【アニメ考察】ぼっちによる音と友情を浴びる―『ぼっち・ざ・ろっく!』

©はまじあき/芳文社アニプレックス

 

 人気タイトルが集った2022年秋アニメの中でも、一際話題をさらった作品の一つが、『ぼっち・ざ・ろっく!』である。四コマ漫画の原作にある行間が、才能溢れるアニメーターによって、アニメーションで補完されていく。その遊び心満点の補完は、各話が放映されるたびに、度々指摘されてきた。今回は、リリースされたアルバム『結束バンド』も好調な『ぼっち・ざ・ろっく!』の魅力を見ていきたい。

 

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●原作
原作:はまじあき(芳文社まんがタイムきららMAX」連載中)

●スタッフ
監督:斎藤圭一郎/シリーズ構成・脚本:吉田恵里香/キャラクターデザイン・総作画監督:けろりら/副監督:山本ゆうすけ/ライブディレクター:川上雄介/ライブアニメーター:伊藤優希/プロップデザイン:永木歩実/2Dワークス:梅木葵/色彩設計:横田明日香/美術監督:守安靖尚/美術設定:taracod/撮影監督:金森つばさ/CGディレクター:宮地克明/ライブCGディレクター:内田博明/編集:平木大輔/音楽:菊谷知樹/音響監督:藤田亜紀子/音響効果:八十正太

制作:CloverWorks

●キャラクター&キャスト
後藤ひとり:青山吉能/伊地知虹夏:鈴代紗弓/山田リョウ:水野朔/喜多郁代/長谷川育美

公式サイト:TVアニメ「ぼっち・ざ・ろっく!」公式サイト (bocchi.rocks)
公式TwitterTVアニメ「ぼっち・ざ・ろっく!」公式 (@BTR_anime) / Twitter

 

一話については、過去記事をご参照ください。

 

 

※この考察はネタバレを含みます。

 

 

概要

 『ぼっち・ざ・ろっく!』(以下、『ぼざろ』)はタイトルの通り、「ぼっち」と「ロック」の二輪が物語を動かしていく。「ぼっち」の主人公、後藤ひとりが、結束バンドのメンバーに出会い、「ロック」を通して、成長していくバンド青春物語である。「バンド」と「青春」と続けば、すぐに連想されるのが、同じきらら系列作品の『けいおん!』である。『けいおん!』は、いわゆる「ロック」らしいハードな音楽からハードさを払しょくして、部活動として「軽い」音楽のイメージを広めるのに貢献した。それに対して、本作で主人公たちの活動場所のメインはライブハウスであり、本格的なバンドを前面に押し出して、物語が進んでいく。

 名は体を表すように、『けいおん!』は、部活動として音楽が描かれるが、バンド活動の合間にある、「放課後ティータイム」のゆるい日常が主になり、描かれる。『ぼざろ』は、前述したように、「ぼっち」と「ロック」が土台を築き上げている。

 本ブログでは、この「ぼっち」と「ロック」の要素が、アニメ本編で展開されていたのか見ていきたい。前者の「ぼっち」の側面は、主に本作が往々にして指摘されてきた、ぼっちの妄想を表現する独創的な映像に現われる。後者の「ロック」は、前述の通り、彼女たちが活動するライブハウスに関わってくる。彼女たちは、バンドを結成し、ライブハウスでライブを行う。先取りして言ってしまえば、ひとりがぼっちを脱却する成長の局面が、バンドを結成し行うライブシーンで色濃く表れる。「ぼっち」の個性を表す独創性・「ロック」を奏でる友情のハーモニーを、ひとりの成長物語と「結束バンド」の関係性に結び付けてみたい。

 

自由気ままなぼっち時間

 後藤ひとりは、幼少期、小学校、中学校、とぼっちだった。あるとき、テレビでバンドがキャスターからインタビューを受けているのを見る。テレビの画面内で輝く彼らが、教室の隅で本を読んでいた学生時代を送っていたことを知り、「自分も人気者になれるのでは」と思い、ギターを始める。そうして、中学生でギターを始めるも、現在の高校生になるまで、ひとりに輝かしい青春は訪れていない。

 それが突如、虹夏からリョウを含む「結束バンド」に誘われ、さらにひとりと同じ高校の喜多を加えて、念願のバンド活動を始める。ただ、人は簡単に変われないもので、彼女がバンドを始めたからといって、彼女の内面が変貌するわけではない。それゆえ、「変わった子」と評されるひとりのぼっち的性質とでも言うべき個性は、「結束バンド」に加入してからも健在である。彼女はぼっちであるがゆえに、容易に妄想に深く潜り込み、声に出すことのないモノローグで会話し始める。

 彼女の「個性」は、バンド(メンバー)が奏でるハーモニーの一員となる前に、アニメーターたちの独創的な表現として画面に現れる。本作では、毎話にわたって、独特な演出で視聴者を楽しませてくれる要素が目白押しだったが、ここでは特に印象的だった演出をいくつかピックアップして言及したい。

 

人と話せず、ひとりで話す

 ピックアップする演出を二つに分類しておく。一つはモノローグであり、もう一つは妄想である。前者のモノローグは、分かりやすい。ひとりが心の中で、考えていることが視聴者にだけ聞こえている、といった演出である。これは、本作で特別に使用される演出ではないし、むしろアニメ作品では、このようなモノローグは多用されがちである。しかし、『ぼざろ』では、このありがちな演出を、おもしろい用い方をする。

 モノローグを使用し、ひとりを表現するとき、単にひとりの心情を視聴者に伝えたり、そのときの状況をモノローグで説明する以上のことを行っている。はたして、モノローグが担う、心理描写・状況説明以上の効果とはどのようなものだろうか。

 結論から言えば、ひとりのぼっち的性質を表現するように、用いられている。一つの用い方として、ダイアローグの返答として、モノローグが用いられている。例えば、一話のシーンでひとりと虹夏が会話するシーンがそれだ。公園に居たひとりは、虹夏に強引に連れ出され、ライブハウス「STARRY(スターリー)」に向かう。道すがら、虹夏はひとりに話を振るも、ひとりは必死に虹夏と目が合わないように顔を逸らせ、伏し目がちにおどおどと返答する。他方で、心の内では、声に出す返答と違って、虹夏の問いとは関係ないことを語り、「いいにおいがする」という思いから、能動的に虹夏の髪を嗅ぎに近づく様子を見せる。さらに、虹夏と歩いているにもかかわらず、武道館ライブの想像に浸るなど、二人は話が合う・合わないの以前に、会話が成立していないように見える。これこそがモノローグが表現する、他人と話す機会が少なかったひとりのぼっちさである。

 このコミュニケーションの不成立は日常生活のみならず、一話で地続きに音楽にも通じていく。ひとりは、「ギターヒーロー」の名義で動画サイトに、ギター演奏を投稿しており、それなりの人気があり、演奏技術にも定評があった。しかし、一話にて「結束バンド」(三人)で演奏すると、ひとりの息の合わせられないギターに、虹夏・リョウから下手認定されてしまう。

 一人で弾くギターは上手いけれども、バンドで合わせると、途端に下手になってしまう。それと並行に、一人(モノローグ)であれば、流暢・壮大に語ることができるも、相手がいて声に出す必要があると、臆病な様子が声色に現われてしまう。また、話者を無視して、自分の中で会話が完結してしまう。このようなひとりの個性が、モノローグを用いて、巧みに演出される。

 

妄想世界への旅立ち

 次に、後者の妄想について、言及したい。ひとりはしばしば、現実世界から離脱し、妄想世界へ飛び立つ。武道館でライブする姿、文化祭で活躍する姿、陽キャな自分の姿を思い描き、SNSの光で承認欲求モンスターになり、酒浸りで引きこもりの未来やところてん営業をする(ひとりにとって)悲惨な未来など、取り留めのない妄想が繰り広げられる。この妄想が、波打つ曲線で作画だったり、実写・人形劇・ドット絵・超デフォルメやパロディがふんだんに取り入れられた演出で表現される。この点では、頻繁に顔が崩れる描写が用いられたことが有名である。

 モノローグと同様に、人と話す機会が少なく、肥大化した彼女の内世界は、絵にしてみると、実に興味深いものとなる。彼女自身、妄想の余りの密度によって、妄想の影響が心の内に収まらず、表情や動きに現れ出てしまう。輝かしい自分の姿を描いて、妄想であるのに喜びを露わにしたり、悲壮な未来や青春溢れる妄想に身悶えしてしまう姿を見せる。

 そして、青春の輝きや陽の波動に、ひとりが度々痙攣して動けなくなるのを、「結束バンド」のメンバーが見るとき、妄想の反応は身体を通して、結束バンドのメンバーに伝わっていく。彼女は、モノローグでしか、しっかりと話せないが、それ以上に、妄想の反応という意図しない形で、ひとりは、自分がどのような人間かを「結束バンド」のメンバーに伝えている。その意図しない形での伝わり方は、ひとりの人格を嘘偽りなく伝えるため、結束バンドのメンバーは彼女を、「こんなにおもしろいのに」と好意的に受け入れられる。

 そのように、ひとりを受け入れてくれる結束バンドに加入することで、彼女はぼっちではなくなり、結束バンドのギターとして成長する。彼女は、妄想や彼女の関心に流されるまま、現実忘れて、モノローグでの独り言を垂れ流すだけではなく、結束バンドの一員として、他のメンバーを見て、「私」だけではなく、「結束バンド」として活躍したいことをモノローグで語り、遂には彼女の口から「結束バンド」のメンバーそれぞれに自分の思いを語るようになる。

 「結束バンド」のメンバーが出会い、ひとりが成長していく場であり、何より本作の中心となるのは、ライブハウスであり、そこで行うライブである。続いて、孤独な「ギターヒーロー」が、「結束バンド」のギタリストに成るまでの経緯を、ライブに焦点を当てて見ていきたい。

 

交じり合うライブ時間

 一人で演奏するのとは違い、ライブの時間には、他のバンドメンバーの音により刻一刻と状況は変わり、現実世界から離脱して、妄想世界に飛び立ち、気絶して現実世界での身体の行動を停止するわけにはいかない。しかも、バンドであるからには、他の音を無視して、自分の演奏をすればよいわけではない。ましてやライブであれば、他の音を聴いて音に合わせるのは当然として、加えて音からメンバーの時々の調子や会場の雰囲気にまで配慮しなければならない。結束バンドに加入し、ひとりはぼっちを脱却したが、このような複数人との共同作業の中でもがく。ひとりは人気者になるために、ギターに打ち込み、「結束バンド」と出会い、まずはぼっちを脱却する。彼女の現状を変えるためのもがきは、一人でギターをすることから、「結束バンド」のギターとして、「結束バンド」の音楽を届けることに移っていく。

 彼女のステージは、押し入れからライブハウスへ移された。彼女はライブで、どのようなもがき・変化を見せてくれるのだろうか。

 

リアルライブ作画の元

 まず、前提として、本作のライブシーンに関する情報について、触れておきたい。本作のライブシーンは重要なシーンとなる。それは、ライブディレクターからライブアニメーター・ライブCGディレクターが割り当てられていることからも分かる。さらに、モーションアクターが演奏する姿のモーションキャプチャーし、それを基にしてCGでレイアウトのベースを作成し、レイアウトベースから、ライブアニメーターにより、作画で書き起こされるというライブシーンの手の込みようである。このようにして、クオリティの高いライブシーンが、全十二話中、五度も差し込まれる。本作がバンド少女の日常を描くだけではなく、ライブシーンにも高い比重を置いていることが、上記の事実からも明瞭になる。

 また、モーションアクターによる演奏のキャプチャー、CGでライブシーンの作成、CGを基にした作画を経由することで、ライブシーンにおける演奏の作画に、リアルな重みを加えることができる。ギター・ベースを弾く手、ドラムを叩く腕など、楽器に触れ直接に音を奏でる身体の部位だけではなく、演奏に合わせ揺れ動く身体の動きも、必要なノイズとして描き出される。演奏時の姿勢や揺れ動きも、登場人物ごとに描き分けられ、その描き分け自体で登場人物たちを表現し続ける。

 以上で、本作が持つライブシーン作画面での魅力を、前提情報として簡単に触れた。ライブの躍動感を表現しきった作画、それにスタッフ構成から本作において、ライブシーンへの力の入れようが窺える。しかし、ライブシーンはまだまだ魅力を秘めている。

 

魔性のステージ空間

 個々のライブを見ていく前に、ライブ全体補足しておきたい。本作では、ライブハウスが中心となるとはいえ、五度のライブの内、路上(六話)と体育館(十二話)でライブを行う回もある。どのライブでも共通して意識されていたのは、演奏者がいるステージの空間演出である。

 どのライブでも、総じて単調なカメラアングル・ポジションのみで構成されず、種々な角度・ポジションから、ひとりたち演奏者を映していく。そして映されるのは、演奏者である「人」だけではなく、ギター・ベース・ドラムなどの楽器、マイクからスピーカーやギターからアンプへつながれるコード類、アンプ・スピーカー・マイク(スタンド)などの機材、ライブハウスや広場を照らす照明(機材)、体育館のステージを仕切る幕など、演奏者を包みこむステージの一部を構成する「物」・「背景」も映しこむ。

 加えて、路上や体育館では、そこにあるものを総動員して、ステージ上の空間を演出してみせる。路上ライブでは、ひとりときくりの背後にある柵やひとりの左前に位置する歩行者用信号、それにひとりの右手方向に少し離れてある道路照明などが用いられる。体育館では、体育館備え付けの幕をステージを仕切り、さらにステージに肘をつくきくりのショットを間に挟んで、ステージの空間(+高さ)を演出する。

 路上・体育館では、奥まったライブハウスよりもステージに開放感が生じてしまう。それにより、演奏者が立つ空間や、そのステージという空間に根付く特別感が、開放感に霧散してしまう。路上のステージでは、背景の景色と同化し日常の一部でしかなくなり、文化祭でライブを行う演奏者は、日常(=学校)の連続性にある空間にすぎず、観客と同じ立場(生徒)に過ぎなくなる。それにより、ステージは実在感を失い、はりぼてと化し、演奏者自体の実在感も削がれてしまうし、何よりも、ステージそのものに特別感を与えられず、演奏者がステージに立つことにも、特別感を与えられなくなってしまう。そうすると、ひとりが、初めて路上ライブをしたり、文化祭ライブに出演したりすることに対する特別感が希薄化されてしまう。

 聞くものを虜にする演奏者が立つステージを、カメラアングル・ポジション、機材や建物環境を用いて、実在感を持った空間として、演出している。そのことは、ひとりや「結束バンド」が、「ライブを行う」ことの特別な意味を引き出している。

 ここから個々のライブを子細に見ていきたい。まず三回のライブ(一話・五話・六話)について簡単に触れ、その後、八話と十二話のライブについて言及していく。というのも、ひとりの成長・変化に着目するなら、八話は結束バンドのギタリストとしてのひとり、十二話はギタリストではない後藤ひとりとして、重要なライブだったからだ。端的に言えば、それぞれの主眼は、八話は「ライブ」・「音楽」であり、十二話は「友情」である。これらの主眼が、いかに演出されていたのだろうか。

 

初で・オーディションで・路上で・ライブ―1話・5話・6話

 一話では、ずっと望んでいたバンドを組んでライブに出ることが叶う。しかし、完熟マンゴーのダンボールをかぶって、ライブに出演し、このままではだめだとひとりは自覚する。五話では、結束バンドとしてライブに出るために、オーディションライブを行う。三話で喜多が結束バンドに加入し、三人とも仲を深めてきた。ひとりは、自分だけではなく他の三人も含めた結束バンドの全員でちやほやされたいと願うようになり、背景に演奏を伴い、その願いがモノローグで力強く語られる。六話では、チケットノルマをクリアするために、なし崩し的に路上ライブをすることになる。そこで、ひとりは、「初めから敵なんかいない」と聴衆への恐怖を克服する。

 一話で、日常パート・ライブパートで、ひとりが、対人関係が苦手だと示される。五話でバンドメンバーへの思いが変化し、六話で聴衆への感じ方が変わったことが表現される。そして満を持して、結束バンドの初ライブである八話・十二話のライブへと続いていく。

 

勝負の八話と団結の十二話

 八話・十二話*1をそれぞれのテーマに即してライブシーンを分析していく。八話と十二話は、『ぼざろ』の名作回の挙げるなら、間違いなく筆頭候補になり得る名作回である。両者ともに、前半にライブ、後半に結束バンドの日常が描かれている。前述したように、この節ではライブについて言及する。が、八話と十二話のライブは、同じライブといえど、かなり趣が異なる。その「趣の違い」を念頭に置きながら、まず八話と十二話を比較して、各話の違いをテーマに関連付ける。次に、各話のライブシーンの細かな演出について、語り尽くしたい。

 

ライブシーンの抜粋は、以下参考。

八話:「あのばんど」

【LIVE映像】結束バンド「あのバンド」LIVE at STARRY / 「ぼっち・ざ・ろっく!」劇中曲 - YouTube

十二話:「忘れてやらない」、「星座になれたら」

【LIVE映像】結束バンド「忘れてやらない」LIVE at 秀華祭/ 「ぼっち・ざ・ろっく!」劇中曲 - YouTube

【LIVE映像】結束バンド「星座になれたら」LIVE at 秀華祭/ 「ぼっち・ざ・ろっく!」劇中曲 - YouTube

 

 手始めに、結束バンドを映す上で、十二話にあり、八話にないショットを手掛かりに、各話の違い、そしてその違いが、各話で表現するテーマ(「ライブ」と「友情」)にどのように関係してくるか考える。八話にあるのは、二つである。観客がほとんど映らず、画面内全面に結束バンドが立つ体育館のステージが映るショット、ステージ内の上手から虹夏が入る形で、横からのショットである。

 

『ぼざろ』12話より ©はまじあき/芳文社アニプレックス

 

十二話については、フロアからステージを映す引きのショットは、必ず観客が画面内に組み込まれ、観客の存在が意識されていたし、後者のようなステージ上で、結束バンドの四人全員を映す横からのショットは、八話にはない。全員を映すショットがあるにしても、虹夏が喜多に突っ込みした後のステージ背面からの俯瞰ショット、ひとりがギターソロを弾き始めた後の「あのバンド」中に、ひとりの上方から全員を俯瞰ショットで収める場面(二回)は二パターンのみである。どちらも俯瞰ショットが選択され、視聴者はステージに立つ彼らと同じ高さで、彼女たちを見ることができない。それが、十二話では解禁される。

 このことは、先に挙げたテーマ、八話の「ライブ」と十二話の「友情」に直結してくる。前者では、ライブハウスの聴衆も、過度な演技は控えられ、定点から彼らのステージへの反応の変化が、彼らの造形描写とともに、客観的な視点で、丁寧に描き出される。それはステージの空間を丁寧に描くことによって、ステージ上の演奏者の存在を確かにステージに位置付けているのと同様に、聴衆もライブハウス内に、位置付けられる。演奏者、すなわち結束バンドのメンバーをステージへ位置づける、つまりリアリティを付与しようとするのは分かるが、なぜ聴衆にもリアリティを付与する必要があるのか。当然、主要人物以外のモブを丁寧に描くことで、作品全体のリアリティを底上げするためとも考えられる。しかし、ここにはより迫って、聴衆も結束バンドのメンバーと同程度のリアリティを持つ必要があったと言いたい。逆に、八話とは違い、十二話においては、聴衆は、同程度のリアリティを持つ必要はないのである。

 八話では、なぜ聴衆にも、リアリティが必要かと言うと、最初の話にも戻るが、彼女たちが部活動のバンドではなく、ライブハウスで演奏するバンドであるところにある。彼女たちは、ライブハウスで活動するバンドであるがゆえに、ライブハウスの聴衆、すなわちお客様の率直な批評に、彼女たちは晒される立場にあることを表現するためだ。聴衆を魅了する演奏をすれば、評価されファンも付いてくるし、逆に聴衆を惹きつけられなければ、スマホを触るBGMにしかならないのである。要するに、ライブハウスで活動する以上、彼女たちはただの仲良しバンドではいけないのである。それゆえ、ライブハウス内において、聴衆の反応も、結束バンドを描写する大切な要素の一つであり、そこにリアリティがなく、聴衆が全肯定で結束バンドを称賛しようものなら、ライブハウスで活動するバンド物語という『ぼざろ』の根幹が崩れ去ってしまう。そのため、八話の聴衆は、単に「あのバンド」の演奏がかかり、結束バンドが演奏を持ち直したと表現するための手段というだけではなく、本作のライブハウス「STARRY」を支え、さらに本作自体を支える重要な存在といえる。「ライブハウスでライブを行う」というのは、聴衆は敵ではないとはいえ、彼らをファンにできるか否かの厳しい戦いであることが分かる。この厳しい戦いの場で、先陣を切るほどに、彼女はギタリストとして、結束バンドを引っ張って行く。

 ところで、その聴衆と同じフロアで、視聴者は幾度も「結束バンド」のライブを眺める。このことは、先ほどの議論を踏まえれば、ただ引きの絵で、ライブハウスの雰囲気を伝えるショットではないと予想が付く。作中の聴衆と同じ位置に立つ視聴者は、実は聴衆と同じなのである。つまり、ステージ全体を映すロングショットで、視聴者の立ち位置が聴衆と同一なのは、聴衆が初めて見るバンド(=「結束バンド」)を「どんなバンドか?」と批評的な目・耳・体全体で見定めるように、ゆるさとバンドを前面に出した『ぼざろ』のバンドパフォーマンスが「どんなものか?」と、視聴者が見る点で重なるからだ。聴衆も視聴者も、「結束バンド」の「音楽」、ひいては「ライブ」をこそ見定めているのである。そして、ひとりは、「結束バンド」のリードギターとして、バンドを導き、彼女たちの「ライブ」で視聴者も観客も魅了してみせる*2

 対して、その点で、十二話は異なる。十二話は八話とは異なり、仲良しバンドでよいのである。それは、文化祭ライブで技術のあるなしは、少々問われるにせよ、それほど重要ではない。要は出し物として、盛り上がるかどうかが重要である。そのことは、一曲目の「忘れてやらない」が終わった後に、ひとりが「意外と盛り上がった」とモノローグで言うように、盛り上がることがまず重要なのだ。そのため、一部のファンや友人を除いて、聴衆は灰色に塗りつぶされて、明らかなモブとして描かれる。八話とは異なり、聴衆のシビアな視点は欠如している。それゆえに、観客が絶えず意識される、ステージへ向かう引きのショットは少なくなり、会場の盛り上がりを伝えるためだけの、俯瞰での超ロングショットが差し込まれる。加えて、結束バンドが演奏するステージから、彼女たちを見る横からのショットがあるのは、視聴者が彼女たちがどんな演奏するかを、これまでの十一話を見て、知っているからだ。ここでも聴衆と視聴者は同じである。すなわち、文化祭ライブという場で、聴衆も視聴者も、彼女たちのライブを見定めるのではなく、彼女たちの「ファン」として、あるいは楽しむためにライブに身を置いている。文化祭ライブの会場に居るのは、敵味方でもないライブハウスの聴衆ではなく、まずもって味方である聴衆なのである。

 それに、十二話のテーマは「友情」と明言しておいたが、ここで表現されているのは、「仲良し」の部分である。結束バンド内でいち早くひとりの凄さを知り、同じギターとしてひとりを支えられるように努力をしてきた喜多とひとりの関係性が明瞭に描き出される。

 以上で、簡単にではあるが、八話の「ライブ・音楽」、十二話の「友情」というテーマがいかに表現されているか、画面構成に加えて、ライブハウスでのライブと文化祭でのライブの違いから考察した。ファンを獲得するかしないかシビアな空間でライブを行う八話、文化祭という祭りの中で「ファン」たちに囲まれて集大成的な「仲良し」ライブを行う十二話。それぞれの特徴を取り出せたと思う。

 続いて、八話・十二話をそれぞれに言及していく。八話については、ライブ体験を再現ではなく、表現する魅力を、十二話では、喜多とひとりの友情を表現する魅力を深堀していく。

 

ライブ体験の再現と物語中のライブ表現―8話

 八話では、「ギターと孤独と青い惑星」の前半部分、「あのバンド」の後半部分に分けられる。ここでは、パフォーマンスの上がらない前半部分から、ひとりの覚醒、盛り上がりを見せる後半部分へ、いわゆるライブの魅力を存分に見せつけてくれる。各楽器の音色と弾き・叩く手元まで丁寧に作画されたアニメーションがミックスして、視聴者の興奮を掻き立てる。そこには、ライブの魅力が詰まっている。

 とはいえ、注意が必要なのは、このシーンそのものに、ライブハウスでライブを見ることの魅力がすべて詰まっているわけではないことだ。目の前で行われる演奏に、圧倒・衝撃を受け、感動し、陶酔するなど、目の前でライブを体感する体験性には及ばない。画面の前では、暗いフロアに立ち、ステージライトの逆光に差されながら、演奏者を見上げることもないし、ライブハウスの音響設備により、呑み込まれるような音を浴びることもない。そのため、結束バンドのライブは、ライブハウスでのライブを再現しているが、完全にその体験そのものを再現しているわけではない。だが、そのことは結束バンドのライブが、本物のライブの下位互換だとは意味しない。なぜなら、本物のライブにはない魅力を持っているからだ。それこそ、ライブの再現ではない、物語中のライブ表現の力である。

 八話の最も盛り上がりを見せる、ひとりの覚醒から「あのバンド」の触り(7分10秒~)まで、詳細に演出を見てみる。ひとりのモノローグとひとりの横顔のクローズアップをきっかけに、「あのバンド」はひとりのギターから始まる。圧巻のギターパフォーマンスは、「結束バンド」の三人を驚かせ、聴衆に思わず顔を上げさせ、きくり・星歌をにやりとさせる。彼女のギターに、彼女の決意が加わり、ひとりのギターパフォーマンスには、音・映像以上の魅力が生まれる。

 ギターソロが続くショットの連続の内に、特に視聴者の心を代弁するショットが挟みこまれているのも興味深い。ひとりが演奏を開始してから、「結束バンド」のメンバーの様子を映すショット、きくりの超クローズアップショット以外に、六話で獲得したひとりのファンのショット・ひとりの正面からのショット・PAさんの横顔ショット、きくり+星歌の立ち姿のロングショットが続く。視聴者は、当然「結束バンド」のメンバーが驚いたように彼女の演奏に驚くが、それだけではない。ひとりのファンが見とれるように、ある種の心酔を伴い彼女の演奏に見とれ、PAさんがじっと見極めるように、どこから曲が始めるのか注視し、そしてひとりの実力を認めるきくり・星歌が満足そうに視線を送るように、彼女の実力を「ギターヒーロー」として知る視聴者も、満足して彼女の演奏を見つめる。

 

『ぼざろ』8話より ©はまじあき/芳文社アニプレックス

 

 さらに、このシーンは、ひとりのために演出されていると言っても過言ではない。そうすることで、ひとりの決意と決意により力強く弾き上げられたギターの音に特別の意味を込められる。ひとりがギターソロを弾き始めて、「あのバンド」を演奏終えるまで、画面内に結束バンドのメンバーが完全に一人で映るのは、喜多が歌う正面からのクローズアップ二回と演奏後にひとりに満面の笑みでグーサインを送る虹夏のクローズアップの一回のみである。それに対し、ひとりの体の一部・ひとりの主観映像・ひとりが弾くギターのクローズアップを含めれば、ひとりのみが画面内に移るショットは、二十三回ある。これだけでも、ひとりのためのステージであることが分かる。そして、他メンバーの演奏姿にカメラが向く場合にも、画面端にひとりの鮮やかなピンク色が映り、この瞬間の「あのバンド」には、ひとりの存在が欠かせないと主張してくる。

 ひとりから離れて、一人で画面に映る喜多と虹夏を描写するのにも、「あのバンド」の演奏シーンは重要である。そこでは、ライブ表現を用いて、「結束バンド」の関係性が描かれる。まず、分かりやすいのは、虹夏である。バンド終了後に、ひとりが「ギターヒーロー」と気づき、ライブを大成功に導いたひとりの実力を認め、彼女と夢を共有する。二人が絆を深めるのに大切な描写だった。次に、喜多に関しては、十二話の布石となっている。注目すべきショットは、楽曲が始まりを合図するミキサーさんのショットの前後ショットである。直前のシーンでは、リズム組の虹夏・リョウが顔を見合わせ、ひとりの勢いに乗って、演奏を開始する合図を交わしている。それに対して、喜多は二人が視野の外ということもあるが、二人に気づかず、ギターを弾き続けるひとりに釘付け状態である。そして、ミキサーさんのショットを挟み、画面は立ち見の観客からステージへ向かうロングショットに切り替わる。そこでは、シンバルの音が鳴って初めて、ひとりの方向から正面に向き直り、演奏を始める喜多の姿が遠目からでもよく分かる。続くショットでも、喜多のクローズアップで目で左を意識している様子から、ひとりのギターのクローズアップショットに繋げる。ひとりのファン二人のショットが挟まり、ひとりの右方向からの横顔ショットから、同様に喜多が左を意識していると分かるロングショットへと繋いていく。

 個人練習で、当初からひとりの実力を知っていた喜多だからこそ、この瞬間に二人よりもひとりのギターに釘付けになっている様子が伝わってくる。そして、この思いがあって、十二話の喜多とひとりに焦点があてられたライブへと続いていく。

 このシーンでは、前半のお通夜ムードから後半の盛り上がりの流れが熱く、そこに音楽の魅力にひとりの決意が加わり、バンド物語として、そして一人のギタリストの物語として、大成功のライブシーンとなっている。付随的に触れたのが、ひとりの決意がギター音として表現され、それに他のメンバーが感化されている点である。この感化されている点も、ライブならではの楽曲を始めるタイミングを目で合わせるなどの、ライブに独特な呼吸の合わせ方で演出されている。その中でも特に、後に夢を共有する虹夏、以前からギターがうまいひとりを尊敬し、その念を強めた喜多に上記で言及してきた。

 

支え合う友情―12話

 次に、十二話の魅力を語りたい。八話では、ひとりの決意という物語的な装置を用いながらも、音楽によって視聴者の心を震わせ、演奏中の細かな演出と打ち上げでの描写でメンバー間の関係性を描き出していた。十二話は最後にふさわしく、もっと直接的にひとりの関係性に変化をもたらすように、演出される。

 十二話では、喜多・ひとりが所属する秀華高校での文化祭で、結束バンドとしてライブを行う。高校の文化祭であるから、ライブハウスとは雰囲気がガラッと変わる。そこに、音楽というよりも、友情を描き出す契機がある。このライブは、リョウが十話で言うように、「郁代とぼっち、二人の文化祭」なのである。そして、この十二話自体、二人の関係性に焦点があてられる。つまり、八話のライブがひとりのライブであり、ギタリストとしてライブを成功させたのに対して、十二話は喜多とひとりのライブとなり、ぼっちだったひとりに友達ができたことが表現される。

 八話同様に、画面構成の点から見ると、十二話では八話に比して、喜多単独のショットが増え、加えて喜多・ひとりが同じ画面に映るショットも増加する。これだけではなく、ひとりの側から喜多方向に向かうショットが、八話・十二話ともに多々挿入される。八話では、喜多とリョウがなるべく重ならずに、両方が見えるように配置されていた。対して、十二話では、リョウが積極的に喜多に重なるように、配置されており、なるべく喜多とひとりの二人の画面になるように、工夫されている。さらに、映し方の問題だけではなく、各メンバーの配置にも注意が必要だ。八話では、虹夏は喜多のほぼ真後ろに位置していたが、十二話ではかなりリョウ側に寄っている。こうすることで、喜多のクローズアップのときに、虹夏が映りこむこともないし、ギターペアを映した後に、リズムペアを映す際に、リョウの左から角度を付けたカメラポジションを取らずとも、正面からのロングショットで容易に映すことができる。もちろん、ストーリー的に、ひとりのギターの弦が切れるピンチに、喜多がアドリブで繋ぐことで、ひとりのボトルネック奏法でのギターソロに繋がっていくという点も、彼女たち二人の物語を象徴している。

 このように、画面構成や配置、ストーリーの点を取っても、十二話でのライブシーンでは、ギター組の喜多・ひとりに注目が集まるように演出がなされている。こうすることで、彼らの関係性に目が行き、保健室でのほほえましいやり取りが続き、廊下のシーンで一話と十二話が繋がる。

 蛇足にはなるが、本ブログでは、十二話のテーマを「友情」としているかに触れておきたい。前述してきたように、十二話では、喜多とひとりの関係性が、ライブ演出の中心に置かれていた。それが中心になっているとは言え、いやむしろ「結束バンド」のメンバー中、二人を中心に置いたシーンを「友情」と呼ぶのは誤りではないか。それよりも、十二話のBパートのように、四人で活動するシーンこそが「友情」を表すシーンではないか。

 このことには一理ある。確かに、四人の姿を揃って見てこそ「結束バンド」の「友情」といえるかもしれない。だが、現状では、喜多・ひとりの関係性に、「友情」の言葉を使いたい。というのも、ひとりと他メンバー三人との関係性には、質的な違いがあるからだ。リョウはいち早くひとりと音楽やバンドあるあるによって、心が通じ合う。虹夏とは、八話のところで言及したように、「有名になる」点で一致する。要するに、リョウとは、音楽的な感性が同じであり、虹夏とは音楽の方向性(夢)が同じであるから、分かり合えている。しかし、喜多とはそうではない。ひとりとは真逆といえる性格で、共通点はギターだけである。異なった人間間で共通点がないにもかかわらず、仲を深めていく。それを名指して「友情」と呼びたいのである。

 

 

 十二話を通して、ひとりはぼっちを脱却する。念願のバンド加入を果たして、ライブを行いファンもできた。ライブ中に、結束バンドを応援するファンたちの顔が映し出されたように、本作を見ることで彼女たちの画面外のファンも急増した。さらに、本作のユニークなアニメーション表現やレベルの高い演奏シーンの作画・演出、日常芝居の丁寧さなどに、このアニメーション『ぼっち・ざ・ろっく!』(ひいては原作を含んだ、『ぼっち・ざ・ろっく!』という物語自体)のファンになった方も多い。恥ずかしながら、筆者は、アニメから『ぼざろ』のファンになった口である。そのため、本作がリアルさも追い求めるバンド物語であれば、この先シリアスな展開も予想される、と思いつつも、個人的にはなるが、ぜひともこのファンの思いを受けて、二期の制作があることを期待したい。

*1:ライブシーンの時間は以下となる。八話:4分20秒~9分40秒、十二話:始め~8分50秒

*2:ここでの議論に付言すると、ここでのロングショットは、ステージを正面に見るショットとフロア右後方から眺める視点の二つがある。前者は特定の視点対象を採らないが、後者には視点主がいると推測できる。星歌ときくりである。このことが正しければ、このロングショットをステージでのパフォーマンスを見定める聴衆の視点と彼女たち(特にひとり)の実力を知る人物たちの見守る視点と解釈できる。こうすると、観客が置かれる、見定めながら見守る、という揺れ動く視点が、この二種類のロングショットで表現されていると読み取ることもできる。