【アニメ考察】生と死の狭間、エッジを司る暴力―『サイバーパンク エッジランナーズ』

CD PROJEKT RED Japan 公式Twitterより

 

  youtu.be
●原作
原作ゲーム:「サイバーパンク2077」(CD PROJEKT RED)

●スタッフ
原案:ラファウ・ヤキ/監督:今石洋之/舞台設定考案:マイク・ポンスミス/エグゼクティブプロデューサー:ラファウ・ヤキ・ディラン トーマス・櫻井大樹・宇佐義大/プロデューサー:エルダー爽・バルトシュ シュティボー・本間覚/アニメーションプロデューサー:志太駿介・堤尚子/スクリーンストーリー:バルトシュ・シュティボー/シリーズ構成:大塚雅彦/脚本:大塚雅彦宇佐義大/クリエイティブサポート:若林広海/キャラクターデザイン:総作画監督吉成曜/サブキャラクターデザイン:金子雄人・芳垣祐介/美術監督野村正信色彩設定:垣田由紀子/撮影監督:川田哲矢/編集:吉武将人/音響監督:浦狩裕樹/音響効果:野崎博樹・小林亜依里/音楽:山岡晃/副監督:金子祥之

アニメーション制作TRIGGER

●キャラクター&キャスト
デイビッド・マルティネス:KENN/ルーシー(ルチナ・クシナダ):悠木碧/メイン:東地宏樹/ドリオ:鷄冠井美智子/キーウィ:本田貴子/ピラル:高木渉レベッカ黒沢ともよ/ファルコ:加瀬康之/グロリア・マルティネス:日野由利加/リパードク:津田健次郎/ファラデー:井上和彦

公式サイト:サイバーパンク エッジランナーズ (cyberpunk.net)
公式TwitterCD PROJEKT RED Japan (@CDPRJP) / Twitter

 

 

※この考察はネタバレを含みます。

 

 

 本作の舞台ナイトシティ*1では、地位と富を独占するコーポコーポの依頼を受けながらも虎視眈々と上昇を狙うフィクサー、そして最底辺に位置するサイバーパンクたちが入り乱れる。ナイトシティの住人達は、インプラントと呼ばれるサイバーウェアを装着し、義体化を重ねていく。まさに、これこそがジャンルとしての「サイバーパンク」と呼べる世界が広がっている。

 この街で、底辺領域に住む主人公のディヴィッドはある日、サイバーパンク同士の抗争で母を亡くす。それと同時に、彼は軍事用インプラントサンデヴィスタを拾う。彼は驚異的なインプラント耐性により、サンデヴィスタを難なく使いこなす。ルーシーと出会い、彼女の仲間たち、メインを中心とするグループに合流し、彼のサイバーパンクとしての、物語が幕を開ける。

 

底辺で光る「特別」

 ディヴィッドが手にしたサンデヴィスタは、軍事用ということもあり、強力であるがゆえに、装着者の負担がかなり大きい。しかし、ディヴィッドはサンデヴィスタを何度使用しても、サイバーサイコシス化するどころか、意識を失うことも、生命の危機に瀕することもない。彼は、インプラントに選ばれている。

 そして、彼の恋人になるルーシーは、幼少期に、アラサカから英才教育を施された過去を持つ。教育を受けた子供たちは、アラサカに選ばれた才能を生かして、過去の遺産が眠る過去のネットワークへのダイブを強制される。そこはトラップに満ち、彼らは少しずつ精神を侵され、次々と命を失っていく。彼女はそこから逃げ出して、ナイトシティに流れ着き、現在に至る。

 二人は、特別な才能を持っており、特にディヴィッドの天性の体質で、彼らグループの成り上がり物語を牽引していく。彼は物語の主人公であり、インプラントに選ばれ、ルーシーはネットランナーとして選ばれた者である。彼らの物語は、過去の今石作品と同様に、底辺からの成り上がり物語の様相を見せるが、ナイトシティにはびこる強固な階層構造は、「特別」な個人に破壊されるほどやわなものではない。本ブログでは、本作の全編を覆う暴力とその帰結たる二つの「あがる」要素を見ていく。視聴者は、暴力によって成り「上がる」彼らの物語を目撃し、その暴力そのものの快楽に酔いしれ「アゲ」られる。そして、最後には、その「あがる」は徹底的に打ち砕かれ、視聴者を待つのはカタルシスではなく、救われない結末であることを見ていく。

 

暴力で〈上がる=アガる〉

シンプルな成り「上がり」方

 サイバーパンクは裏の仕事をこなし底辺から成り上がる。一つ目の「上がる」とは、地位の向上である。それによって、名声を得、富を得、さらなる名を上げる仕事を得る。サイバーパンクが生きる世界は、暴力こそが「上がる」唯一無二の手段である。彼らは、フィクサーたちから請け負う仕事をこなし、初めてナイトシティで生き延びることができる。

 ディヴィッドもメインたちのグループに所属することで、ナイトシティの磁場に飲み込まれていく。彼は、サンデヴィスタの力を使い、同級生のカツオ・タナカに復讐する。続いて、ディヴィッドは、サンデヴィスタと驚異的なインプラント耐性により、グループ内での地位を確立していく。彼の活躍にもより、フィクサーのファラデーから、コーポ案件の依頼も引き受けるようになり、グループとしての地位も着実に向上していく。視聴者も、彼らが暴力をふるう、依頼を完遂する、そして地位を向上させる、という上昇サイクルに、快楽を見出していく。

 そして六話で、メイン・ドリオが死んだ後に、ディヴィッドがリーダーとして、チームを率いる。彼もメイン同様に、多数のインプラントをインストールして、力をつける。最終的には、ファラデーからコーポ案件を請け負うまでに、グループを再成長させる。ここから、物語は、最終局面に入っていく。

 こうして全体を見ると、主要人物たちの死という挫折を伴いながらも、ディヴィッドは掃きだめのような街で、暴力という純粋に個人的な力で、一歩ずつ高みへと昇り詰めていく。ただ、後述するように、彼が最後の頂きまで昇り詰めることはない。視聴者は、視聴者が望み、ディヴィッドの母が望み、そして、ルーシー・ディヴィッド自身が望んだ幸福な結末を見ることはない。次に、二つ目の「アガる」という要素について見ていく。

 

アッパーでダウナーな「アガり」方

 本作の魅力の一つは、場違いな学校に通い、生に実感が持てなかったディヴィッドが、サンデヴィスタを手に入れ、ルーシーやメインたちと出会い、何かを手に入れていく過程にあると言える。この点が、先述してきた「上がる」という要素だ。それとは別の魅力もある。それは、先述の魅力を「上がる」というならば、「アガる」魅力と言える。

 本作は原作ゲーム『Cyberpunk2077』をリスペクトした闇夜にギラギラと輝く、ナイトシティの街並みを舞台に、汚れ仕事をこなすサイバーパンクたちの生き様と暴力を、痛切に描き出す。ここで言及するのは、前節の「上がる」で触れたように、ディヴィッドが昇り詰めていくことに対する感応的な快楽とは異なる。すなわち、感応的というよりも、より直感的で感覚的な快楽である。対象が暴力にあり、かつ従来の今石作品とは比べて、暴力の残虐性が高まっているために、視聴者がその快楽を享受することを肯定的に認められない可能性がある。しかし、本作は、視聴者に対して、暴力に快楽を与える手段は、暴力的である。つまり、本作を見ている最中には、視聴者は、映像や音楽の快楽と暴力に対する感覚的な快楽を反射的に惹起させられている。

 暴力が現状の打開策として、まず鮮烈に登場するのは、対カツオ・タナカへの復讐である。カツオ・タナカへの復讐シーンを皮切りに、サンデヴィスタの能力の高さとサンデヴィスタによる戦闘の気持ちよさ、そして暴力により相手を打ちのめす(破壊する)快楽、三者が一点に集中する。一話で、ディヴィッドはカツオ・タナカにKOされる。サンデヴィスタを装着したディヴィッドは仕返しのため、カツオ・タナカにケンカを吹っ掛ける。彼は、サンデヴィスタを起動させ、カツオ・タナカがスローモーションでこぶしを振る中、残像を置き去りするほどの高速で、カツオ・タナカを一周して、顔面に一発食らわせる。ここでの映像演出は、サンデヴィスタの能力を視聴者にいかんなく体験させる。サンデヴィスタの時の流れを遅くする効果は、一度スローモーションでディヴィッドとカツオ・タナカを映し、その後、サンデヴィスタが停止して、通常の速度でスローモーションの軌道をリプレイすることで表現される。スローモーションの映像では、一方でカツオ・タナカの運動をゆっくりと捉えるが、他方で、ディヴィッドの動きは、残像としてしか捉えられない。この点で、ディヴィッドとカツオ・タナカのインプラントの差を表現は見せつけるとともに、その装着者の差を提示する。以上で、上記した三点が表現されている。

 カツオ・タナカに対する暴力を一とすれば、この先のディヴィッドが体験し、彼自身が振う暴力は、百とも千とも言えるほどに桁外れに過剰化していく。目的に対して過剰な暴力の応酬が、画面を覆い尽くす。グループが打ち込む弾丸は、敵グループの皮膚や肉を貫通するのみならず、身体を構成する肉の塊を吹き飛ばし、骨をも粉砕する。度を越えた暴力に思わず目を覆いたくなるが、本作に吐き気を催すほどのグロさ・エグさはない。もちろんそれは作画によって、どの部位が欠損して、欠損した身体をどの程度見せるかという選択に依る部分もあるのだが、より重要なのは、暴力を陽気に楽しみ、サイバーパンクの反応や派手かつリアル志向よりはコミカル志向のアクションや銃声・音楽に合わせて、リズミカルに暴力を行使し、人間を肉片化することによって、視聴者は画面を真っ向から拒否するのではなく、登場人物たちと一緒に肯定的にさせ、そして、MAD的な映像に快楽を味わえるようになる。視聴者は暴力に快楽を感じるように懐柔され、何十人が死に、どれだけの血と肉が飛び散り、弾丸が飛び回ろうが、彼らも視聴者も快楽を味わっている。この点で、単に死体の表現をマイルドにして、かつ暴力の悲惨な結果を削ぐことなく、同時に、その暴力に快楽を生ませる手際は見事である。さらに、その暴力に、先述した底辺から力によって成り上がる物語を読み込めば、絶頂物の快楽に落とし込まれる。ディヴィッドがナイトシティの〈ルール〉に染まり、麻痺し、インプラントにより狂っていくように、視聴者も暴力によるさらなる上昇、さらなる高揚、さらなる快楽を求め狂っていく。

 ただ、暴力や音楽によって気分を加速し、高揚することのみが本作の「アガる」という魅力ではない。時には、暴力と無媒介に繋がる快楽の興を削ぎ、熱を抑制させるダウナー系の部分も存する。それは主に、ディヴィッドとルーシーの恋愛関係やその他のグループメンバーの関係性を描く際に表現される。

 例えば、四話Aパートでは、ルーシーとのランニング、メインとのおしゃべり、グループメンバーとの交流が、短時間のショットで紡がれる。同じ構図が繰り返し用いられるメインとのおしゃべりを定点にして、ディヴィッドとルーシーとの関係とディヴィッドとその他のメンバーやグループでの関係性が対比的に描かれる。この映像構造は、メインのシーンが固定的な構図というだけからではなく、メインがルーシーを教育係に任命したこと、そしてメインがサイバーパンクの仕事を振り、そして何より彼がディヴィッドを自分のグループへ迎え入れたことからも、裏書されている。それゆえに、メインからルーシーとその他の人物たちに関する、二つの方向の映像へと割り振られている。メインの言葉を借りると、「サイバーパンクも男もいつまでもルーキーじゃいられねー」から、メインはディヴィッドに対して、ルーシーのことも、仕事やグループのことにもはっぱをかける。定点で鎮座する彼の役割は、導くことである。三種のまったく別の分断されたシーンから関係性の繋がりや進展を、各シーン間を意味付け、ほんの少しの表情の変化や演出を貪る。シーンの小気味よく提示され、それと合わせて提示されるシーンに落ち着きつつも、ディヴィッドが前へ進んでいく様子を勝手に読み取って、気分を「アゲる」。

 その他、ルーシーとの関係は、ルーシーの部屋で夜景を臨む窓ガラス、BDで二人で座って見た月、二人の家の広々としたリビングや出かけ先の金網前での横倒しの構図や、ナイトシティ外の荒野から見た開けた空間に光るナイトシティ、ラストにビルから飛び出して満月を背景に二人がキスする場面など、広い構図が印象に残る。高揚し、狂った視聴者をクールダウンするゆとりがこれらのシーンにある。暴力や音楽の熱狂的な快楽に、視聴者の身を委ねさせすぎずに、二人の恋愛物語の側面があることによって、そしてこの恋愛物語によって、正気に戻ることで、本作の恋愛面からの抑制された「アガる」要素を獲得できる。

 視聴者は、アラサカの最強最悪なインプラント・サイバースケルトンを装着したディヴィッドのように、熱狂と抑制状態を行き来させられる。ディヴィッドは、サイバーサイコシス化をかろうじてコントロールして、ミリテクの差し金を難なく粉砕し、追っ手をかわして、やっとのことで囚われたルーシーを救いに、アラサカを強襲に向かう。物語は、熱狂と抑制の浮き沈みを通過して、クライマックスで最高点を迎えようとしている。しかし、先述したように、誰もが期待したこの最高点は訪れず、ディヴィッドもルーシーたちも、そして視聴者も期待を裏切られる。

 

あがるの否定とカタルシスの奪取

 物語の十話佳境でディヴィッドは、アラサカの用心棒で伝説のサイバーパンク・アダム・スマッシャーに殺され、ルーシーとファルコだけが命からがら生き残る。ファルコはディヴィッドの頼みを聞き、ルーシーを強引に連れて、彼女と共に戦場から逃げ出す。ルーシーは、彼の望み通り生き延び、ラストに一人で月を訪れる。月面で、ディヴィッドの幻影を見る彼女の顔には、晴れやかな表情はなく、悲痛にゆがむ表情が見える。ここで物語は幕を閉じる。

 ディヴィッドが死に、ディヴィッドとルーシーは悲劇的にも引き裂かれてしまう。彼女たちは最高のエンディングを奪われる。圧倒的な力によって、二つの「あがる」を徹底的に否定され尽くされることで、視聴者も期待のエンディングを奪われる。それにより、最高の絶頂となるカタルシスを奪われた視聴者は、自分たちが享受していた二つの「あがる」は、物語と音と映像で装飾された暴力によって、形成されていたことに気づく。アッパー系とダウナー系の快楽、熱狂と抑制(正気)の往復に浮かされた視聴者は、熱から醒め、禁断症状の眼で、露わになった暴力のみを見つめる。

 そうして見えるのは、ディヴィッドも視聴者も共に踏みしめる土台は、暴力によって築かれていることだ。暴力によって、築かれたものは、簡単に暴力によって、より「特別」な存在の暴力によって、簡単に覆される。ディヴィッドは地位と命、そしてルーシーとのふれあいを失い、私たちは快楽と物語のカタルシスを失う。

 そこで冷静になって、物語を反省してみる。

 サンデヴィスタンを使え、サイバースケルトンもサイバーサイコシス化の狭間で制御しきったディヴィッドは、本作の登場人物の中でも、間違えなく指折りの「特別」な存在である。しかし、その「特別」さは、いわばナイトシティという地元でのものであった。ナイトシティは世界ではない。また、ディヴィッドは世界に出たこともない。だが、彼が対峙したアラサカは世界の企業である。冷静になった私たちの目の前に現れるのは、薄々感じていた強固に過ぎる階層構造である。私たちは、どこかで「特別」なディヴィッドが、この階層構造をダークヒーロー*2という形であれ、〈正義〉の側から打ち壊してくれると期待していた。

 『サイバーパンク エッジランナーズ』が見せるのは、単にディヴィッドを中心にした悲壮な結末を迎える物語というだけではなく、アラサカというグローバル企業が打ち立てる階層構造は、底辺からは暴力という手段でしか、生計が成り立たず、地位の上昇や既存秩序の打倒は難しいにもかかわらず、その暴力の点で「特別」な才能を持った人物(=ディヴィッド)でさえ、アラサカの用心棒に手も足も出ないという、絶望としか言えないナイトシティの階層構造の強固さである。しかも、この階層構造を打ち破ったとて、ディヴィッドは来る対抗勢力の暴力に備えて、無限のインプラントのインストールと精神の浪費が続くという、これまた地獄の運命が姿を見せる。

 

 

 話を本作の外に移すことが許されるなら、本作の上記した内容が視聴者に追い打ちをかけるのは、悲痛な物語の結末と合わせて、この暴力による物語を、数々のヒーローものを世に放ってきた今石が監督を務めている事実に依っている。この事実によって、視聴者が感じる悲痛の程度は、作品外在的な要因によるが、倍加される。今石の代表作に限っても『天元突破グレンラガン』、『キルラキル』、『プロメア』、どの作品も〈正義〉の衣をまとった暴力が、物語を大団円へと導いている。本作がこれらの作品の反省を行ったと単純に明言できないが、それでも今石にとって、物事を解決する手段としての暴力が持つ意味合いが多少なりとも変化したと読み取れるのではないだろうか。ただし、そのことを明言するには、各作品との詳細な比較が必要となるが。

 とはいうものの、上記したように本作に救いが皆無と考えたり、過去の今石作品と比較して、救いのなさに絶望する必要はない。本作には本作なりの救いは残されている。すなわち、いかにディヴィッドが暴力に依存していたとはいえ、彼は最後までルーシーを想い、最後には自分が犠牲になることで、最愛のルーシーを救う。サイバーサイコシス化寸前で、精神を使い果たしかけている彼は、それでもルーシーを想う気持ちは忘れていない。インプラントにより、サイバーパンクは精神を酷使する。義体化が進むことにより、精神の酷使も拡大する。それにより、加速度的に人間性が薄まっていく。それでも、彼の最後の選択を見るに、暴力に溺れ、インプラントに精神を侵されながらも、彼の精神および人間性は健在であったと言いたくなるし、生命・人間性の限界地点で、最後の最後の瞬間まで、サイバーパンク・ディヴィッドは輝く月の夢を見ていたのだろうか、と問いかけたくなる。同様に、ディヴィッドの選択を通して、今石自身も、欲望や暴力や義体化などを人間が体験しても、尚残り続ける人間性の夢を見ていたのかもしれない。

*1:以下本文で、『サイバーパンク エッジランナーズ』の用語については、太字にしております。詳細な用語の意味については、公式サイトの用語集が参考になります。https://www.cyberpunk.net/ja/edgerunners

*2:こうは言っても、ディヴィッドは正義の側のダークヒーローになる資格すら持たない。というのも、彼が八話で善良な市民を殺したとき、彼が正義であり続けるためには、次の選択肢を取らなければならないからだ。すなわち、八話で死んだ息子を持つ母親を殺したことが肯定されるのならば、サイバーパンクにより死んだ自らの母の死をも肯定しなければならない。ディヴィッドにとって、この選択は容易に取れるものではない。このことが、暴力により成り上がるサイバーパンクとしてのディヴィッドに根源的な問いを突き付け、彼は精神が不安定な状態へと向かわせる。