【アニメ考察】人の皮と獣の皮―『人狼 JIN-ROH』

人狼 JIN-ROH』キービジュアルより

 

●スタッフ
原作・脚本:押井 守/監督:沖浦啓之/演出:神山健治/キャラクターデザイン:沖浦啓之西尾鉄也/副作画監督井上俊之美術監督小倉宏昌/美術設定:渡部隆/銃器設定:黄瀬和哉/車輌設定:平松禎史色彩設定片山由美子/撮影監督:白石久男/編集:掛須秀一/音楽:溝口 肇/音響監督:若林和弘/制作担当:堀川憲司/プロデューサー:杉田 敦・寺川英和/エグゼクティブプロデューサー:渡辺 繁・石川光久

制作会社:Production I.G/製作:バンダイビジュアルProduction I.G

●キャラクター&キャスト
伏 一貴:藤木義勝/雨宮圭:武藤寿美/辺見 敦:木下浩之/室戸文明:廣田行生/半田 元:吉田幸絋/巽 志郎:堀部隆一/阿川七生:仙台エリ/安仁屋 勲:中川謙二/自治警幹部:大木民夫/塔部八郎・ナレーション:坂口芳貞

Production I.G 公式TwitterProduction I.G (@ProductionIG) / Twitter

 

 

※この考察はネタバレを含みます。

 

 

概要

 2000年の時代の移り変わりに重なり、セルアニメからデジタルへの過渡期に、セルアニメの極致となる作品が登場していた。それが今回取り上げる、『人狼 JIN-ROH』である。Production I.G制作で、監督に沖浦啓之、原作・脚本に押井守を筆頭に名だたるスタッフが、制作に関わっている。

 政府と反政府組織の闘争、治安維持部隊の闘争の最中、男女の悲劇的なロマンスが展開される重厚なストーリーに加えて、そのストーリーをリアリティに充満した作画が力強く支える。火炎瓶・爆弾を投げる動作、爆破の運動、狼の動き、重火器のディテールに至るまで、作画の魅力のみでも、必見の作品である。

 本ブログでは、闘争に着目して、「人狼」に迫りたいと思う。まず、劇中で引用される赤ずきんの童謡から人と獣の対立を読み取る。次に、上記対立以外の本作で現れる対立(闘争)を指摘する。そこから、闘争で起こる狩り狩られる関係性を透過光でいかに演出するか確認し、この狩り狩られ・騙し騙されの関係性が、「人」と「獣」の二項対立的な対置をあいまいにさせ「人狼」とのつながりを予告し、最後に、獣を檻のモチーフを使って、間接的に表現して、獣と呼ばれた伏が、獣の姿から人間の姿を見せるに至った人狼性に切り込んでいきたい。

 

3つの対立

赤ずきんの童話

 高度な経済発展に伴い、反政府活動が活発化する日本で、治安維持のために、警察業務を担う自治警察とは別に、東京区域の治安を維持する首都警察が創設される。政府側と反政府組織、自治警察と首都警察、そして本作のタイトルにもなっている人と獣の対立構造が、戦後民主主義発展途中の日本で展開していく。左右に入り混じる闘争で、治安維持部隊内であったかもしれない内ゲバを、フィクションに再現して見せる。本作の中で、これらの対立の寓話となり、「赤ずきん」と呼ばれる反政府組織・セクトのモチーフとなる、赤ずきんの童話が引用される。

 その話はこうだ。鎧を着せられた少女は、鎧が擦り切れたら、母親に会いに行けると言われる。少女が懸命に、鎧をこすりつけて、鎧を摩耗させ母親に会いに行こうとする。ついに鎧が擦り切れて、いくつかの食物をもって、母親の元へ急ぐ。途中、狼が食物を分けてくれないかと話しかけてくる。少女は、母親と食べるものだからと狼の頼みを断る。狼は、少女に針の道、ピンの道どちらの道で行くのか問いかける。少女は狼に答えた通り、ピンの道から帰っていくと、狼は針の道から少女の家へ先回りし、彼女の母親を食べてしまう。少女が家に帰ったとき、狼扮した母親が寝ている。少女は狼の偽装に気づかず、狼扮した母親に言われて、台所にあった肉とぶどう酒を食べる。しかし、それは母親の肉と血であった。食事を終えた少女が、服を脱いで寝室に向かうと、狼が正体を現し、少女を食べてしまった。

 以上が、ペローの「赤ずきん」と言われる童話であり、本作での劇中でも伏と圭の朗読の形で引用される。日本でもいくつかのパターンはあるが、元の童謡の惨さは取り除かれている。少なくとも、少女が母親の肉を喰らい、血を飲むという描写はないはずである。本作で、狼が少女を食べてしまうことが、本作のラストで、伏は、行動を共にしてきた圭を、組織のために殺してしまうシーンに重なる。

 

対立の関係性

 赤ずきんの話では、少女と狼が登場する。本作でも、「人狼」と呼ばれる諜報部隊の存在が仄めかされ、さらに獣と称される伏、セクトに属し赤ずきんと呼ばれる運び屋が登場する。さらに、主人公は首都警察の特機隊に所属しており、獣と呼ばれる彼を中心にして、人と獣の対立も登場してくる。前述した政府側組織(自治警察・首都警察)と反政府組織の対立、さらに治安維持の地位を巡って、自治警察と首都警察内でも対立が生じる。

 政府側組織と反政府組織との対立は、序盤で対峙しまう両組織の映像、地下水路で移動するセクトのメンバーたちを描き、本作の世界観の導入となっている。しかし、その対立は、あくまでも本作の世界観に過ぎないため、序盤で華々しく描かれた後、後景へと遠ざかっていく。物語は、伏と圭の情緒の起伏に欠けたモノクロなロマンスと治安維持を担う組織間での闘争に話が移る。自治警察は、首都警察内の公安と手を組むことで、伏の不祥事をきっかけに、首都警察の戦闘部隊である特機隊壊滅に向かって作戦を実行していく。自治警察・公安は治安維持の敵対者たるセクトを武力で抑え込むのみならず、味方をも狩る獣と化し、勢力拡大を画策する。

 こうして、人と獣、政府側組織と反政府組織、さらに自治警察・公安と特機隊の三つの対立が姿を現す。ここには、単なるいがみ合いや敵と味方という対立以上の、狩る側と狩られる側・騙す側と騙される側という対立が見える。ただ、先だって一方が狩る側で、他方が狩られる側と規定されない。主人公の立場から、狩る側と狩られる側(騙す側・騙される側)は、物語の進展とともに、入れ替わっていく。立場の入れ替わりによって、観客は、物語展開にぐっと惹きつけられる。重要なのは、それ以上にここに「人狼」の意味内容が意味深に込められていることである。

 

どちらがどちらを狩る?

 狩りのプレーヤーが、一方的な狩る側では興を削がれてしまうと同様に、狩りを見ている側に緊張感もない。本作は、主人公が狩る側でもあり、狩られる側の立場に追いやられもする。伏は特機隊として、治安維持のために、セクトを狩る立場にある。しかし、自治警察と公安の思惑により、セクトの運び屋である圭と接触し、嵌められ狩られる側の立場に転落していく。

 以下では、流動的な狩る立場と狩られる立場をいかに表現し、それによりどのような効果が観客に生じるのか考えたい。前者では、地下水路や夜を主戦場に描かれる本作で使用される透過光、後者では、狩り狩られの関係性を「人狼」と絡めてみたい。

 

光での狩り出し

 闇に紛れる獣とはよくある象徴的表現ではある。特機隊たちは、闇で登場する。彼らは、夜の暴動に出動し、地下水路の暗闇で掃討戦を演じる。また、伏は圭を救いに夜の博物館で、公安を出し抜いて、圭を連れて脱出する。彼らは吸い込まれるように、地下水路の暗がりへ逃げ去っていく。

 闇で活躍する特機隊も、光の元に引きずり出される。伏は闇に紛れ、不祥事により査問会に引きずり出され、スポットライトに照らされる。特機隊の閃光弾、査問会で査問官の背後から差し込む眩い光、博物館から逃げ出し、地下水路に急行した公安部隊の車のヘッドランプが、終始陰鬱な画面に激しい光をもたらす。

 透過光を利用した光は、強い輝度をもって画面に現れる。光は闇の中から、対立者の存在を認知させ、照らし出される人物を量り、暴力的な視線を投げかける。以下、閃光弾、査問会の差し込み光、ヘッドランプについて、順に言及していく。

 閃光弾の光は、地下水路の闇に紛れて逃走するセクトのメンバーを光に立ちすくませ、機関銃の照準に晒す。特機隊は、セクトのメンバーを文字通り虐殺する。機関銃の弾丸を受け、身体に弾痕空け、身体を激しく揺れ動かしながら、血をまき散らして、絶命していく。光はセクトメンバーの存在を認め、その光量によって、彼らを威嚇する。

 査問官は、自爆前にセクトメンバーを射殺しなかった伏を、値踏みする。彼らが背負う光は、伏がセクトメンバーを容赦なく、殺害できる獣性を照らし出そうとする。そして、査問官が、今後の作戦に役立てることができるのかを、彼の無表情の表情から読み取り、伏の正体を暴くのを手助けする。

 博物館で伏を取り逃がした公安の面々は、伏が逃げ込んだ地下水路へ急行してくる。その際、彼らが乗る車のヘッドランプが、地下水路への入り口を明々と照らし出す。まるで、彼らが獣を駆り立てる狩人のように、自らの位置を知らせる光を持って、暗闇に勢いよく進んでいく。その際、カメラ高さがヘッドランプよりやや上に位置しており、観客はヘッドランプの光をもろに視界に入ってくることも印象的である。

 狩る者と狩られる者の関係性の中では、それぞれが一矢報いようと、相手を見定めようとする。そのことを、セル画での撮影がもたらす透過光の眩い光が表現してくれる。光によって、相手の存在を認知・威嚇し、判断し、勢いよく追う狩る者の動きがなぞられる。

 

人と人との騙し合い

 人狼は、「人」であり、「狼」である。人狼を題材にしたゲーム「人狼ゲーム」のように、人狼は人に紛れ、人を喰らう存在である。その一つの性質は、人を騙すことにある。本作が引用する童話赤ずきんでも、狼は少女を騙す。狼はまず少女の母を食う。次に、少女の母、すなわち人に偽装して狼は、少女を騙して母の肉を食わせ、血を飲ませる。最後には、母と欺ききって、少女をも食べてしまう。狼や人狼は、人間を騙り、人を欺く、血も涙もない詐欺師の象徴となる。特に人狼は、人の姿を取り、人と暮らしながら人を騙す。

 そして、本作で、観客を物語に引きずり込むのは、この騙し合いの展開である。査問会で、再訓練の処分を受け、伏が圭と出会い、少しずつ変化していく。しかし、圭は、公安の辺見の差し金であり、伏をはめるために、接触してきた人物だった。辺見は圭を使って、伏を陥れ、特機隊の解散を目論むも、その目論見を読んでいた伏含む特機隊に返り討ちに遭う。ここに騙し合いの関係性が生じる。

 とはいえ、この関係性自体は脚本上の妙に過ぎないかもしれない。伏線があって、それを覆す展開、すなわち罠にかけられた伏と彼を追い詰めた辺見という関係性から、それを見越して辺見を返り討ちにする伏とまんまと返り討ちに遭った辺見という関係性へと切り替わる展開である。このどんでん返しで、観客は追い込まれた主人公のスリル満点な修羅場に目が離せなくなる。

 本作の中で、「人狼」という諜報部隊の存在は仄めかされている。しかし、劇中では、遂には「人狼」の正体は明かされない。存在すると疑われても、決して姿を現さない諜報部隊の性質は、まさに人に紛れ人を騙す、人狼そのものと言える。組織に所属し、組織に溶け込みながら、身内の行動次第では、騙し討ちに至る諜報部隊「人狼」像は、特機隊の壊滅を狙う自治警察・公安や彼らを返り討ちにする特機隊、さらに彼らが対立するセクトの姿に重なる。

 上の人狼に重なる者たちは、人として社会に紛れ、騙し討ちの機会を狙っている。しかし、逆に本作の主人公は「獣」と称される。彼は、情緒面に難ありでも、格闘技や火器の扱いなど戦闘面で非常に優秀な成績を収める。彼はかつての同期を策に嵌め、同期が所属する公安部隊を含めて、事もなげに虐殺してみせる。その側面だけを見れば、劇中で語られるように、彼は獣である。人の群れに入り込んでも、人を狩る獣でしかない。

 しかし、繰り返しになるが、これは「獣」の物語ではなく、「人狼」の物語である。すなわち、人間の感情を持ち得ない、あるいは持ったことのない獣が主眼になっているわけではない。当然だが、伏は人間だ。それゆえ、人間の感情を持つ可能性はある。彼は獣ではないにしても、人間でできた獣でしかない人狼なのか、それとも、人の感情を持つことができ、時に獣のような冷徹さを持ち合わせた人狼なのか。他の人間が、人から獣へという意味で人狼と化していたのに対して、獣と称された伏が人間であるのか、つまり獣から人の姿を見せてくれるのかが問題になっている。

 本作の終幕の舞台であり、伏・圭や特機隊が地下水路から逃げ去った廃棄場では、明るく青い空が印象的に映る。ここで、伏は特機隊から、そして観客から最後の審問(査問)を受ける。遂に、本作は劇的な形で、解答を提示する。

 

人狼≠獣

囚われた獣

 裏切りを行う人間たちは、容易に騙し討ちを行える獣と言える。同期を嵌め、特機隊を解散させようとする辺見、辺見の作戦を知りながらも、その作戦に乗っかって、彼をだまし討ちする特機隊の面々と伏。仲間を裏切り、感情を殺して、自らが所属する群れに尽くす。

 人間社会で獣は生きていくことはできない。獣は、人間のコントロール下にあるように、鎖に繋がれ、檻に閉じ込められる。本作では、檻のモチーフを使って、獣性を表現している。

 処分を受けた伏が、訓練しなおす養成学校では、厳重に正門で入退門のチェックが行われ、彼が圭を助けに行く際、高いフェンスを越えでていく。博物館にも厳重な門と・フェンスで四方を囲まれ、唯一公安のメンバーが開けた門のみが口を開けている。獣である彼に、仲間のはく製が置かれた博物館に入ってくるよう誘っているかのようである。博物館から逃げ出した伏と圭は、以前二人で行ったデパートの屋上に逃げ込む。フェンスの外から二人を映し、四方を囲まれた二人が映りこむ。そして、二人は地下水路に逃げ込む。それも、伏が悪夢で見ていた扉を開けて、水路に入り込んでいく。悪夢の中で扉を開けると、獣たちが圭を追いかけ、食い殺してしまう。後に、彼自身が圭を殺すことの、先取りした形の象徴となっている。

 檻に閉じ込められた獣の姿が、檻を用いて表現される。表現されるべき獣は眼前に存在している。それゆえ、獣の獣性は、直接的に描く必要はなく、彼らが囚われた檻をもって、間接的に表現される。そうすることで、騙し騙されの様相が過剰に描かれることは避けられ、本来人に紛れる人狼の姿と重なり合って、自然な形で騙し合う人間の獣的な性質が暴き出される。

 本作の伏も、明確な感情表現が避けられ、終始感情が見えず、何を考えているのか分からない人物として描き出される。辺見が伏を評して、情緒面に難ありでも、格闘技や火器の扱いなど戦闘面で非常に優秀である、と。本作で、彼が獣と呼ばれるのは、人間的な感情が欠如しているように、見えるところにある。しかしながら、本作は人狼の物語であって、組織という群れに使役されるだけの獣や自らの本能的な欲望の奴隷と化した獣の物語ではない。人狼は人間の内に存在する。赤ずきんの物語を思い出すと、狼は言葉を交わるように、擬人化されている。人間に属しながら、躊躇なく人間を騙せる存在こそが人狼である。そのため、彼が全くの獣ではなく、人である部分が物語ラストに、本作のトーンに合致した劇的さで、この獣と言われた男の悲痛の叫びとともに、物語を締めくくってくれる。

 

人狼人間性

 伏は、地下水路で、辺見含む公安部隊を壊滅させる。獣と呼ばれた本領を発揮する。地下水路を脱出し、特機隊のメンバー、伏、圭は、廃棄場へ到着する。そこで、伏は圭を殺すように、命じられる。彼は逡巡しながらも、手に持った拳銃で彼女を撃ち抜く。獣と呼ばれた男は、先日出会い、親しくなった女性を手にかけ、彼女を抱きながら顔を歪め慟哭する。

 自爆しようとする少女を撃てなかった彼は、物語のラストで人間的な感情があり人間であることを証明する。本作がセルアニメの極致とも言えるほどに、リアリティにこだわった作品であるだけに、伏が泣き叫ぶシーンも必見である。感情表現が少ない伏が、赤ずきんのなぜ少女を撃てなかったのか劇中に明かされてこなかったが、ラストに至って、その謎が氷解していく。獣と言われようが、彼は人間であり、いたいけな少女や同じ時間を過ごした圭を殺めることに抵抗があった。ただそれだけのことである。

 巧みな作画技術により、伏の立ち居振る舞いを丁寧に描き出しながらも、彼の表情の付けなさは徹底する。冷徹で何を考えているか分からない獣の皮は、これまた彼が慟哭する姿を説得力のある作画によって、きれいに剥がされる。ついにそこには、われらの同胞である人間の顔が存在するようになる。

 

 

 セルアニメの極致である本作が見せてくれる、リアリティに溺れそうになるほど、丁寧に描かれた作画は、それ自体で鑑賞の価値がある。しかし、本作はそれだけではなく、ときに地味ながらも、登場人物たちの所作を丁寧に描き出した部分が、本作のテーマたる人狼と密接に結びつくところに魅力があるのではないだろうか。つまり、アニメの本質としてよく言われる「メタモルフォーゼ」とは別の意味で、人間の性質における人から獣、獣から人への「メタモルフォーゼ」を、登場人物の作画を通して、眼前に突き付ける。世界観設定の時代性が濃厚であるにもかかわらず、作画のリアリティは、私たちの周囲にも、人狼がいるかもしれない、と思わせずにはいられない。