な陰影が顔を覆う。このような一連の変化を、すべて追って作画するのは不可能ごとである。こうした意味で、動きを描き出すアニメーションでは、顔は簡略化されがちで、簡略化と反比例するように、顔の一部の部位・特徴・動きが強調されていく。アニメーションに特徴的なデフォルメの一つが、この顔のデフォルメである。

 以上で、アニメーションが現実をデフォルメするジャンルであり、その中でも顔のデフォルメが顕著なデフォルメの一つであることを、確認してきた。この顔についてのデフォルメが、本作が表現する孤独の本質を暴き出す。

 

表情不明・表情不一致

 潜水服の孤独感を助長するのは、彼女が考えていた関係性がことごとく誤りだったと気づいたことだ。それゆえ、彼女が透明との下校中に、モノローグで語るように、関係性認識の誤りが生じる、誰かと一緒にいた方が孤独を感じるのである。また、観客が彼女を孤独と決定づけるのは、彼女の関係性の認識が誤りだと判明したことに加えて、彼女と一緒に暮らす少女が、彼女の母親だと判明したことだ。前者では、彼女が彼女の周囲との関係性を誤認していたのに対して、後者では、観客が彼女と少女の関係性を誤認していたことに基づく。そして、その誤認の根本には、デフォルメされた登場人物たちが、デフォルメにより乏しい表情表現をしかしないことにあり、逆に表情が強調された少女はその表情自体が偽りの表情を持っていることがある。

 潜水服は、つぎはぎのことを、自分よりも下に見ていたが、つぎはぎも自分のことを下に見ていた。透明のことを、仲のよい友人だと思っていたが、透明は自分のことを仲がよいとは思っていなかった。潜水服は、つぎはぎ・透明の両者との間に、お互いの関係について、異なった理解をしている。ここで重要なのは、つぎはぎ・透明が潜水服と異なった理解をしていることのみが提示されることであって、どう理解しているか詳細が語られないことである。つぎはぎ・透明が語る言葉に、どのような真意が合って、それをどのように潜水服が受け止められるのかは、確定されることなく保留されたままになる。それゆえに、そこに悪意が潜む可能性や何らかの事情を深読みするよう仕向けるため、観客は潜水服が置かれた状況に対して、緊張感を持ち続けられる。その深読みの最中、デフォルメされた顔が立ちふさがる。デフォルメされた顔は、表面に浮かぶ一部の感情や表情を強調するが、それ以外の感情や表情を一切捨象してしまう。表面的な感情や表情が強調されることにより、何を考えているかが短絡的にも確定的に把握されるか、あるいはあいまいさを伴うことで、表には出てこない深層への無限の深読みが始まるかの、いずれかとなる。本作では、後者のように、つぎはぎや透明が、どのような理由や原因で、潜水服をどう思っているかが確定されていないために、潜水服は二人が何を思っているのか問い続けなければならないし、観客もそのような状況や状況に置かれた潜水服を見て、心を休めることができない。

 そして、この二人との関係性理解の不一致が見えた後、潜水服が同居する少女が、彼女の母親であることが分かる。ここで、衝撃を受けるのは、観客である。先ほどのつぎはぎや透明に対しては、潜水服と観客の両者に向けられたものであった。しかし、母親の場合は異なる。潜水服は「ママ」と呼ぶのだから、当然、彼女は少女を母親として認識している。観客は、娘が母親の面倒を見る「逆転した親子関係」を目撃するに至って、潜水服の悲惨な状況を一段レベルの上がった凄惨な状況として捉え直すとともに、彼女が抱える孤独の要因の糸口をつかむことになる。

 その糸口となるのも、デフォルメされた顔がポイントである。ママの気味悪げに弛緩した笑顔や半開きの疑惑のジト目や潜水服に迫るときの泣き叫んだ顔は、ありのままの彼女の感情が張り付いている。顔に関係する表情以外にも、彼女の行動自体には、彼女の感情が直接に反映されている。そこには、感情と表情(行動)の原初的な結びつきが存在する。しかし、彼女の言葉や願望とその感情が一致しているわけではない。一方で、潜水服から世話をされてわがままばかりの彼女でありながら、他方で、潜水服のことを思っていて、彼女への愛を発する。感情やそこから出る表情と言葉や行動がちぐはぐになっている。そのことは、母親が血縁の意味で生物学的には母親と言えるにしても、養育の意味で文化的には母親と認められない、ずれと重なる。確かに母親との間に関係性があるが、このずれのせいで、その関係が確かなものと感じることができない。一方で、血が繋がり感情は直接に分かるが、他方で子どものような振舞いから本来彼女が収まるべき母親とは呼べず、言葉や行動は表れている感情と一致しているようには見えない。そうして、潜水服は、母親と子ども、あるいは相手の感情を理解し合い(少なくとも理解しようと努め)、人と人の確かな関係性を築くことが困難になっている。

 このことが災いして、本作上は前のシーンに当たるのだが、時系列的には後の潜水服が孤独を抱えるようになっていったと解釈できる。潜水服の孤独の要因に至って初めて、作品の見どころに語られた「家庭の歪みと社会生活での孤独は繋がっている」というテーマの内実を理解することができる。

 以上で、本作のテーマとなる孤独について、アニメが本来的に持っているデフォルメの効果を絡めて、考察してきた。このことは、彼女の過去の監督作品が、デフォルメキャラではなく、リアルなキャラクターデザインの人間が登場人物として登場し、本作から強くデフォルメの効いたキャラクターデザインが採用されていることからも裏書される。

 

過去作品を振り返る

 彼女の多摩美術大学卒業制作(2012)の『tayutaum』*2では、おもちゃやぬいぐるみの山に囲まれた少女が、鳥を追いかけてそこではないどこかへと飛んで行く躍動感に満ちた作品になっている。また、東京藝術大学修士課程一年次の作品『Pupa』*3はさらに現実に寄っている。現代のアパートの一室にごみに囲まれた女性が横たわっている。彼女の背中から花が芽生え、そこから新しい彼女が誕生し、古い彼女を脱ぎ捨てる。そして最後には古い彼女をごみ袋に詰めて、捨ててしまうという現実的でありながら、ファンタジー的でもある。

 二作品を簡単にまとめてしまうなら、二作品とも新しい場所・自分を求める作品と言える。そうした新たなものを求める人間の願望、力をファンタジー的に描き出している。しかし、あくまでも、ここではないどこかを求めたり、新しい自分に変わりたいと思ったりする人間自体は、この現実世界と地続きのため、登場人物としてリアルな登場人物が必要となっていた。そうしてみると、人間の変化や行動自体にファンタジーを見出していた二作品で描かれた“人”から、本作では別の表現対象ができたために、本作のキャラクターデザインの“人型”が選ばれたと考えられる。表現対象の変化に伴うデフォルメしたキャラクターデザインを選んだ必然性をもって、前述してきたデフォルメされた顔と感情の関係性を利用し、潜水服と各登場人物との没関係性を描き出すことによって、本来見えないはずの彼女の孤独を視覚化して見せた。そうした意味で、過去の作品から観ても、本作のデフォルメと本作で描かれた孤独の親和性は高いと考えられる。

 しかし、本作はこれでは終わらない。物語は母親との対峙を経て、本作の本編が夢だったことがラストで明らかとなる。このラストは何を意味しているのか。本編で描かれてきた孤独そのものを無化しかねない、この“夢落ち”をどのように解釈できるか考えていきたい。

 

トーチカ≠永住の地

 このラストについて、嘘つきの“夢落ち”と見るか、“夢の回想”と見るだろうか。一つ言えるのは、主人公が着用してきた、他者との遮断の象徴だった潜水服を脱ぎ捨て、暮らしてきた家から歩きだしたところに、何か希望のようなものが見いだせることだ。しかし、それが何ゆえに希望の感情を抱かせるのかは不明である。そういう映像だからといってしまえばおしまいだが、一旦立ち止まって考えてみたい。

 とっかかりは、潜水服が後にする家、すなわち“トーチカ”である。トーチカとは、対砲撃鉄筋コンクリートで築かれた、戦場の陣地のことである。接近戦用の施設であるため、戦線中の比較的前線に築かれることが多い。

 潜水服が立ち向かった戦場は、家庭であり、その外の学校を代表とする社会である。その最前線となるのが、彼だけが住んでいた地上の一室である。彼女は、そこから水中へ降り、毎日、歪みと孤独が付きまとう戦場へ向かっていた。そうした意味で、彼女の地上の家は、「わたし(潜水服)のトーチカ」と言える。そして、“トーチカ”がそこで永住し、戦闘を続ける永久要塞でないように、トーチカとしての彼女の家も破壊される。それも、一つにはママの衣服が干してあるように、彼女の家庭での戦いも終わっていることを予期させる。彼女の戦いは終わったのである。そのため、彼女の戦いの前線で自らを守る“トーチカ”を飛び出し、広く広がる野原へ歩き出していく。回想の夢を経た彼女は、戦いを振り返り、前へと進んでいく。

 以上の解釈を入れることで、彼女の苦しみを描きながらも、本作に漂う陰鬱さが晴れていき、観客に晴やかな安堵を与えて物語を締めくられることが分かる。このような締めくくりのためには、夢での回想であり、トーチカという装置が必要だった。というのも、本編の苦しさから立ち直るためには、少なくとも直後というわけにもいかない。そのため、本編とラストのシーンには、時間的な隔たりを創造する必要がある。夢の中での回想という形を採ることで、強制的にラストの時間軸は、本編より時系列的に後に位置付けられる。そして、トーチカの崩壊は、戦いの終わりを示す。戦いの終わりから、新たな一歩を踏み出した彼女の行く末には、相対的に明るいものを見ざるを得ない。そうして、観客は安心して、画面から離れて日常世界へと戻っていくことができる。

*1:付言すれば、彼女が主人公を呼ぶのは、潜水服ではなく、「みっちゃん」と呼ぶ。

*2:tayutaum | Namiko Ishidate web

*3:Pupa | Namiko Ishidate web