【アニメ考察】普通の高校生活に感情を補完する—『海がきこえる』

© 1993 Saeko Himuro/Keiko Niwa/Studio Ghibli, N

 

●原作
氷室冴子海がきこえる』(徳間書店刊)

●スタッフ
監督:望月智充/脚本:中村香/キャラクターデザイン・作画監督近藤勝也美術監督田中直哉/音楽:永田茂/企画:鈴木敏夫奥田誠治/制作プロデューサー:高橋望

制作会社:スタジオジブリ若手制作集団

●キャラクター&キャスト
杜崎拓:飛田展男/武藤里伽子:坂本洋子,/松野豊:関俊彦

公式サイト:海がきこえる - スタジオジブリ|STUDIO GHIBLI

 

 

※この考察はネタバレを含みます。

 

 

概要

 スタジオジブリ作品、『海がきこえる』が、3月15日(金)より、Bunkamura ル・シネマ 渋谷宮下にて、限定上映されている。氷室冴子の同名小説を原作に、テレビ・劇場公開1993年当時のスタジオジブリ若手制作者たちの手により、本作は制作された。

www.bunkamura.co.jp

 高知を舞台に、青春物語がスタジオジブリにより、繊細な物語が描き出される。主人公の杜崎拓が、大学時代に東京から高知へ帰省するところから始まる。帰省途中の機内で、彼の高校時代の回想へ入り込む。彼と親友の松野豊、そして東京からの転入生でヒロインの武藤里伽子との出会いから修学旅行・東京旅行・文化祭までを思い返す。回想から醒めて、高知での同窓会へ参加し、東京では、高校時代に疎遠となった里伽子と再会して物語を終える。

 

 主人公の杜崎、その親友の松野、ヒロインの里伽子の三人が、『海がきこえる』という物語を動かしていく。本作は、アニメ特有の超現実的な展開もないし、里伽子をめぐっての激しい恋愛模様が全面化してもいないし、事件とでも呼べる出来事が彼らの周囲で起こるわけでもない。彼らの中で、はっきりした感情の乗る言葉の応酬もなく、ドラマ性にも乏しい。その特徴から見て、ドラマ性が薄いという意味で、「普通」の高校生活を描く作品に思える。

 一見して素通りしがちな、『海がきこえる』での「普通」を、ドラマを抑制した普通さと捉え、本来ならドラマを誘発しそうな設定の二つ、「三角関係」と「ヒロインの自由奔放な性格」がドラマを抑制し、「普通」の高校生活を設定から支えていることを確認する。ドラマを抑制するといっても、淡々と感情の揺れ動き、劇的な展開が皆無というわけではない。最後の杜崎と里伽子の再会にはまさにドラマであり、この劇的な展開にふさわしい演出が取られていた。二人の再会がドラマたりうるのは、高校生活が描かれる中で、ぼんやりした彼らの感情が描かれていたからだ。こうした感情に形を与えようとする試みの一つとして、移動の扱い方を取りあげる。帰省・修学旅行・東京旅行という重要なシークエンスを、旅行の移動の観点から見る。

 順に見ていこう。

 

ドラマを遠ざける「普通」

 本作の「普通」の高校生活は、回想する高校生のエピソードからドラマが遠ざけられることから帰結する。登場人物たちには、友情があり、恋愛があり、学校や家族など様々なものへの反発がある。特に、杜崎と里伽子が再会するハッピーエンドからして、恋愛は大切な要素なはずだが、本作を恋愛の物語と位置付けにくい。というのも、高校生の回想後には、杜崎の里伽子への好意は松野に代弁され、逆に里伽子から杜崎への感情は伝聞で伝えられるが、回想では、そうした恋愛感情はお互いに伝え合うことがないだけでなく、語られもしないからだ。そのため、転入生の里伽子と杜崎は出会い、彼女と成り行きで修学旅行のハワイや東京旅行で親交を深め、そしてすれ違いの末に再会する、といった見かけ上、恋愛物としか思えないが、その恋愛感情が語られず薄められることで、本作は「普通」の学園物語の印象を強くしている。

 

 さらに、本来ドラマになりそうな要素があっても、逆に、ドラマを抑制する要素として機能している。要素を二つ挙げてみたい。

 一つは、三角関係も、本作では、ドラマを抑制する要因として機能する。メインの三人、杜崎・松野・里伽子で、三角関係を結ぶ。転入してきた里伽子に、松野はほれ込む。そのことに杜崎は気づきながらも、徐々に里伽子に惹かれる。当の里伽子も、ハプニング的に杜崎と過ごすことで、結果的に彼に思いを寄せる。松野への気遣いで、杜崎は里伽子に好意を向けにくい事情があった。そのため、物語を主に動かすはずの主人公にとって、この三角関係は恋へのハードルと設定され、なおかつ杜崎はそのハードルを越えることをしない。だが、本作では、ハードルを乗り越えるドラマは回避され、主人公が好意を抱き、語り、相手に伝えることすら抑制する機能を果たしている。

 もう一つは、ヒロイン里伽子の自由奔放な性格がある。その性格から、杜崎をふりまわす。かと思えば、不運な家庭事情に見舞われていたり、東京から高知へ来て心細さをたたえるいじらしさを備え、また、ふりまわしに杜崎が応じると、子どものような屈託のない表情を見せる。こうした二面性は、杜崎に里伽子に対する感情を、相反する感情を里伽子に向けさせる。さらに、この二面性は、ギャップとして杜崎の好意、ひいては二人の関係性に、つながらないように構成される。あとでも言及するが、修学旅行・東京旅行の後のシーンでは、二人の関係性は進展したはずなのに、旅行前と変わらない様子が描写されている。

 二つの事情が介在し、最もドラマが発生しそうで、本作の軸となる恋愛でも、ドラマが発生しそうな要素がありながらも避けられていた。これが、本作が「普通」の高校生活で、青春物であるゆえんである。

 

 こうした形で、「普通」の高校生活を描くことで、一定のリアリティが生まれるが、ストーリー上、登場人物たちの感情が見えにくくなる。こうした感情を拾い上げ、行間を読むように、演出がつけられる。

 

旅行前後の感情を補完する移動

 本作では、高知・ハワイ・東京と複数の舞台が登場する。この舞台を旅行や帰省の形で、登場人物たちは移動することになる。この移動の描き方は、その時々の登場人物たちの感情を理解する上で、重要な役割を担う。

 移動の描き方には、移動をしっかり描く場合・丸ごと描かない場合の二パターンある。

 まず、描かれる場合。これは、大学時代の東京から高知への帰省、杜崎と里伽子の東京旅行の行きである。帰省は、東京の空港、機内の様子、本編後半には高知空港から松野の車で帰路につく。主人公の情報を提示し、回想のきっかけ、松野と仲直りのきっかけを作る。もう一つは、杜崎と里伽子二人で行く東京旅行である。杜崎が家を飛び出すところから空港でのひと悶着、そして二人が話す機内までがしっかりと描かれる。移動が描かれる場合、それ自体描かれる内容が重要なので単純だ。

 次に、描かれない場合。これは四つある。第一に、修学旅行のハワイへ行くシーン。第二に、ハワイから帰るシーン。第三に、杜崎と里伽子二人での東京旅行から高知へ帰るシーン。第四に、大学時代、高知に帰省した杜崎が、東京へ帰るシーン。以上は、前のシーンから移動シーンなしに、シーンが変わると、海を越え移動を終えている。そのため、移動前後のシーンが地続きに感じられ、移動前のシーンが、移動後のシーンで登場人物たちの感情を読み解くための直接的なカギとなる。

 これらの移動の省略により、移動前のシーンでの印象を、移動後のシーンに直接持ち込むことができる。第一のシーンでは、里伽子に関し、杜崎と松野との電話直後に、彼らはハワイに着いている。数カット目には、杜崎は里伽子に出会い、借金を申し込まれる。その現場を松野が目撃しており、杜崎の気まずさが目に見える。第二・第三のシーンでは、ハワイでの出会いと借金・東京旅行の同行を経て、杜崎と里伽子の仲が深まったと思われるシーン直後に、学校では相変わらずかかわる様子がない姿を見せる。第四のシーンでは、同窓会で同級生から高知であった里伽子の話を聞き、高知城で里伽子への好意に確信した後、ラストの二人が出会う吉祥寺駅のシーンへと接続される。

 まとめれば、移動シーンを省略することで、移動前のシーンの観客の印象を持ち越しす。そのおかげで、彼らの感情の揺れ動き、関係性の進展を読み込むことができる。

 

 

 以上で、本作の「普通」がどのような内容を持って、それに伴い、大っぴらには語られない登場人物たちの感情を表現する演出を見てきた。ドラマが避けられた「普通」の高校生活は、一方でその「普通」でリアリティを獲得し、他方で、ラストに吉祥寺駅で二人の劇的な再会を準備する。また、「普通」の高校生活で語られない感情を表現する一つの手立てとして、移動の描き方にも言及した。移動を描く中に、登場人物たちの動機や関係性の進展を仕込み、また移動を省略することで、移動前のシーンと移動後のシーンを積極的に結びつける。そうした方法で、登場人物たちの感情を描き出す。

 

 確認してきたのは、「普通」でありながらも、ラストに向けて登場人物の感情をきちんと描く移動という手立てだった。とはいえ、以上の内容は本作の魅力、そして本ブログの問い、①「いかに普通か」、②「ドラマなしでいかに感情を描くか」、でさえ、全然解答しきれてはいない。①「いかに普通か」では、回想を用い、現代からのモノローグが入る構造は、高校生の杜崎を相対化しドラマを抑制する機能を担う*1。②「ドラマなしでいかに感情を描くか」では、トータルな演出が光る。特に、動きの演技・声の演技部分は、登場人物たちの感情をダイレクトにだが、細かく反映しており、観返すのが楽しみになる。

 『海がきこえる』は、「現代が舞台で学園物」というスタジオジブリにとって珍しい題材で、当時の若手を中心に制作された異色作である。それでも、スタジオジブリらしいアニメーションの追及を、徹底して日常描写に注ぎ込み、また、同じくスタジオジブリらしい背景の精緻さが、自然でもファンタジー世界でもなく、(当時から見た)現代のホテル・学校・商店街に向けられている。そして、何より観ておもしろい。スタジオジブリ「らしくない」作品であるものの、同時に「らしさ」も兼ね備えた、スタジオジブリの一つの傑作と言える。

 

*1:この点、高畑勲監督作『火垂るの墓』と構造は似ている。『火垂るの墓』では、主人公清太の駅での死から始まり、幽霊となった清太・妹の節子が過去を回想し、最後には現代の神戸の夜景が映る。