【アニメ考察】「愛してる」を知る旅の終着点―『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』

©暁佳奈・京都アニメーションヴァイオレット・エヴァーガーデン製作委員会

 

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●原作
原作「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」暁佳奈(KAエスマ文庫/京都アニメーション

●スタッフ
監督:石立太一/脚本:吉田玲子/キャラクターデザイン・総作画監督:高瀬亜貴子/世界観設定:鈴木貴昭美術監督:渡邊美希子/3D美術:鵜ノ口穣二/色彩設計:米田侑加/小物設定:髙橋博行/撮影監督:船本孝平/3D監督:山本倫/音響監督:鶴岡陽太/音楽:Evan Call

アニメーション制作:京都アニメーション/製作:ヴァイオレット・エヴァーガーデン
製作委員会/配給:松竹

●キャラクター&キャスト
ヴァイオレット・エヴァーガーデン石川由依/ギルベルト・ブーゲンビリア浪川大輔

公式サイト:『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』公式サイト (violet-evergarden.jp)
公式Twitter『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』公式サイト (violet-evergarden.jp)

 

 

※この考察はネタバレを含みます。

 

 

概要

 先日、『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』が金曜ロードショーにて放映された。複数回見ても、感動は薄れることなく、むしろ過去の視聴体験は涙腺を緩ませ、さらなる大洪水を惹き起こす。

 「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」シリーズが感動を呼んだ作品であり、観客の感動を呼び込むまでの演出等は、公開から多々指摘されているだろう。そのため、ここではその感動を生んだ物語を経験してきたヴァイオレットの変化を主にして、『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』では、何が表現されたのか、を突き止めたい。

 まずは、本作の重要な一シーンであるヴァイオレットとユリスの初顔合わせシーンを探求の指針とする。そのシーンでのヴァイオレットの特異な映り方から、彼女が代筆を通して人の感情を理解した、その仕方の特徴を取り出す。次に、彼女が理解した感情の伝達手段(手紙・電話・表情)を、手紙から電話の技術的進歩の観点と電話から表情への物語的流れの観点で追っていく。感情の媒体の中でも、感情表現の直接性においてトップに君臨する表情を取り出し、表情にまで溢れる感情を獲得した彼女と表情で直接に表現された彼女の感情を理解する仕方についてユリスとの出会いの演出に遡って意味付けして、本ブログは締めとする。

 

透明な障害物の演出

 指針として、出発点となるのは、劇場版オリジナル登場人物であるユリスとヴァイオレットが初めて出会う病室のシーンである。ヴァイオレットは、病室で両親と弟に素直になれないユリスの手紙を代筆する。この時点でのヴァイオレットは、時系列的にテレビアニメ後であり、自動手記人形の代筆経験によって、人の感情が理解できるようになる。ユリスとの会話の中で、ヴァイオレットが人の心が理解できるようになった成長を提示すると同時に、彼女の「理解」は、自ら体験することとは別の、言葉上の意味を理解するに過ぎないことが提示される。

 このことを提示する特徴的な演出が、彼女が学んできた感情をユリスに語るシーンで、カメラは窓の外から二人を映すところである。話を聞くユリスが開いた窓から障害物もなく、映っているのに対して、話すヴァイオレットは透明な窓越しに見るように構図が取られる。また、これと類似した構図が、眼鏡をかけているユリスの眼鏡越しにヴァイオレットが映る画面に現れる。

 二か所の共通点は、どちらもヴァイオレットが彼女の人から学んだ感情について語るところであり、どちらの障害物も透明でヴァイオレットの姿が明瞭に見えるものの、一枚の壁(窓・レンズ)が観客とヴァイオレットを隔てていることだ。この共通点は、本作において重要である。というのも、ヴァイオレットが追い求めてきた少佐(ギルベルト)との再会という物語上の終着点で、彼女のもう一つの目的、少佐が言った「愛してる」を知る旅に終わりを迎えるからである。つまり、後半の内容を先取りすると、ヴァイオレットが唯一感情的にふるまう少佐(ギルベルト)が生きており彼と再会することで、代筆によって言葉上理解した「愛してる」をその身をもって初めて「愛してる」の内実を知る(=体験)ことになり、彼女の「言葉上の理解」と「内実を知ること」が達成され、「愛してる」を十全に知るようになることと関連するからである。

 「愛してる」を代表とする感情は本作にとって、中心的な位置を占める。孤児であった彼女は、感情を知らずに育つ。言葉を知り、同時に感情を育む、彼女自身の成長よりも、武器としての彼女に与えられた本質が彼女から感情表現と感情を奪う。彼女がユリスに話す、人聞きの話で分かるように、彼女は自動手記人形の仕事をこなすことで、感情表現の言葉や人の感情を理解していく。手紙の代筆で知り得た言葉によって、彼女は少佐から「愛してる」の言葉を教えてもらったように、感情のラベルとなる言葉を知っていく。言葉は何かを伝える一つの手段である。手紙はその言葉を用いて、思いや感情・考えを伝える手段である。

 本作では時代が進んで、電話が世に出回り始めた時代である。

 ここでは、ヴァイオレットとユリスの会話シーンの演出から、彼女が人伝で感情と感情のラベルたる言葉を学んだこと、さらにその学びと透明な障害物によって、遮られる演出が取られていたことを見てきた。この透明な障害物の演出が持つ意味を解明する前に、続く章で、手紙から電話へと移り変わりが起こっている映画内の時代背景で、それらの目的となる感情の表現手段を見ていく。

 

感情表現の手段―肉声・手紙・電話

 ヴァイオレットは、先の戦争によって、少佐と離れ離れになり、ホッジンズの心遣いによって、彼が社長を務める郵便局で、自動手記人形の仕事を始める。前述したように、彼女の自動手記人形としての奮闘がテレビアニメを通して描かれる。

 自動手記人形の仕事は、手紙の代筆である。本作の設定上、誰もが読み書きができる時代設定ではない。手紙は人と人との感情を、書かれた言葉でつなぐ重要な伝達手段として登場する*1。そして、感情の発露が代筆の依頼者であっても、その手段たる手紙を実際に書き表すのは、代筆を行う自動手記人形であり、ヴァイオレットもその任をこなしている。代筆の過程で、彼女は言葉に出される感情とそれを伝達する記される言葉の繋がりを学ぶ。

 また、テレビアニメが口では伝えられない思いを、手紙に乗せて伝える点に重点が置かれていたのに対して、本作では物語世界の中で、手紙の天敵とでも言える電話の登場が描かれる。手紙の利点には、言いたくても言えないことを、文章にして伝えられる点と簡単には会えない人に想いを伝えられる点がある。前者では、近しい兄妹や恋人同士の物語が、後者では後に残してしまう娘や戦地から故郷の恋人・家族の物語が紡がれる。

 電話が手紙の天敵とは、この後者の利点を電話がカバーできるからである。「いけ好かない」やつも、リュカへの手紙を書ききれずに危篤状態に陥ったユリスと、彼と離れたリュカの最後の会話に間に合わせることができた。

 顔を向い合せて肉声で伝える、思いを文字に込めた手紙で伝える、顔を合わせることができない中電話越しで話す、すべてが言葉を媒介にして、自らの感情や思いを伝える。児童手記人形の物語は、肉声から手紙へ、そして劇場版で登場するように、手紙から電話へという技術の進歩と並走する時代の流れを刻むだけではなく、その技術進歩の流れに逆行しながら、強烈な印象を与える表現手段を見せる。

 その表現手段となるのは、表情である。表情について、言及する前に、ヴァイオレットのテレビアニメから劇場版までの、「愛してる」を知る旅を二工程に分けて、整理しておく。

 肉声・手紙・電話という手段を用いて、言葉が伝える、表現の出発点たる感情・思いである。人物同士の会話を聞く、依頼者の思いを引き受けて、その思いを書き文字に託して手紙をしたためる。そのときに、確かに、その感情・思いをある単語と関連して、理解する。彼女は「愛してる」を理解する、すなわち「愛してる」という言葉がどのような意味を持っているかを知る、第一の旅は、テレビアニメでほぼ完遂している。次に、彼女を待っているのは、この劇場版で、「愛してる」の感情・思いを自らの内に宿し、それを表現する(正確には表現してしまうこと)第二の旅だ。そこでの表現は、言葉を介さずに、人間が持っている最も原初的な感情表現手段とも言える、表情が巧みに使用されて、彼女が感情を自らの内に強く宿す瞬間を観客は観ることになる。無表情だったヴァイオレットは、感情があるが表情に出ない無表情キャラではなく、感情が欠如し、感情と表情の結びつきが欠如している無感情キャラなのである。そして、彼女は少佐と再会し、これまで少佐の話題に感情を露わにしていた以上の表情を見せる。「愛してる」の意味を知った彼女は、「愛してる」の内実を知る。

 

ヴァイオレットの感情を享受する

 人から聞いた感情と自分で感じる感情は異なる。ヴァイオレットが念願の少佐と再会し、陽の落ちた浜辺で、向かい合ったときに、彼女が一言も発せないのは印象に残る。彼女が今までに引き受けてきた感情を、今彼女自身が体験している。彼女は種々雑多で溢れんばかりの感情の暴走に、思うように身体が動かず、ただ顔をぐしゃぐしゃにして、涙を流すことしかできない。だが、その溢れんばかりの感情は、ヴァイオレットが発する言葉の意味に流れ込み、観客に届くのではなく、行き場を失い、精神と肉体の垣根を飛び越えて、最も直接的な顔の表情になだれ込み、その表情を観客は目の当たりにする。

 劇場版では、劇場のスクリーンを意識した、雄大な自然を映すロングショットが取り入れられ、またそれと合わせてヴァイオレットが普段表情を変えないことから、観客は容易にはヴァイオレットに感情移入することができない。前述した、少佐と出会ったヴァイオレットが再会した物語ラストでも、容易に感情移入できないもどかしさは、守られる。というのも、少佐に会えてうれしいはずの彼女は嗚咽から、一言も発することができず、彼女の感情に言葉の輪郭に縁どられることはないからだ。彼女の流れ落ちる涙や涙に合わせてしわができて崩れる皮膚の動きを総合した表情に、観客が「うれしい」、「愛してる」などの言葉を適用しようにも容易にはいかない。したがって、観客は自分の言葉の置き換えを阻まれることで、余りの大きな感情にただ泣くことしかできないヴァイオレットを、ただ眺めその情景にのみから、純粋に感動することができる*2

 このことは、二章で書いた透明な障害物の演出に通じる。浜辺のシーンでは、観客はヴァイオレットを見通しよく見ることができる。ただ彼女が感じている感情を正確に触れられることができるかと言えば、前述したように、できない。複雑で莫大な彼女の感情は、彼女だけにのみ分かる。観客は、それを触れることなく、表情から感じ取る。私たちの最も身近にありながらも、感情を伝達する媒体として忘れられ「透明に」なりがちな、表情が手紙から電話の時代の流れの後に、置かれているのは印象的である。



 以上で、ヴァイオレットとユリスが話す病院でのシーンを手掛かりに、『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』に一つの解釈を施してきた。表現手段たる媒体は、媒体自体が目的でなく、当たり前の存在として、しばしば透明な障害物となってしまう。本ブログで確認したように、本作の内容がこのことを表現するとともに、本作が惹起する感動の涙は、この物語を表現する映画媒体そのものを、視界のにじみによって、透明さを脱ぎ捨てさせる。色づいた媒体を意識する目は、本作に至るテレビアニメ、OVA、外伝映画を再見すると、新たなことを発見できるかもしれない。

*1:この手紙の描き方のうまさは、自動手記人形が手紙を代筆するというところにある。もちろん、代筆には、代筆する過程でヴァイオレットが感情の表現たる言葉を理解していく、役割として重要である。それに加えて、手紙を代筆することから、書き手による手紙を書いてまで伝えたい思いという付加価値を排除することができる。それにより、手紙に感情・思いの伝達以上の意味を排して、手紙と電話、それらと表情の対比がうまく成立するようになる。また、伝えられる感情・思いや伝えることそのものにスポットを当てることができる。

*2:ここでの観客の立場は、ヴァイオレットが、感情を知らずに、代筆の依頼者の話を聞き、話す態度や表情と言葉のみから依頼者の真意をくみ取っていたのに類似している。