【アニメ考察】天衣無縫な不登校・登校劇―『かがみの孤城』

©2022「かがみの孤城」製作委員会

 

  youtu.be
●原作
原作:辻村深月かがみの孤城』(ポプラ社刊)

●スタッフ
監督:原恵一/脚本:丸尾みほ/キャラクターデザイン・総作画監督:佐々木啓悟/ビジュアルコンセプト・孤城デザイン:イリヤ・クブシノブ/音楽:富貴晴美/演出:長友孝和/美術監督:伊東広道/美術設定:中村隆/美術ボード:大野広司/色彩設計:茂木孝浩/CGモデリングディレクター:稲垣宏/CGアニメーションディレクター:牛田繁孝/撮影監督:青嶋俊明・宮脇洋平/編集:西山茂/音楽プロデューサー:高石真美

制作:A-1 Pictures/配給:松竹

●キャラクター&キャスト
こころ:當真あみ/リオン:北村匠海/アキ:吉柳咲良/スバル:板垣李光人/フウカ/横溝菜帆/マサムネ:高山みなみ/ウレシノ:梶裕貴/こころの母:麻生久美子/喜多嶋先生:宮﨑あおい/オオカミさま:芦田愛菜

公式サイト:映画『かがみの孤城』公式サイト (shochiku.co.jp)
公式Twitter映画『かがみの孤城』公式 (@kagami_eiga) / Twitter

 

 

※この考察はネタバレを含みます。

 

 

概要

 2018年に本屋大賞も受賞した、辻村深月の同名小説を原作にしている。アニメーション制作はA-1 Pictures、監督は『河童のクゥと夏休み』の原恵一が担当する。

 不登校のこころは、ある日自室の姿見が光っているのを発見する。姿見に手を伸ばすと、吸い込まれて鏡の中の世界へ飛ばされる。そこでは、オオカミの仮面を付けたオオカミさまによって、こころを入れて孤城に七人の中学生が集められていた。孤城の中から、鍵を探し出し、願いの部屋で使用すれば、この孤城で起きた一切の記憶と引き換えに、何でも一つ願いが叶えてもらえる。七人が親睦を深めながら、お互いに信頼し合い、支え合っていく。

 本作の登場人物は、海外へ留学しているリオンを除いて、不登校の中学生が孤城に集められる。彼らは弧独を抱えている。その彼らが、お互いの出会い、仲を深めることで、絆を強くしていく。その中で、彼らは確実に成長していく様が描かれる。

 中学生の人生すべてに感じられる中学校に行けず、そのすべてから切り離されているように感じる。切り離された彼らは、何ものからも離れた孤独を感じる。この孤独が冷徹に捉えられ、その様が孤城として表現される。

 その孤独から、子どもたちは同じ不登校の子どもたちと出会う。彼らの中には、友情の念が芽生える。そして、主人公のこころを中心として、子どもたちは成長を遂げる。彼女は成長して、自分の願いを差し置いて、「仲間」に手を差し伸べたいと思えるようになる。

 本ブログでは、本作を主として、学校に行けていない彼らの孤独と悩みを抱える孤独から成長していく様を取り上げていく。前者の孤独については、まず孤城と学校の描写から、子どもに不相応で巨大な孤城と全体が見えない学校との対比を見出す。次に、こころが不登校になったシーンを分析して、彼女の悪感情が、特定の人間から不特定の人間、ひいては彼女たちをつなぐ学校という場を結びついていくことを見る。さらに、そのことを見ると、中盤に、孤城の仲間のお願いで、学校に行くシーンに緊張感が生まれることを確認する。

 後者の成長については、まず物語の鍵となる設定、すなわち孤城の彼らが、異なる時代に、同じ学校(雪科第五中学校)に通い、同じ不登校の状況であることの意味を読み解く。この設定により、同じ時間・同じ学校に通うことで、不登校の孤独を安易に埋めることはしない。だが、その設定は不登校の状況と孤独に戦うしかないと突き放すのではなく、同じ「この」学校で、仲間が過去・未来で共闘していることを示している。そのことを踏まえて、主人公のこころは、似た悩みを持つ仲間や味方となる大人の存在を知ることで、彼女は仲間のアキに手を差し伸べられるまでに、成長する様を見ていく。

 

「孤独」、「恐怖」を演出する

 主人公のこころは、学校に行けておらず、冒頭で出かけたフリースクールにも行けていない。両親が会社に出かけた家で、彼女は一人、孤独な時間を過ごす。そんな中、こころは鏡の中の孤城へと行き来できるようになる。

 彼女を含めて、七人は弧城で出会い、同級生から隔絶され、思いを親に話すこともできずに、孤独な思いを抱えている。そんな不登校の彼らだからこそ、最初平日の昼間から集まることに事情を察しながら、真正面から学校のことを聞けない。ウレシノの告発により、皆が学校に行っていない事実が明るみになり、お互いの事情を理解しながら、より一層仲を深めていく。

 

学校と孤城の切取り方

 彼らの孤独は、不登校の言葉とは別に、目に見える形で捉えられている。「孤城」が原義から、「敵に囲まれた状態で追い詰められている城」のニュアンスをもって、原作のタイトルに選ばれたように*1、安心できる居場所がない彼らにとっての追い詰められた回避先となっている。

 孤城は、「子どもたちの社会」である「学校」から離れた彼らを、他のメンバーとともに迎え、同時に、孤城そのものが彼らの孤独さを強調する。こころが初めて孤城に訪れたとき、上パンで天に伸びる孤城の巨大さが印象付けられる。室内も堅牢な作りで、家具や調度品も子ども用ではない大きさと広さを保っている。子どもたちが過ごすには不釣り合いであり、またその広さには登場人物間の距離を保つ効果を持っている。例えば、ダイニングで女子組がお茶をするテーブルと椅子、等間隔に離れた位置に置かれ、彼女たちも整列した椅子を動かすことなく、距離を保ったまま座っている。

 こころが孤城に入った際、他の六人が玄関ホールの階段に座り、彼らの大きさに比して、広く高い階段が強調されるとともに、各部屋に繋がる階段を見せる縦の構図を活用して、孤城の大きさを、内部から効果的に演出する。当の孤城は周りを海に囲まれており、断崖絶壁の上にそびえ立つ。俯瞰視点で、孤城の全体を映し、彼らの状況を象徴しつつ、外部からも孤城の大きさが示される。

 孤城と対比されて、おもしろいのが、もう一つの主要な場である学校の描写である。学校では、学校全体、あるいはその一シーンの場所の全体を収める描写がない。学校での映像は、登場人物たち(七人以外の生徒含む)から見ることができる映像が使われている。そのため、学校を空から俯瞰して全体を把握したり、登場人物たちが行っていない学校の裏側などを映像で映されることもない。観客にも、学校全体の様子を見通す俯瞰視点は与えられず、その全体を一部の映像から想像することしかできない。

 孤城は、あるがままの孤城の孤高で巨大な様を、内部の家具・調度品・建造物設定から、あるいは人物との大小対比、あるいは俯瞰視点で孤城全体を見せることによって、表現される。それに対して、学校の存在の大きさは、学校自体の物理的な大きさから導き出されない。というのも、学校全体の大きさは決して映されず、そこで学校生活を営む生徒たちが可能な視点から全体を推測するしかないからだ。しかし、この一部しか見えず、全体が見えないにもかかわらず、学校の存在感は大きい。中学生の彼らにとって、学校の重要性が強調されることで、見通すことのできない無限大の存在感を錯覚してしまう。

 

こころのトラウマ

 その錯覚は、子どもたちが暮らす学校が中心の状況にあり、その状況の中で本作の登場人物たちは、自分がいる不登校の現実に悩み苦しんでいる事実にある。彼らを悩み苦しませる一因に学校の存在そのものがある。そのため、学校は、登場人物たちが抱える不登校の悩みからついて離れず、ひいては観客の意識からも離れない。そのことは彼らの状況が、例えばいじめなどの彼らが学校に行けなくなった要因・被害で呼ばれるのではなく、端的に学校に行っていない「不登校*2」と名指されていることにも現れている。

 こうして、観客にも強い印象を与える学校の存在は、主人公のこころを例にとって、いかに「不登校」の生徒たちに恐怖を与える存在となったかが語られる。こころは、同じクラスの真田に嫌がらせを受ける。それも、真田の彼氏が、小学生の頃にこころのことが好きだったというだけの理由で、こころは嫌がらせの標的となる。転校してきた萌と仲良くなったこころから、萌を引きはがし、こころを孤立させようとしたり、彼女に心無い言葉を投げかけたり、こころを追い込んでいく。こころは自分の恐怖が決定的になった経験をアキとフウカに語る。彼女は殺されると思うほどに、強い恐怖を感じる体験だった。一人で家に居た彼女の元に、真田を中心とした女子たちが、押しかける。彼女は恐怖から、窓の鍵とカーテンを閉める。陽の光から数人の影がカーテンに写り、彼女が真田の彼氏に色目を遣っただとか、彼女をなじるような言葉や窓を叩く音が響く。その状況を四つん這いでうずくまるこころが、目を閉じ、耳をふさぎ耐える様子が映る。

 こころが不登校の要因となったこのシーンは、彼女の感じた恐怖を的確に表現する。こころの自宅以外のシーンでは、真田グループという悪感情を抱く特定の対象が、面と向かって存在していた。そのため、こころは真田に消えてほしい、という黒々とした願いを抱くことになった。しかし、彼女たちがこころの自宅に押し掛けたシーンでは、悪感情の向かう先が変わり、悪感情は恐怖へと変容する。それは、数人への悪感情だったものが、真田と関係する一点を除く、不特定多数への悪感情、ひいてはそのことによる恐怖に変わったことである。すなわち、先ほど描写したように、押しかけた生徒たちの姿は、カーテンが閉められ、シルエットだけが見える。いつもの真田のグループよりも、明らかに人数が多いが、それが誰かは明らかにならない。さらに、彼女が耳をふさいでも、声と音だけは嫌でも聞こえてくる。一枚のガラスを隔てた向こうから響く声・音に、こころに無視できない敵意が向けられ、その敵意の源が具体的な人物に定まらない。彼女はその敵意を向けられ、殺されるかと思うほどの、恐怖を感じる。対象の定まらない恐怖は、「学校に行けばまた何かあるかもしれない」と真田グループから拡張され、こころと彼らが関係する中学校という場自体に結びつけられることは、想像に難くない。

 以上で、こころの不登校までの道のり、さらにその道のり時点での彼女の心情が映像描写によって、包み隠さずに語られる。このように、こころの恐怖が、忠実に映像として翻訳されることで、観客が直に追体験できる。そのことにより、マサムネのお願いで、全員が学校に行くことになるシーンで、本作最高潮の緊張感を生ませることができる。

 

学校に行く緊張感

 物語中盤に、マサムネが両親から提案された私立中学への転校を阻止するため、三学期に、全員が一日だけ学校に行くことを約束する。このシーンで、こころの視点を取って、彼女が家を出るところから、何とか学校の保健室までたどり着くところまでが見られる。

 こころも、マサムネのため、そして皆がいるならと、学校に向かう。何とか学校にたどり着いて、皆に早く会おうとするのが、短いカットで昇降口まで到達する演出によって、強調づけられる。そのため、登校する生徒が必ず通る昇降口で、時間を使うことに、誰かに会うかもしれないと緊張感を高める。案の定、こころの気掛かりの萌が現れる。萌はこころを気に留めず、教室へと無言で向かってしまう。萌を見送ったこころは、下駄箱に置かれた真田からの手紙を読んで、文字面だけの偽善に満ちた文章に体調を悪くし、かろうじて保健室へ駆け込む。安全圏に逃げ込むも、彼女以外保健室に誰も来ておらず、彼女の安心もつかの間のものとなる。

 養護教諭に質問して、単に他の五人が学校に来ていないのではなく、同じ学校に在籍していないという事実が判明する。皆が一緒なら、これから学校にも行けるかもと希望を持っていたこころだったが、その希望は偽りのものであったことが分かる。

 次に孤城で全員が集まったとき、リオン以外全員同じ中学校に所属しており、全員が学校に行ったが、出会えなかった事実から、マサムネはパラレルワールド説を唱える。巨大な世界から枝が伸び、その枝が個々の世界を構成する。その世界ごとに全員が暮らしており、何らかの方法で、世界を超えて、全員が同じ孤城に集められている。そのため、各人が各人の世界にある学校に行ったため、出会えなかったと。だが、この説は、オオカミさまに否定される。

 

こころの成長

違う時代・同じ学校・同じ状況

 前節のパラレルワールド説が否定されて、彼らは真実にたどり着く。彼らは同じ世界に住んでいるのだが、時代にずれがある。そのため、各人は学校で出会えなかった。各人は、孤城の外では同年代としては出会えない。だが、孤城の中では、出会えるし、孤城の外でも会える可能性は残される。

 この設定は、本作が読み解く上で、重要である。というのも、第一に、「不登校」の現象に、「仲間がいるから大丈夫」というメッセージを提示して、単純に解決を図ることをこの設定では拒否しているからだ。第二に、本作の設定、①異なる時代で、②同じ学校に通うも、③同じ不登校、という設定には、単純にラストに感動を生むためのギミックに留まらないからだ。この設定は、「不登校」の現象は、孤独だけれども完全に孤独ではない、という洞察を適切に表現してくれる。

 この①②③の設定が有する含意を読み解くために、物語展開は同一と仮定して、二つの異なる想定を考えてみたい。まずは、①同じ時代で、②同じ学校に通い、③同じ不登校の場合である。その場合、。というのも、前者に関して、同時代を一緒に戦えなくても、自分の願いが叶えられなくても、仲間へ手を差し伸べる思いが重要であるからだ。後者に関しては、この事実からは、近くに同じ状況で、励まし合える人物がいたから、彼らは彼らの状況を打開し、成長していけるという流れになってしまう。そうすると、この物語自体の普遍性は薄まり、幸運にも近くに仲間がいた「彼ら」が救われるまでの物語の側面が強調されてしまう。

 次に、別の場合も想定してみる。マサムネが説いたパラレルワールド説(①②③は同じだが、存在する世界そのものが異なる)である。この想定は他に可能な想定の中で、最も残酷な想定に思われる。そのため、作中でこの想定が提示されるのは、彼らの一時の希望を反転させ、孤独を加速させる効果を持つ。この想定によれば、皆は同じ世界にはいないから、孤城以外で会うことはない。孤城のような個別世界を統合する空間が存在しなければ、再会することも夢のことである。パラレルワールド説が残酷であるのは、他の人たちが戦っているのが、自分と似ている世界であって、時代、学校名、不登校の状況が同じだけ、という事実に存する。このことが含意するのは、他にも自分と同じ状況の人がいるから、という想像を基にした励ましを受けるのに類似している。違う世界で、同じ学校に通う彼らは、孤城で出会い、似た境遇の人間がいることに気づく。だが、彼らは、他にも似た人がいるはず、という想像を具現化するも、また彼らが自分たちの世界へ戻ると想像に帰ってしまう。そのために、彼らが同じ学校だとしても、その共通点は想像と似て空虚なもので、パラレルワールド説をマサムネが提示したときの落胆が生まれる。なぜなら、彼らが登校できないのは「同じ」学校をではないし、会うこともできないからであるからだ。

 以上、あり得たかもしれない想定を、例に出して、その特徴を摘出した。とはいえ、この考察は設定の良し悪しを判定するためではなく、本作の①②③設定が持つ含意を見極めるためであった。そのため、話を元の①②③の設定へ戻し、①②③の含意を、それぞれ一点ずつ指摘したい。

 まず、①(異なる時代)についてだが、②③の条件は同じで、①が同時代の場合を考察したように、この場合、弧独よりも一緒に乗り越える側面が強調される。それに対して、①(異なる時代)の場合は、彼らが学校・不登校の状況を同じくしつつも、誰かと一緒に戦えない孤独をしっかりと残す。それゆえに、前述したように、不登校が抱える孤独を丁寧に描写した余韻を、仲間たちと協力しあうことで塗り消さず、それぞれ孤独に戦う側面もしっかりと表現しきっている。加えて、この設定により、以下のような非難を回避して、物語は普遍性を獲得できる。すなわち、こころは同じ学校で、同じ状況の人と出会えたから、学校に行けるようになったかもしれないけれども、そんなケースはまれで、安易な不登校の解決策はしょせんフィクションの産物に過ぎない。と。

 次に、②(同じ学校)については、「不登校」の事態に、行けない「学校」が、否が応でも重要点になることはすでに見てきた。それも、「この」学校(雪科第五中学校)が重要になる。こころが不登校になった原因を語るシーンで書いたように、その恐怖は学校自体に結びつく。子どもの人間関係が構築される場として、その場を構成する大型の建物としての学校。①の含意の箇所で、時代の違いは弧独を強調する効果を持つと書いた。しかし、本作では、孤独のみを強調する冷徹な視点を持つだけではない。

 希望を与える視点が、同じ学校という設定である。「この」学校で、皆戦っていたことが明確に意識させられる。この意味で言えば、過去・未来見ても、「この」学校に同じ状況の人はいないという意味で、絶対的な孤独ではない。つまり彼らは一人ではない。

 最後に、③は特に①②と結びつく。違う時代・同じ学校で、自分と同じ状況の人がいるという世界の事実を知らせる。そして、彼らが分かり合うのは、同じような状況を体験することを基にして、お互いの気持ちに寄り添えることと分かる。この点に注意が必要なのは、「同じような状況を体験すること」は気持ちに寄り添う基に過ぎないことだ。こころが立ち直りつつあるのは、同じ苦しみを共有する彼らの存在だけでなく、その経験があるか不明な母親と喜多嶋先生の支援があったからだ。

 体験は基にするものであり、そこから気持ちにより添えるかどうかが重要である。この点から、悲惨な状況を経たアキは、その経験を基に喜多嶋先生へと成長する。各登場人物たちの人生に寄り添った、皆が尊敬する先生となる。そのアキの成長を生み出したのは、彼女を救ったこころの成長であった。

 

知ることと成長すること

 こころは、孤城で皆と出会い、彼らのことを知ることで、自分自身を見つめなおす。そして、「真田を消す」願いを持った彼女が、願いを無視して友人を救おうとする。悩みを抱えふさぎ込むだけの少女から成長する。彼女の成長には、様々なことを「知る」ことが重要となる。

 黒々とした願いを持ったこころは、物語終盤で、自分の願いを無視して、ルールを破り狼に食べられてしまったアキと連帯責任を取った五人を助ける。こころはリオンの願いを聞き、自分の願いがいかにちっぽけかを知り、アキの現状を知り自分よりも悲惨な現実に直面する人物を知る。こころが学校やフリースクールに行けない理由が分からず、悩む母親も、こころが受けた仕打ちを知ると、彼女の味方になり、担任に強い調子で言い返す。こころはその姿を見て、学校に行けていない自分にも味方がいることに気づく。そして、仕事とは言え、特別な関係性を持たないのに、誰よりも親身になってくれる喜多嶋先生のような存在が居ることを知る。

 彼女は自分以外の不登校の生徒と出会い、不登校は自分だけではないと自分の状況を相対化し、彼らの願い・悩み・感情を知り、自身の内面を相対化する。そして、苦悩から立ち直りつつある彼女に、他人を助ける強さを見せるのは、萌である。アキのルール破りによって、他の皆が狼に食べられるシーンの前に、萌との再会シーンが置かれる。真田の新たな標的となった萌が、下駄箱で萌と会ったときに、こころに標的が向かないように話しかけなかったこと、さらに真田たちの行為を子どもっぽいと切り捨ててしまえること、それらの萌の強さにこころは素直に感心してしまう。転校してしまう萌とこころは、似た状況の人がいたら、助けてあげるように約束する。

 彼女は、その約束を果たす。鍵を手に入れ、他六人の記憶を覗き見る。彼女はそこで初めて、アキがどれだけ追い詰められた状況に居たのかを知る。彼女はアキ、そして彼らを助けるために、アキのいる願いの部屋へ向かう。

 願いの部屋では、鏡のような透明な壁に阻まれた先に、アキがいる。家にも学校にも居場所がないアキは、この孤城で消えてしまおうとする。こころは、アキを救うべく、奥へと続く透明な壁を通り抜けて、アキの元へ走り出し、彼女に手を差し伸べる。

 このシーンでは、本作で重要な鏡の要素が、使用されている。透明で反射する壁は、走りゆくこころの姿を映しながら、走るにつれ、徐々にアキの姿を映していく。幾度も幾度も、自己像をすり抜けていく様は、こころがこの映画を通して、体験してきたことを象徴的に表す。彼女は周囲を知り、自分を知っていく。自分を深く知ったことで、彼女は自分と似た状況を持ち、助けを求めているアキを、発見でき、助けの手を伸ばすことができるようになる。彼女は彼女を知ることで、一回り大きくなる。

 

 

 すべてが終わった彼らは、全員が元の世界へと帰っていく。こころは、学校へと登校する。出社中のサラリーマン、登校する生徒たちの間を、こころは歩いていく。朝日に照らされて、金色に通学路は輝く。彼女が歩く姿に合わせて、壮大な音楽が鳴り響く。途中、転校してきたらしいリオンが、彼女に声を掛けてくる。二人は並んで、学校へと向かっていく。

 物語の締めくくりとなる、こころが登校する姿には、「登校」に一つの達成感を感じさせ、続く未来へと希望を持たせてくれる。