【アニメ考察】夏アニメ気になった演出・シーン5選【2023夏アニメ】

ⒸHERO・萩原ダイスケ/SQUARE ENIX-「ホリミヤ-piece-」製作委員会

 

概要

 秋ながら残暑は厳しい。だが、テレビアニメはすでに、夏が終わり、秋が始まって、はや一ヵ月が経とうとしている。ということで、遅ればせながら、夏アニメの振り返りとして、気になった作品・作品の話数・OPを5作品挙げていきたい。

 

 

※この考察は、『アンデッドガール・マーダーファルス』、『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』、『ホリミヤ-piece-』、『無職転生Ⅱ 〜異世界行ったら本気だす〜』、『Helck』の内容を含みます。

 

怪物の怪物たるゆえん_『アンデッドガール・マーダーファルス』

undeadgirl.jp

 半人半鬼・不老不死・メイドの三人、「鳥籠使い」が、怪物専門の探偵を生業とする。半人半鬼の津軽は、見世物小屋で、怪物たちを殺して生活していたところ、不老不死の鴉夜・メイドの静句と出会い相まみえる。一話で三人は共通の目的を掲げ、欧州へ赴き、怪物専門の探偵として活躍する。

 そんな三人が、お互いの目的を果たすために、欧州に渡り探偵業に勤しむ。二人の怪物と怪物に仕えるメイド、彼らの登場は、OPでも印象付けられる。OPの出だしから、画面は真っ暗に塗りつぶされ、その暗闇から白光に照らされた三人の顔のみが、不気味に現れる。そうして、三人が順に登場した段階で、画面は明るさを取り戻し、豪奢な部屋に三人が不敵な表情で登場する。三人の最初の登場の仕方を表すとともに、本来、表舞台を大手を振って歩ける存在ではない、怪物の在り方が的確に表現される。そのことは、本編の二つの事件で登場する怪物、ヴァンパイア・人狼が、日中を嫌い、闇を好むことでも提示されていた。

 怪物にとって、闇夜は主戦場である。本作で、怪物と人間、怪物と怪物で戦闘が行われ、その闇の効果が、戦闘においても、演出においても、いかんなく発揮されていた。だが、この点には触れないでおこう。闇を切り開くのが、「鬼殺し」の津軽であったならば、闇を照らすのは、探偵の鴉夜であった。彼女の高い洞察力と観察に基づいた推理は、欧州で名を馳せたシャーロックホームズにも匹敵した。しかし、彼女が「闇」を照らすのは、謎という意味での闇を照らすだけではない。彼女の一際白い肌は、彼女が首だけであることと同程度に、彼女が生きていることを否定する。それと同時に、彼女は怪物でありながら、怪物たちが好む闇の中で、不気味に美的に浮かび上がるのである。

 彼らは三人ともまともな人間ではない。だが、そのことは津軽や鴉夜が、人外的特徴を持っているからではない。彼の愉快な死・一級品の芸を求めた「鬼殺し」、不気味なほどの美を持つ「不老不死」、主の命により喜んで主を死なせる方法を探す「傀儡の従者」、三人それぞれに、突き抜けた人間的な特徴が強烈な個性を付与する。

 

OPに見る人斬りと不殺の剣心_『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』

rurouni-kenshin.com

 OPつながりで『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』(以下、『るろ剣』)にも触れたい。2023年に新たにリメイクされたのが、『るろ剣』である。込み入った分析なくとも、OPの軽快なサウンドが心地よく、テレビアニメが始まるわくわく感を増幅させてくれる。音についてはシンプルな感想レベルだったが、OPのよさについて、OP曲の映像と音楽のリンクを手掛かりに掘り下げてみたい。

 OPのサビ部分で、流れる映像は牛鍋屋で、剣心・薫・左之助・弥彦が牛鍋をつつき、左之助・弥彦がケンカをして、それを薫がたしなめている、という牧歌的な日常描写が流れる。そこに続けて、一列で橋を渡る四人、前を行く三人の姿を見て薫がほほ笑む様子が、印象に残る。

 それに対して、Aメロでは、剣心がこれから出会うであろう敵たちや、「人斬り抜刀斎」としての過去が、長続きの畳部屋、剣身により奥行きが取られ、ダイナミックなアクションを伴って展開されている。戦いの行き着く先には、積まれた骨(死体)と血塗られた空が立ち込める。の血塗られた空を、剣心が見上げて、空はひび割れていき、青い空が広がる剣心や薫たちが住む町のショットにつながり、OPはサビへ突入する。そして、先述した牧歌的なシーンへ続く。

 彼の過去、そして過去に引きずられ戦いに赴かなければならないAメロから彼が望むであろう人を斬らない牧歌的な暮らしが映るサビへ楽曲は紡がれる。最後、剣心は楽曲の終わり際に、彼が今帰るべき場所、「神谷活心流道場」の門をくぐって、後ろを振り返る。

 「人斬り抜刀斎」としての過去、そしてその過去が引き連れる新たな戦い、そして彼が戦う理由である日常へと映像・音楽の連続に合わせて、戦闘から日常へと繋がれる。そして、彼には帰る場所ができる。しかし、そのこと自体も、完全に安心なわけではなく、彼の後方に死角・刺客を生むことになるかもしれない。本作の主人公、剣心がこれ以上ないほどに、描かれる。本編では、ストーリーというレールに沿って、剣心や他の登場人物のことを知っていく。しかし、本作のOPでは、音楽というレールに沿って、彼の過去から現在、未来が描かれ、そして「Ayase×R-指定」による軽快なOP曲が今週も始まった、という高揚感をもたらす。これこそ、OPが提供できる最高の導入なのではないだろうか。

 

もし堀さんと宮村くんが出会わなかったなら_『ホリミヤ-piece-』13話

horimiya-anime.com

 テレビアニメの場合、放映クールと原作の終わりとが、必ずしも一致しない。そのため、原作ありのテレビアニメで、「どのように終わりを付けるか」は、脚本上の一つの大きな課題だろう。

 『ホリミヤ-piece-』13話では、セルと背景というアニメの一つの在り方*1を基に、「こうでしかありえなかった」形で、テレビアニメの終わりをエモく演出する。

 十三話Bパートは、堀さんが宮村くんと出会わず、おなじみのメンバーの中に、宮村くんがいない日常が描かれる。二人が出会わなければ、ありえたかもしれない世界。二人は、始めから馬が合っていたわけではない。そのため、このありえた世界は、もしかすれば本作が辿ってきた世界よりも、可能性が高い世界だったかもしれない。

 二人の出会い、そしてそこから生まれたいくつもの関係性。それらの関係性がなかったかもしれないという想定は、視聴者の中に悲しみを生むだけではなく、ここまで彼らを追ってきた視聴体験そのものが無に帰することに喪失感を生じさせる。最終的には、二人が出会わない世界の描写は、宮村の妄想であったことが分かる。そのとき、堀さんがきっぱりと「私たちはどうやったって、出会ってしまうんだ」と言い切ってくれる。もちろん、こう言ったからと言って、フィクション世界で出会う必然があったのかは断定できない。しかし、彼女の気持ちは断定的に表明される。その気持ちの表明によって、ありえた世界の想像により動揺した視聴者は、二人が辿ってきた話数がたとえ、偶然=外部の意図が紡いだ必然性のない物語だったとしても、当人たちはその偶然を必然と信じる気持ちは確かだと改めて確信することができる。そうすることで、彼女たちの物語は、最後に動揺させられるが、有終の美として観客にカタルシスを与え、そして少しの笑いを生んで締めくくられる

 そもそも、このありえた世界という想像は、何がトリガーで展開されたのか。回答は、Aパートの終わり際に、生徒会室で片づけを終え、井浦が海の写真を、他のメンバーへかざしてずらすショットにあると思われる。

 彼が、写真をかざすと、生徒会室にいるにもかかわらず、他のメンバーが水着を着て、海辺に立つ様子が画面に映る。数秒して、画面が徐々にトラックバックから左へずらされて、その光景が写真の光景で、写真の奥で、写真に写ったメンバーが制服姿で、談笑していることに気づく*2

 舞台が変われば、登場人物たちの様子も変わる。海辺で遊ぶ彼らは、水着に変わる。アニメにあれば、その舞台は背景であり、登場人物たちは背景を変えることで、簡単に別の世界へと移行させられてしまう。単なる場所移動であれば登場人物たちの行動・その基となる登場人物の意図によるだろうが、教室から海辺への移動では、登場人物たちの意図に無関係である。それゆえ、このシーンを、上記したありえた世界のトリガーと位置付けるにしても、この海辺の写真の映像が、登場人物の誰かの想像力をかきたてて、ありえた世界を想像させたのではない。そうではなく、視聴者がそうした想像の世界を受け入れるための、いわばメタレベルでのトリガーとなっている。つまりは、あのありえた世界は、視聴者に向けられている。

 関係性は、背景の条件によって、彼らにとって、メタに当たる立ち位置から簡単に変えられてしまう。登場人物たちの関係性を完全な必然・運命に見せかけることはできるが、そのことを十全に証明することはできない。それでも彼らの想いが、確実必然であることは提示できる。他でもありうる世界、それに対して他でもありえない登場人物、そしてそこに意味を見いだす視聴者。それぞれの関係性が問われ、ほぐされ、補強された最終話だった。偶然の出会いをきっかけにした『ホリミヤ』シリーズのアニメだったからこそ、引き立つ最終回であった。

 

救いの物語_『無職転生Ⅱ 〜異世界行ったら本気だす〜』12話

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 『無職転生Ⅱ 〜異世界行ったら本気だす〜』(以下、『無職転生Ⅱ』)では、一期でのエリスとの出来事をきっかけに、苦悩を抱えたルーデウスが描かれていた。冒険者パーティー「カウンターアロー」やゾルダート一行との出会いにより、人とのかかわりに前向きになっていく。だが、彼の悩みはまだ残っている。それが不能である。第二期で描かれるのは、彼が不能から立ち直る過程である、と言っても過言ではない。

 本作の最終話で、彼が待ち望んだ克服の時は、叙情と叙事が入り混じる豊かな描写でもって迎えられる。成就の瞬間は当然直接には描かれない。成就に至る道程を、映像は引き延ばし、そこでルーデウスが感情を視聴者へ伝播させつつも、媚薬のせいもあってか、ルーデウスの異様な興奮ぶりに完全には感情移入できないために、視聴者に一歩引かせる。

 もう一つ大切なことがあった。ルーデウスの悩みが不能についてで、その治療のために「ラノア魔法大学」へ入学したことからも、彼にとって不能の重要度がうかがえる。だが、不能が治れば、それですべて解決ではない。観客が彼の幸福を確認できるのは、行為が成功し不能を克服した瞬間ではなく、行為が終えられたであろう翌日である。元をたどれば、彼の不能の原因は、これから一緒に居続けると思っていた人物に、捨てられたことにあった。

 ベッドにも部屋にも姿が見えないシルフィエット。昨夜の痕跡を部屋やベッドに残しながらも、彼女の姿だけが消えている。再び、彼は捨てられたのか。そう思った矢先、部屋へ近づく足音と足音の発する歩く足が映り、期待を高める。ルーデウスの元へ画面は戻ってきて、ついに、歩行の主がベッドの天蓋裏から姿を見せる。このとき、彼の落胆は消失し、彼は自らの恋路に希望の光を見いだす。と同時に、視聴者も、この二人の、フィットア領以来の関係性に、一つの大きな節目ができたことに、感動は大きな高まりを見せる。

 このシーンの終わりに、ルーデウス不能が治ったことを確信して涙を流して喜ぶ。その喜びには、不能が治ったことと同時に、エリスとの一件で損なわれた心が、治癒された安堵の喜びも含まれる。最後には、シルフィエットのサングラスが、抱き合う二人を映し出す。二人の主観から外れた、客観的な距離感で、視聴者は二人の幸福なひと時を目撃することができる。

 このサングラスのショットを、もう少し深堀しても許されるだろう。というのも、サングラスが、フィッツ・シルフィエットを分けるアイテムであり、シルフィエットとルーデウスを容易には近づけなかったアイテムだったからである。シルフィエットは、サングラスを外すことで、フィッツではなく、シルフィエットとしてルーデウスの前に立っていることが印象付けられる。そして、その印象付けが、サングラス越しに、フィッツとしてルーデウスを見ていた状況から、サングラスを介して視聴者が二人の姿を見る状況へ変わることで、フィッツからシルフィエットへの印象がさらに強調される。サングラスは、ルーデウスに対してシルフィエットをフィッツとして見させるアイテムだったのと同時に、シルフィエットからも、サングラスを通して、シルフィエットとしてではなく、フィッツとして彼を見ざるをえなくしていた。

 思えば、『無職転生Ⅱ』は、主人公のルーデウスが登場せず、シルフィエットに焦点を当てた0話から始まった。シルフィエットがサングラスをかけるようになった0話から、彼女が再びサングラスを外せるようになった13話へと、『無職転生Ⅱ』は進んできた。そうした意味で、『無職転生Ⅱ』は、ルーデウスだけでなく、シルフィエットにとっても本来の自分をさらけ出せるようになる、救いの物語だったと言える。

 

競技会に響く「・・・だろが」の魅力_『Helck』

www.helck-anime.com

 声の調子、セリフの響き、そのセリフを発する状況など、何かが何度もそのセリフを聞きたくなるよう誘導してくる。そのことは、後々の展開に対しての伏線となったり、セリフ自体が意味を持ったりするに起因する場合もあるだろうが、そうした理由から切り離され、容易には理解できない求心力を持つセリフも存在する。そうしたセリフが、多くの人の心を掴み、普遍的な魅力を獲得する場合もある。

 前置きはさておいて、セリフの観点で取り上げたかったのが、『Helck』の登場人物で、帝国四天王の一人ヴァミリオのセリフである。本作の前半部分では、『Helck』は、次期魔王を決める競技会に、前魔王を倒した勇者が参加する、という物語設定からギャグテイストで物語は進む。その状況、勇者ヘルクや従者たちの抜けた作戦や画策に、幾度となく、四天王のヴァミリオはツッコミを入れることになる。ヴァミリオを演じる、小松未可子の溌剌とした声が、ヴァミリオが差し込むツッコミに張りを与えてくれる。

 特に印象に残ったのが、彼女が発する「・・・だろが」という語尾である。意味としては、「・・・」部分を念押しして、相手を納得させたり、相手を非難したりする意図が込められる。だが、ここで意味はさして重要ではない。注目したいのは響きだ。ここでは、響きを、「アクセント*3」と「語尾の切り方」に着目したい。前者の「アクセント」はわかりやすく、どこを強く発声しているかである。「だろが」の発音は基本的には、強い順に、「が」、「だ」、「ろ」となる。イメージ的には、「だ(↑)ろ(→)が(↑↑)」となる。彼女の怒りの感情が、セリフ末尾である「が」に集約されている。

 後者の「語尾の切り方」についてだが、「だろが」のセリフは、言い切りの形で発音される。これと対照的なのが、「バカ」の発音である。「バカ」では、文末に「バカ―」と叫び、彼女の怒りの炎が噴き出す。そうした落ちに使われがちな、「バカ」の発音で、「カ」部分は伸ばされ、長母音の形になり、発音が持続されて余韻ある落ちを作り出している。そのため、この場合の「バカ―」は、セリフ後場面転換されている。それに対して、「だろが」は、そもそもの「だろうが」から「う」を省略され素早く発声され、言い切りの形から、素早く発声されて急停止するような勢いが生まれる。

 この二つが合わさって、爆発落ち時に発する「バカ―」とは異なる感覚が、「だろが」のセリフにはある。「だろが」は彼女の感情が、「が」に集約される点では、「バカ―」と同じではある。そのため、そのセリフ全体に対する彼女の感情が、末尾に集約されることで、余韻のあるあいまいなものではなく、明瞭なものとなる。それに加えて、「だろが」の場合、「が」が長母音になることなく、はっきりと言い切られる。したがって、彼女の感情のパワーが、「が」の発音に集約されると同時に、そこで間延びして発散され尽くすことなく、次のセリフ、次の展開へとテンポよく連鎖する。こうして、彼女のセリフが、次なる彼女のセリフを誘発しているように感じさせることで、ツッコミのテンポのよさが感じられる。

 一つ例を挙げれば、二話の乗馬大会で、馬ではなく、犬をあてがわれたヘルクだったが、彼は犬にまたがりながら、犬と一緒に走ることで、驚異的な追い上げを見せる。当然、それに対して、ヴァミリオは家来のホンにツッコミを入れる。

 

ヴァミリオ「待て待て待て。あれ一緒に走ってるだろ」

ホン「あ、ほんとですね。足が着くのを利用したわけですか。なーるほど」

ヴァミリオ「なーるほどじゃない。だめだろが。これ乗馬レースだろが。反則負けだ。失格にしろ」

 

 この直後、ヴァミリオのテンションの高まりに反して、ヴァミリオはホンから「落馬しても失格じゃないから無理」という冷静に諭されてしまう。「だろが」は彼女の怒り、そしてそこから発するセリフを加速させる。加えて、小松未可子の凛々しく明瞭な声と、それに絶妙なテンポのよさが合わさり、ヴァミリオの力強いツッコミが構成される。そうして、彼女のツッコミが入ることで、常識では意味不明なコメディ世界を成立させている。

 

終わりに

 以上で、2023年夏アニメで、気になった作品を挙げ、それぞれ異なった側面から、その魅力に迫ってみた。もし気になった作品あれば、今からでも本編視聴を推奨したい。

 

*1:ここでの考え方は、論旨は異なるが、以下の論考を参考にしている。

 三輪健太郎「絵を動かすこと、絵を重ねること 『映像研には手を出すな!』とアニメーションの条件」『ユリイカ7月臨時増刊号』第54号第8号(通巻791号)、青土社、2022年、pp.249-258

*2:とはいえ、よくよく見れば、海辺のショットでも、下部に井浦の親指が映っている。

*3:ここでは「アクセント」を、社会的に慣習となっている単語の強弱という意味ではなく、発声の調子という緩やかな意味で用いる。