【アニメ考察】傷つけ合いはグロテスク—『傷物語 -こよみヴァンプ-』

© 西尾維新講談社アニプレックス・シャフト

 

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●原作
西尾維新傷物語』(講談社BOX)

●スタッフ
監督・脚本:尾石達也/キャラクターデザイン:渡辺明夫守岡英行/音響監督:鶴岡陽太/音楽:神前暁

アニメーション制作:シャフト

●キャラクター&キャスト
阿良々木暦神谷浩史キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード坂本真綾羽川翼堀江由衣忍野メメ櫻井孝宏/エピソード:入野自由ドラマツルギー江原正士ギロチンカッター大塚芳忠

公式サイト:「傷物語 -こよみヴァンプ-」公式サイト - 〈物語〉シリーズ (kizumonogatari-movie.com)
公式X(Twitter):西尾維新アニメプロジェクト (@nisioisin_anime) / X (twitter.com)

 

 

※この考察はネタバレを含みます。

 

 

概要

 出会いは、物語を始める最高の好機である。出会いの相手は、恋愛相手のヒーロー・ヒロイン、ともに進む仲間やもっと親密な相棒、相対するライバル、あるいは普段見られなかった新たな自分かもしれない。しかも、その相手は人間に限られず、怪異でもありうる。それが吸血鬼との出会いだったらどうだろうか。例えば、血まみれの吸血鬼に男子高校生が駅のホームで出会うという不思議な出会い方をしたのならば。この不思議な出会いにより、始まるのが物語シリーズであり、『傷物語』である。

 そのような出会い、物語シリーズの主人公阿良々木暦と最強の吸血鬼キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードとの出会い、そして二人がお互いに付け合う傷から、ある怪異譚は始まる。その出会い・傷つけ合いを描く物語こそ、『傷物語』である。西尾維新作『傷物語』を原作としたアニメ映画は、2016年~2017年にかけて、三部作ですでに劇場公開されている。この三部作の旧『傷物語』を一本の総集編にまとめ上げられ、今回公開されていた総集編が、『傷物語 -こよみヴァンプ-』である。

 旧『傷物語』から続いて、物語シリーズを通して、西尾維新の原作を忠実に意訳しようと試みる独特な映像表現が楽しく、『傷物語』には戦闘が比較的多く、豊富なアクションにも見ごたえがある。そして、今回の総集編『傷物語 -こよみヴァンプ-』では、旧作と比べて、主人公の暦と吸血鬼のキスショットの二人に焦点が向く。主には、羽川翼とのやり取りが省略されることにより成立しているため、暦とキスショットの傷つけ合い、吸血鬼退治の専門家たちや暦とキスショットの戦闘が中心となり、本作全体が血なまぐさい物語になっている。

 ここでは、その「血なまぐささ」によって、より一層の暦、一蓮托生の身となるキスショットの「傷」の物語の側面が強調されている。この二人が負った「傷」は、劇中に生じる多量の肉体的な傷だけでなく、暦が「吸血鬼もどきの人間」に、キスショットが「人間もどきの吸血鬼」になり果てたことである。この二人にとって決定的な傷をどのように描いたのかを、第一に「怪異の王」にして最強の吸血鬼であるキスショットを掘り下げ、第二に本作で登場するグロテスクな描写を分析することを通じて、明らかにしてみたい。

 前述のとおり、『傷物語 -こよみヴァンプ-』でのグロテスクな描写について言及するため、そうした表現や記述が苦手な方は注意いただきたい。

 

あらすじ

 本作は三つの出会いと四つの戦闘シーンから成る。主人公の阿良々木暦は、学校近辺で同級生の才女羽川翼と出会う。続けて同日の深夜、地下鉄のホームで、吸血鬼のキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードと出会う。彼女は、吸血鬼退治の専門家に四肢をもがれた状態で、暦は自らの血で彼女を救う。彼女を救う過程で、彼女の眷属となった暦は、吸血鬼退治の専門家の三人に対して、キスショットの四肢を取り返す戦いに挑む。首尾よく、四肢を取り戻し、キスショットが完全体になると、完全体としての彼女に、人類全体の脅威を感じ、彼女を討伐すべく、主人対眷属の戦いが始まり、暦の選択により勝負は決する。暦の選択は、暦を「吸血鬼もどきの人間」に、キスショットを「人間もどきの吸血鬼」にしておき、自らの血でキスショットを生き永らえさせることを決意し、お互いに傷を残して終わりを迎える。

 

怪異の王 吸血鬼

 暦はある夜、一体の吸血鬼と出会う。怪異の王にして最強の吸血鬼である、キスショットである。暦は地下鉄のホームで、四肢をもがれた彼女を発見する。命乞いをするキスショットを見捨てられず、彼は血を与え瀕死の彼女を救い、その反動で死に行く暦を、キスショットは自らの血を与え、自らの眷属とすることで救う。お互いに血を与え、暦はキスショットを弱体化された吸血鬼として生かし、キスショットは暦を自らの眷属として生かす。そこから、暦とキスショット、あるいは人間と吸血鬼、眷属と主人、一人と一体の傷の物語が始まる。

 『傷物語』は、吸血鬼の物語である。物語シリーズ内で、キスショットは「怪異の王」として恐れられ、特にキスショットは「怪異殺し」の異名を持つ最強の吸血鬼とされている。彼女の眷属となった暦も、本調子のキスショットに及ばないが、人間離れした強さを獲得し、吸血鬼退治の専門家たちとの戦闘でも、戦闘素人ながら三人を打ち倒し、彼らからキスショットの四肢を取り戻すことに成功する。

 元人間で眷属の暦にまで力が及ぶほど、最強の吸血鬼たる彼女の力は強大である。『傷物語』では、原作上での前作『化物語』を始めとして、他の物語シリーズに比較して、戦闘シーンの割合が高い。特に『化物語』がホラーテイストの怪異物だったのに対して、『傷物語』は吸血鬼が関わるバトルアクション物になっている。また、『傷物語 -こよみヴァンプ-』では、戦闘部分の比重が大きいことは前述した通りである。そのおかげか、『傷物語』(=『傷物語 -こよみヴァンプ-』)では、怪異の王たるキスショットの強さが、わかりやすく提示される。眷属となった暦は、戦闘の知識・経験なしに、吸血の力により三人の吸血鬼退治の専門家を狩る。そうした突出した力が、例えば眷属である暦が人間を遥かに超越した身体能力や人体を変形させて戦う様子、驚異的な身体の再生能力などが、戦闘を通じてアニメーションに落とし込まれている。

 単に力を示すのであるならば、戦闘シーンが挟まれば一目瞭然である。戦闘シーンは端的に、キスショットという吸血鬼の力を示す。暦は人間を遥かに凌駕する力を得て、吸血鬼退治の専門家たちを、弱体化した主人を置いて、眷属の力のみでなぎ払ってしまう。人間を超越した身体能力や身体変化の力、そしてキスショットが所持する怪異を殺す刀(心渡)は、吸血鬼退治の専門家を遥かに凌駕する力を示すのに十分である。

 戦闘によりその力が示された結果、力は形をとって現れ、また力がキスショットの信念を形成している。吸血鬼は圧倒的な力で相手の肉体をあらぬ形に変えるし、その吸血鬼に対抗しようとする吸血鬼退治の専門家も一般人をいとも簡単に歪ませる。ここに、怪異の王たるキスショットを頂に、眷属の暦、吸血鬼退治の専門家、一般人と力の序列が存在していることが分かる。ただ、その序列は単純に等間隔で力の順番になっているのではない。人間の中では、弱肉強食は比ゆ的な関係性に留まるが、吸血鬼と人間の間では、文字通りの弱肉強食の関係性となる。

 こうした弱肉強食の部分は、暦とキスショットが袂を分かつ、人間と吸血鬼の価値観の違いとして現れるとともに、映像では強者と弱者の戦闘で肉体的な変形・歪みとして具現化し、グロテスクな描写となる。このグロテスクさは、単に吸血鬼の力を表現するだけでなく、そこから帰結する吸血鬼の価値観、吸血鬼や人間たちの序列を、映像媒体のインパクトを最大限利用し、明らかにしてくれる。

 

傷つけ合いはグロテスク

「怪異の王」を引き立てるグロテスクさ

 本作は戦闘シーンが多く、戦闘に応じて身体は傷つき、切断され、鮮血がほとばしる。多量の血が散るし、グロテスクな描写が登場する。それは、地下鉄での四肢をもがれたキスショットの姿、吸血鬼なりたての暦が太陽光に焼かれる姿、ドラマツルギーに吹き飛ばされ切断される暦の腕、エピソードの十字架により裂かれ飛び出す羽川の内臓、キスショットに食い荒らされるギロチンカッターの姿、お互い体に孔をあけ合う暦とキスショットの姿、などグロテスクな映像が配置されている。

 戦闘が行われても、戦闘による負傷の程度や負傷をどこまで描写し見せるのかは、ある程度の裁量がある。その裁量を前提に、与えられた攻撃の殺傷能力、受け手の強度が推しはかることができるし、戦闘において何を見せたいかくみ取ることができる。

 それでは本作において、あえてグロテスクな描写が挿入された理由は何なのか。それは、力の差をはっきりさせるためである。この力の差、あるいは種族や人間内の能力の差を、グロテスクな描写は具体化させてくれる。いわば、明瞭な境界線を引く。一つに吸血鬼と人間(吸血鬼退治の専門家以下)の関係性である。それは、太陽光に晒された吸血鬼の姿であり、砲丸に潰されるドラマツルギーの眼、喰うキスショットと喰われるギロチンカッターに現れる。もう一つに、吸血鬼退治の専門家と一般人の関係性である。それは、ドラマツルギーに四肢を切断される暦、エピソードに腹を裂かれる羽川の関係性である。

 暦は人間から吸血鬼の眷属となり、太陽光が弱点となってしまう。さらに、砲丸を投げつけるだけでドラマツルギーに力の差を示し、エピソードのトリックに気づいた後簡単に絞め殺す寸前にまで至り、吸血鬼の身体変化の能力を用いてギロチンカッターを一瞬で無力化する。眷属の暦が、元々ただの高校生で戦闘経験がないにもかかわらず、吸血鬼退治の専門家の三人と渡り合ったのに対して、四肢を取り戻し完全体になったキスショットは、ギロチンカッターを難なくいなし、エサにしていた。吸血鬼の力、その眷属の力は、肉体を容易に破壊し、機能停止させることができる。そのことが、吸血鬼を恐れるに足る理由となる。人間を捕食する吸血鬼は、人間の敵であることが否が応でも示される。

 また、吸血鬼退治の専門家と一般人の違いも、そもそも戦闘の素人である暦は、ドラマツルギーとの戦闘で何度も腕を切断され、羽川もエピソードの十字架を受けて腹を裂かれてしまう。力量の差が、はっきりとした形で現れる。

 どちらにも、力の差により通常ではありえない仕方で、相手の身体を切断・変形・機能停止させる。相手の肉体を暴力的に侵す力こそが、グロテスクな描写につながっている。だが、このグロテスクな描写は、単に力の違いを見せるだけではない。そのグロテスクな状況を目の当たりにした登場人物たちが、力の差に恐れおののくと同様に、グロテスクな描写は、観客にもその恐怖を伝播させてくれる。そうして観客も吸血鬼が恐ろしと思い、キスショットの力が尋常ではないことを実感する。

 

直接/間接のグロテスクな描写

 力に差がある者同士がぶつかれば、グロテスクな状況が生まれるのは当然である。グロテスクな描写全体は力の差から帰結する。また、そのことは、暦が憐れみをかけた吸血鬼という強者の本性を照らし出し、恐れの対象であることを思い出させてくれる。

 先ほどは、グロテスクな描写を、力の差、すなわち種族や役職から導かれる序列という観点から解釈したが、別の観点からも見てみたい。グロテスクな描写をどのように表現するか、という観点で、本作でのグロテスクな描写を二つに分けられる。それは、グロテスクさを状況そのまま直接に描く表現であり、もう一つは、グロテスクさを減衰させる表現を用いて、直接的なグロテスクさを避ける表現である。便宜上、前者を直接的なグロ描写、後者を間接的なグロ描写と呼ぶ。

 本作のシーンを列挙すると、直接的なグロ描写には、太陽光に焼かれた暦の姿、切断された身体の断面、砲丸で潰れる眼の描写、キスショットに食い散らかされたギロチンカッターの死体などが挙げられる。ここでは、人体の断面や痛みに苦悶する姿が、画面内に直接提示される。

 同様に、間接的なグロ描写には、エピソードに腹を裂かれ踊るようにはらわたを出すシーン、妄想の中で暦に食らいつかれた羽川の頭が骸骨になるシーン、同じ個所で剥がれた皮が目出し帽みたく舞い落ちるシーン、極めつけは暦とキスショットの戦闘で次々に身体の一部が飛び交うシーン、同じ個所での暦の分離した足が勝手に走り続け、上半身も逆立ち状態で走り続けるシーンなどいくつも挙げられる。ここでは本来、写実的かつシリアスな調子で描けば、前者の直接的なグロ描写となるところを、異質な感覚を生む実写を利用することや、コミカルさなどそのシーンに異質な調子の効果音・動き・登場人物の反応を付けることによって、直接的なグロ描写を避けつつ、グロテスクな描写を継続している。

 

 上記に分類した直接的なグロ描写は、わかりやすい。力の差により生じたグロテスクな状況をそのまま映すことにある。その意味で、直接的である。だが、それでは、その直接的なグロ描写が選択できるシーンで、あえて実写を利用したり、コミカルな調子などで描いたりして、直接的なグロ描写を選択しない意図は何なのか。この点、間接的なグロ描写に該当するもので、特出するシーンを四つから共通する特徴を抽出して、考えてみたい。

 第一に、暦とエピソードの戦闘中に、羽川が負傷するシーンである。エピソードの十字架を受けて、羽川は腹を裂かれ、内臓が飛び出す。十字架の遠心力に引っ張られ羽川も回転し、内臓も羽川を軸にして、回転しながら飛び出す。羽川と飛び出す内臓の一体化した舞には、グロテスクさを上塗りする、美しい情景がスクリーンに浮かび上がる。

 第二に、四肢を取り戻したキスショットが、ギロチンカッターを喰うシーンだ。ここでは、キスショットが暦に見せつけるギロチンカッターの頭部、それにキスショットが喰い荒らしたギロチンカッターの首から下の肉体が映る。どちらも、キスショットの喰い跡が明瞭に見えるミドルショット・クローズアップショットでは、3Dを用いた実写風に表現されている。

 第三に、吸血鬼の空腹に耐える暦が、羽川に喰らいつく妄想を見るシーンである。妄想では、キスしていた唇から口元を離し、羽川の首元に暦が喰らいつく。喰らいついた後、喰らう描写そのものは画面に映ることはないが、目出し帽風の羽川の皮が落ちてくることで、皮から肉まで喰っていることが示唆される。

 第四に、物語の最終盤、競技場で暦とキスショットがこぶしを交えるシーンである。お互いに、お互いの身体を削り合う激しい戦闘を見せる。首、腕を落としあい、無数の首や腕が飛び交うショットや、暦の上半身・下半身が切断され、一方で意思なき下半身がトラックのコーナーを走り続け、他方で暦は上半身のみでキスショットと対峙している、など眷属と主人の戦闘をコミカルさを取り入れて描いている。

 四つのシーンから読み取れるのは、四つのシーンは必ずしも互いに生きるか死ぬかを賭けて、お互いに戦闘しているわけではないシーンであり、さらに、シリアスにかつ写実的に描けば、かなりグロテスクな描写となって映像化される可能性が高いということだ。もちろん、本シーンは後者の要点より、グロテスクすぎることが直接的なグロ描写を避けた理由の一つと言える。そのため、直接的なグロ描写によれば、より一層、そのシーンにグロテスクだという強い印象を与えてしまう。その結果、そのシーンはグロテスクだ、という印象が前面化し、たとえそのシーンの意図が他の意図を持っている可能性があったにしても、その可能性を読み取ることができなくなってしまう。

 しかし、重要なのは前者の要点に思える。すなわち、直接的なグロ描写は、暦の燃焼を除いて、主には戦闘シーンの結果として現れる。そこには、戦闘の結果、その結果を作り出した力、あるいは力の差以上に、表現されるものは存在しない。だが、上で挙げた四つのシーンは、戦闘に重きが置かれていないことを先ほど指摘した(前者の要点)。とするならば、四つのシーンで重要なのは、お互いの力や力の差から導かれる戦闘の結果を、ありのまま映すこととは異なった、前後の文脈を伝えることにある

 第一のシーンであれば、本作の時系列において、それほど暦と親しくない羽川にヒロイン的属性を付与して、後からの暦の二つの反応を引き出す。一つは、怒りの余り、エピソードを失神させること、もう一つは、友人となってからそれほど立っていない羽川を必死に救おうとすること、の二点である。

 第二・第三のシーンでは、どちらも人間を喰う吸血鬼が描かれ、どちらもが暦の恐怖を引き出している。第二のシーンでは、彼が助けた吸血鬼の恐ろしさ、人間との分かり合えなさを、3Dで作られたギロチンカッターの食い散らかされた肉体、キスショットが持つ頭部が物語っている。第三のシーンでは、空腹の限界で、羽川を食ってしまうことへの恐れである。皮をかみちぎり、肉を貪る様が、ひらひら落下してくる目出し帽型の顔面の皮から見て取れる。このシーンでは、暦が羽川を喰う動作は画面内に映らないが、直前にキスショットがギロチンカッターの頭部にかぶりつく動作を見ているから、その記憶が嫌でも思い出させられ、さらに人物を暦と羽川に置き換えて、想像せずにはいられない。したがって、暦の罪悪感、人間を喰うってしまった生理的な不快感が、妄想内で暦が感じたであろう感情が、観客も肌で感じられる。

 第四のシーンでは、激しい戦闘とそれを遊ぶ心持が両立されている。後に明かされるが、この戦闘でキスショットが暦に殺されるつもりだった。真剣勝負でない戦いがコミカルな表現を用いて描かれる。

 こうした間接的なグロ描写は、グロテスク過ぎる描写を回避しつつ、グロテスクさが持っている強烈な違和感、衝撃、生理的な嫌悪感を残している。そうしつつ、四つのシーンで指摘したように、それぞれでグロテスクさ以外の文脈もしっかりと伝えてくれる。

 また、グロテスクさの避け方自体も、独特な仕方も本作の魅力の一つだ。それも、本作のグロテスクな描写以外の演出と齟齬をきたすことなく成立していることに依存しているため、西尾維新原作を独自の仕方でアニメ映画へと翻訳した演出に通じている。

 

 以上で、バトルアクションが多めの『傷物語』(=『傷物語 -こよみヴァンプ-』)から、戦闘はバトルアクションの魅力たっぷりに描き出され、その帰結として派手な流血や肉体のグロテスクな描写が付いて回ることに触れてきた。加えて、戦闘の負傷で生じるグロテスク(直接的なグロ描写)な部分とは別に、「間接的なグロ描写」に言及した部分については、直接的なグロ描写以上の文脈を伝えてくれ、さらにその描写が物語シリーズ、もっと広くシャフト独特な映像表現として楽しむことができる。

 

「吸血鬼もどき」と「人間もどき」の傷

 こうしたグロテスクな描写は、はっきりと種族・役職の違いを、観客に照らし出し、登場人物たちに刻み込む。吸血鬼・眷属・吸血鬼退治の専門家・一般人、と明瞭に序列付ける。

 この序列の読み誤りが、暦の「善き行為であっても、正しくはない行為」につながる。四肢をもがれ、弱体化したキスショットの姿に、彼は憐れみをかけ、自らの命を賭して、彼女の命を救う。加えて、彼女の完全復活のため、また自分が人間へ戻るため、キスショットの四肢を取り戻す戦いに参戦する。そうして知った事実が、先ほどの序列である。暦が憐れみをかけた吸血鬼は、本来では人間が憐れみをかけるべき存在ではなく、逆に、人間を食料とし、喰う喰わないの人間に気まぐれをおこす側の存在だった。暦はその過ちを受け入れるも、キスショットを殺すことを選択できない。最後には、その過ちの不幸を等分する過程で、登場人物たちの序列は無理やりに転倒させられる。眷属の暦は、キスショットを生かし、人間に戻れない代わりに、「吸血鬼もどきの人間」になり、キスショットは、死ぬこともできず、「怪異の王」たる最強の吸血鬼にも戻れず、「人間もどきの吸血鬼」となる。

 『傷物語』(=『傷物語 -こよみヴァンプ-』)は、暦が怪異と出会う物語であり、怪異を背負う物語であったわけだ。

 彼の怪異との出会いから最後の選択まで、彼と吸血鬼にフォーカスが絞られた、グロテスクな「傷」の物語こそが、『傷物語 -こよみヴァンプ-』だった。暦が傷を負い、傷を負わせる物語である。人間と怪異の境界を越境しはしないが、限りなく接近していく。逆に、傷を負わされたキスショットも、人間に限りなく近づく。その過程と同様に、できあがった関係性はグロテスクである。人間も吸血鬼も本来の在り方を歪められ、お互いなしでは生きてはいけない。過程も結果もグロテスクであった。この「傷」の物語が出発点であり、二人の接近によって、物語シリーズが展開する怪異譚が開かれ続いている。

 

 

 最後に、「傷」は物語シリーズの出発点となるが、『傷物語』自体、奇妙な立ち位置にいる作品である。原作小説の場合、物語シリーズ第一作目の『化物語』に続く二作目の作品であり、マンガの場合『化物語』内の第四話「なでこスネイク」第五話「つばさキャット」の間に第零話として挿入され*1、アニメの場合、原作のファイナルシーズン*2最終話の『続・終物語』の前に三部作で劇場公開されている。

 それに対して、時系列的に、物語シリーズの出発点となる。キスショットはこれから、忍野忍として物語シリーズに登場し、「怪異の王」キスショットとは違った姿で、視聴者を魅了してくる。どう魅力的かは、ぜひこれ以降の物語シリーズを見ていただきたい。何はともあれ、ひとまず言えることは「ぱないの!」。

 

*1:第一話「ひたぎクラブ」、第二話「まよいマイマイ」、第三話「するがモンキー」、第四話「なでこスネイク」、第零話「こよみヴァンプ」、第五話「つばさキャット」の順で収録されている。

*2:物語シリーズのシーズンについては、ファースト、セカンド、ファイナル、オフシーズン、モンスター、そして番外編が存在する。以下、シーズンごとの構成となっている。

ファースト:『化物語(上・下)』、『傷物語』、『偽物語(上・下)』、『猫物語(黒)』
セカンド :『猫物語(白)』、『傾物語』、『花物語』、『囮物語』、『鬼物語』、『恋物語
ファイナル:『憑物語』、『暦物語』、『終物語(上・中・下)』、『続・終物語
オフ   :『愚物語』、『業物語』、『撫物語』、『結物語
モンスター:『忍物語』、『宵物語』、『余物語』、『扇物語』、『死物語(上・下)』
ファミリー:『戦物語』
番外編  :『混物語』
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