【マンガ考察】悲劇的ラストの感傷からSF的問いを問う―石黒正数『外天楼』

©Masakazu Ishiguro 2018

 

●作品
石黒正数『外天楼』KCデラックス(講談社)、2018年

出版社サイト:『外天楼』(石黒 正数)|講談社コミックプラス (kodansha.co.jp)
著者X(Twitter):石黒正数 (@masakazuishi) / X (twitter.com)

 

 

※この考察はネタバレを含みます。

 

 

概要

 姉弟が白い雪道に倒れ、不思議な集合住宅の「外天楼」を舞台にした物語は幕を閉じる。コマが進むにつれ、雪道と姉弟を写すショットが遠ざかっていく。白い紙面に二人の黒い模様が浮かぶ、引きの構図が、物語の締めくくりに、二人の出生の秘密から二人が辿った悲劇的な結末に、読者を感じ入らせてくれる。
 本作、石黒正数作の『外天楼』はジャンルをSFとし、人間を模して作られた、ロボットや人工生命体「フェアリー」が登場する。ロボットやフェアリーが絡む話が各話に散らされた上で、最後に姉弟の出生の秘密が明かされる。そのときに、SFの王道な対立軸「人間と人間ではない存在」という対立軸は、初めて深刻さを帯び、二人の死に悲劇の花を添えてくれる。この悲劇に読者は立ち会うのだが、立会人かと思えば、気づいたときにはこの深刻さに巻き込まれている。このいつの間にか巻き込まれている、ところに本作の真骨頂があり、本作の魅力に思える。以下では、どうやって、本作が読者を巻き込みに来るのか、順を追ってみていこう。

 

世界観、アリオ・キリエ、各話の構成

 舞台は近未来の日本で、ロボット・高性能AI・人工生命体「フェアリー」が登場する。ロボットが労働や愛玩用にロボットが労働や愛玩用に広く販売され、ロボットの販売が一部規制され始めると、今度は「フェアリー」が販売されるようになる。
 このような世界で本作の主人公たちは暮らしている。主人公の鰐沼アリオは、その姉キリエと暮らしている。そして彼らが、ラストで死を迎える姉弟である。
 前述したように、彼らの出生には秘密がある。その秘密を主人公のアリオは知らないことから、彼らの人生が悲劇へと滑り落ちていく。アリオ視点では、鰐沼家は母親がいないが、姉弟二人とあまり家に帰ってこない仕事詰めの父親の三人家族、というごく普通の家族だと思っている。
 しかし、彼の友人で、ロボット研究者の芹沢勉が、フェアリー開発者の鬼口獰牙の秘密、そして鰐沼家の秘密を明らかにしてしまう。アリオは芹沢から、鰐沼家の真実を知らされる。
 その真実とは、ごく普通の家族でなく、偽りの家族だったことだ。彼らの父親であった人物は鬼口であり、キリエは彼が自分の娘の細胞を使って開発した、フェアリーだった。さらに、アリオはキリエが生んだ鬼口とキリエの子であった。そのため、アリオとキリエは姉弟ではないし、アリオもキリエも人間でない。それに、鰐沼家はごく普通の家族ではなく、鬼口がアリオ・キリエの経過観察を行うための疑似家族だった。
 真実を知ったアリオは凶行に及び、二人が辿った悲劇の道を開通させることになる。
 物語は、アリオ・キリエ、二人の悲劇的な物語を主軸に進むのだが、特に前半では、二人は積極的に各話に絡むわけではない。二人の物語よりも、SFや推理物らしい物語が展開し、その物語は近未来SFの世界観らしく、ロボットやフェアリーが絡んでくる。
 刑事たちが犯罪を追う推理物、ロボット・フェアリーを中心としたSF物編、二つの支流が合流して、物語はアリオ・キリエ、二人の物語という本流へ合流し、ラストへと加速していく。

 

フラットな描き方・物語

フラットな描き方

 ロボット・フェアリーが登場し、主人公たちはそちら側であることが途中に判明する。だからといって、本作はロボット・フェアリーの非人間側に組するわけでもなく、逆に人間側に組するわけでもない。どちらに対しても、フラットな視点を保っている。
 本編のストーリーラインで、人間・非人間どちらの側にも偏りがないのはもちろんだが、表現の面でも特定の人物へ入れ込んだ視点が排されている。起こりうる出来事、特に死でさえも、死ぬときの描写を淡々と描き切ることで、読者が特定人物の死をきっかけに思い入れを増幅させ、その結果に特定人物の視点を支持すること、を避けるよう設計されている。
 その最たるものが、物語をフラットに眺めるために、本作では登場人物の主観視点が存在しない。どのコマも客観視点から、風景・人物を捉えている。ある特定人物の視点から視覚情報を見せない、ということは、ある特定人物の立場から物事を見せないことにつながる。ある人物が中心に描かれるからといって、その人物に感情移入し、その感情を基にして、その人物の立場を支持することは禁じられている。

 

全面同意しがたい人物たちの設計

 登場人物へ感情移入するきっかけに関しては、描く温度感・視点以外に、登場人物の行動、物語で起こる出来事によっても、フラットさが保たれている。
 前者の行動に関しては、二つ例を挙げてみよう。第一に、主人公のアリオとその姉キリエについてだ。彼らは、最後に悲劇的な死を遂げる。そのラストに、読者は感じ入られる。だが、その感傷も一定程度相対化される。
 彼らは、ハーフとフェアリーという悲運な生まれであり、その生まれが原因で追い込まれた先に三人を殺し、逃走の果てに雪原で命尽き果てる。そのため、彼らなりの理由があれど、罪を犯した末の結末だった。
 第二に、人間側についてだ。まず、アリオの父、鬼口が犯人のために証拠隠滅を行った可能性についてだ。捜査一課の桜場冴子が逃走中のアリオに、もしかしたら鬼口が犯人を庇うために、証拠隠滅したかもしれない、とアリオを諭すシーンがある。鬼口の真意は最後まで明かされていない。そのおかげで、アリオの鬼口への復讐を第三者の読者は一定の理解は示せても完全に肯定することはできない。始め、鬼口はアリオとキリエを単なる研究対象に過ぎなかったかもしれないが、時が過ぎるにつれ、もしかすれば、鰐沼家を大切な家族と思うようになったのかもしれない。
 また、アリオが桜場に諭されるシーンでは、キリエがその桜場を背後から刺し殺して、二人はその場から逃走する。もちろん、たとえ刑事で事件に巻き込まれる可能性があっても、無実の彼女が殺されるのは理不尽に思えるだけでなく、読者視点からは、本作のコメディリリーフ役に思えた彼女が、無残に殺されることに何よりも衝撃に感じる。それに、明るく破天荒な彼女と組んでいた捜査一課の山上は、彼女の死体の前で、激情を何パターンもの表情でコマを支配する。それに何よりも、彼女の目頭から垂れる涙は、彼女の痛みや無念さを物語っている。こうして、キリエが逃走のために犯した殺人も、読者は積極的に肯定しにくく、どちらにも組みしにくい相対化が働いている。

 話は、後者の出来事に移る。前者の行動で見た、どちらかへの組みしにくさは、本作で主要な登場人物の誰もが、幸福にならず、不幸になることにも依る。「誰がどうなる」という出来事のレベルでも、フラットさが保たれる。アリオ・キリエは雪原で力尽き、ロボット・フェアリーへの非道な研究をした鬼口・芹沢は息子・友人に殺害され、コメディリリーフとして善でも悪でもない桜場は殺され、彼女と組んでいた山上は相棒を失う。
 こうして誰もが不幸な結果となることで、誰かの不幸を、誰かの幸福のせいにすることはできない。不幸の程度差で同様のことが起こるかもしれない。だが、その場合、不幸と幸福という目に見える感覚的な違いではなく、ある程度理性的な不幸の比較衡量を経た上で行われる。こうした点でも、感情という
 以上で、フラットさを保つ、本作の物語に働く相対化の働きを、人物の行動と出来事のレベルで述べてきた。描き方の観点と合わせて、本作では人間側と非人間側の立場をフラットに保っている。

 

共通するモチベの性欲

 人間と非人間たちがフラットに描かれ、読者は一つの立場を容易には支持するできなくなっている。そうは言っても、本作のSF世界観の中で、人間とロボット・フェアリーが幸福な共生を保っているわけではない。人間とロボット・フェアリーの境界線は明確に引かれ、ロボット・フェアリーが人間とは異なった扱いを受けている。

 そのことは、アリオ・キリエの物語に挿話される、SF世界観らしい、ロボット・フェアリーが絡む物語からも分かる。特撮ヒーロー番組で活躍するロボットの話、ロボットと暮らす人間そっくりな試験中ロボットの話、ロボット・フェアリーの規制是非の論争が描かれる話、ロボットそしてフェアリーに囚われ罪を犯す青年の話 である。その挿話から見えてくるのは、人間と非人間の立場がはっきりと分ける、価値観が支配していることである。前述してきたフラットな語り口・物語設計と合わさって、読者は読み進めながら、ありうべき近未来のSF世界で、どのような価値観が生き、その価値観に従って人々が行動しているかを、挿話の節々から感じ取る。その結果、この世界に通用する価値観として、素直に受け取ることができる。
 人間とロボット・フェアリーが異なることが、本作内で強調されていることを指摘した。しかし、共通点と読めるところも存在する。人間やロボット・フェアリーが生まれる中で、中心的な役割を果たした欲求である。すなわち、本作でたびたび登場する、性欲である。
 物語の始まりは、アリオ・芹沢・ダイチの三人が、いかに目立たず、本屋でエロ本を買えるか、策を弄し、実践するところからだった。その後に明かされる開発者たちからも、彼らと似たところも見える。

 鬼口が実の娘の細胞を用いて開発したフェアリー、芹沢勉がキリエを再現しようと開発を進める感情を持った高性能ロボット・人工知能鬼口が生み出した突然変異のフェアリーであるキリエ、鬼口とキリエの子どもであるアリオ、またもちろんだが、ここに登場する人間たちも同様である*1
 こうしたところで、人間もロボットもフェアリーも、主要なモチベーションに性欲が含まれていることが、あからさまに描かれている。この一側面から、ここまで対立軸にしてきた、人間と非人間は同じものとは言えないが、少なくとも似ている存在かもしれないとの見方もできる。しかも、そのことは、人間が人間を模して作ったからとも言えない。

 

『外天楼』が問う人間とロボット・フェアリー

 「外天楼」という不思議な集合住宅を中心にした物語を、特定の側面から描き出してきた。

 ただ、最初に提起した問いがまだ手付かずで残っていた。それはラストで『外天楼』が悲劇的な終わりを迎えるのだが、このラストで読者はこの悲劇を眺め立ち会うだけでなく、このラストが持つ深刻さに巻き込まれている、と述べた。そして、どのように巻き込まれるのかが、くだんの問いだった。
 簡潔に答えるなら、『外天楼』という物語を読んだ私たちは、人間とそれと類似したテクノロジーの境界をどのように考えるのか、問われている。読者から解答者へ、私たちは場所を移される。このことが巻き込まれることの本質である。
 以上での内容を踏まえて、先の解答を補足したい。

 まず本作を描く描き方、本作の物語構成自体が、特定の登場人物に感情移入させすぎないフラットな視点を読者へ提供している。次に、このフラットな視点から、各話に散りばめられ近未来SF的なロボット・フェアリーが絡む物語を見ることで、この世界で生きている価値観、人間とロボット・フェアリーの区別を読者は自然に感じ取ることができる。最後に、この価値観とは逆に、共通点も見いだせた。本作の出発点であり、人間やロボット・フェアリーが生まれてくるのに、重要な欲求の一つである性欲から、人間やロボット・フェアリーの共通点あるいは類似点と言える。

 これらが合わさり、読者は必ずしも、主人公に、あるいは悲劇の主人公・ヒロインに感情移入する必然性は薄められている。だが、あの雪原で倒れる二人には、感動させざるをえない。そうしたときに、私たちが素直に感情移入の矛先を向ける、フェアリー、そしてもっと微妙な位置にいる人間とフェアリーのハーフは、人間からどのような位置にいるのか、問題となる。さらに、さかのぼって、本作で登場する、フェアリーや高性能AIが搭載されたロボット、旧型ロボット、彼らはどうであろうか。
 本作は、一巻のマンガにより、「人間か非人間か」という単純なあれかこれか式の問いのみならず、問いの対象にグラデーションを含んだ問いを問うてくる。しかも、感情を出発点にしながらも、読者にある特定の人物に感情移入させて、その問いを引き起こさせようという強い意図は感じられない。あくまでも、二人と彼らを取り巻く世界をフラットな視点で見せ、そこで生じた二人のラストでの感情を出発点に、他のロボットやフェアリーが登場する前のページへ戻る形で、問われた問いを反芻させてくれる。

 本作の魅力の一つが、ここ、すなわち「外天楼」の物語を通じて、「人間と人間を模した人工物(生命体)をどのような立ち位置に置くべきか」という問いに、通常ならない濃度を与えてくれることにある。
 そして、本作の魅力は、この問いだけではない。こうした疑問を解消し、あるいは本作の設定・登場人物の心情を明らかにするため、何度も読み直すのを許してくれる。飾り気のない簡潔な絵で、複雑に過ぎない簡素な物語の中に深みが存在することで、こうした許容が成立している。
 幾度もの読みに耐え、登場人物との距離を近づかせすぎない一巻だからこそのよさが、『外天楼』に出ている。

*1:彼がフェアリーを開発した動機は、厳密には明かされていない。しかし、実の娘の遺伝子を用いてフェアリー開発に勤しみ、かつ誕生した突然変異のフェアリーに娘と同じキリエ(娘の名は桐江)と名付ける。この時点で、鬼口には何らかの邪な欲求は存在しているように思える。さらに、鬼口がキリエを襲うに至っては、そもそものフェアリーを開発する時点で、近親相姦の欲求はあったと推測することができる。