【アニメ考察】雨降って固まるものと崩れるもの―『雨を告げる漂流団地』

©コロリド・ツインエンジンパートナーズ

 

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●スタッフ
監督:石田祐康/脚本:森ハヤシ・石田祐康/キャラクターデザイン:永江彰浩/キャラクターデザイン補佐:加藤ふみ/演出:渡辺葉・間﨑渓・竹内雅人・木村拓・増田惇人/作画監督:近岡直・西村幸恵・黄捷・加藤万由子・荻野美希・三浦菜奈・薮本和彦・水野良亮・坂口歌菜子・渡辺暁子・平井琴乃・櫻井哲也・宇佐美皓一・篠田貴臣・斎藤暖/美術監督:稲葉邦彦/色彩設計広瀬いづみ/CGディレクター:竹鼻まゆ/撮影監督:町田啓/編集:木南涼太/音楽:阿部海太郎/音響監督:木村絵理子/企画プロデュース:山本幸治/企画:ツインエンジン

制作:スタジオコロリド/配給:ツインエンジン・ギグリーボックス/製作:コロリド・ツインエンジンパートナーズ

●キャラクター&キャスト
熊谷航祐:田村睦心/兎内夏芽:瀬戸麻沙美/のっぽ:村瀬歩/橘譲:山下大輝/小祝太志:小林由美子/羽馬令依菜:水瀬いのり/安藤珠理:花澤香菜/熊谷安次:島田敏/兎内里子:水樹奈々

公式サイト:映画「雨を告げる漂流団地」公式サイト (hyoryu-danchi.com)
公式Twitter『雨を告げる漂流団地』公開中 (@Hyoryu_Danchi) / Twitter

 

 

※この考察はネタバレを含みます。

 

 

まるで姉弟のように育った幼なじみの航祐と夏芽。
小学6年生になった二人は、航祐の祖父・安次の他界をきっかけにギクシャクしはじめた。
夏休みのある日、航祐はクラスメイトとともに
取り壊しの進む「おばけ団地」に忍び込む。
その団地は、航祐と夏芽が育った思い出の家。
航祐はそこで思いがけず夏芽と遭遇し、謎の少年・のっぽの存在について聞かされる。
すると、突然不思議な現象に巻き込まれ――
気づくとそこは、あたり一面の大海原。
航祐たちを乗せ、団地は謎の海を漂流する。
はじめてのサバイバル生活。力を合わせる子どもたち。

泣いたりケンカしたり、仲直りしたり?
果たして元の世界へ戻れるのか?
ひと夏の別れの旅がはじまる―

映画「雨を告げる漂流団地」公式サイト (hyoryu-danchi.com)

 

概要

 キービジュアルには、海に浮かぶ団地が印象的な石田祐康監督作品の『雨を告げる漂流団地』が公開されている。雑草に覆われ、白色のそっけない外壁に経年劣化している団地が、青い空と海に挟まれている、不思議な光景が目を惹く。

 取り壊し予定の団地が、突如未知の海に飛ばされる。少年少女たちは団地で、大海に漂流する。小学生六人と鴨の宮団地に現われた少年のっぽは、漂流生活を生き延び、家へと帰ろうと奮闘する。小学生の視点から、漂流現象を体験させ、少年少女の成長を描き出す。青春物語というには、まだ幼い少年少女たちの団地ロビンソン・クルーソー物語が幕を開ける。

 本ブログでは、本作のテーマを二つ、団地の魅力と子どもの成長のリアル、を取り出して、そこから本作を見ていきたい。

 

漂流「団地」の魅力

 本作で押し出されてる一側面が、団地の魅力である*1。キービジュアルや映画タイトルを見て分かるように、本作では少年少女が漂流して苦難を乗り越えるのだが、漂流するのは、人間たちだけに限定されない。老朽化により、取り壊しの計画が進む鴨の宮団地、通称「お化け団地」も漂流する。映画ラストで、主人公の航祐がふと呟くように、「俺たちの家(=団地)はすげー家だった」のである。

 

過去と現在の重ね合わせ

 本編でタイトル『雨を告げる漂流団地』が表示された後に、OPが挿入される。ここでは、団地の魅力の一側面の魅力が描かれる。OPの映像は、過去の航祐と夏芽が団地内を駆け回って、観客たちに団地とはどのようなところか、そしてどのようなところだったのかを説明する役割を担っている。二人を導き手として、観客は団地を見て回ることになる。現在、ごみや手入れが欠け草木が生い茂る庭が、過去にはきれいな庭とよく整えられた緑が見られる。現在では、人の通りがない陰気な道も、過去には、ゆったりと歩く家族や芝生に寝そべるカップル、そこらを走り回る子どもたちの活気づく様子が映される。

 このシーンではまず、過去には団地が、たくさんの人が集まり、人と人とが同じ空間を共有し、ともに生活する空間だったことが視覚的に表現される。そのことを強調するのは、現在を見せて同一ショット内で、かつ同じ場所で連続的に過去の様子を見せる映像づくりである。このように、現在と過去を対比させて見せることによって、一つには先述した人が通る空間だったという場所を印象付ける効果が生じ、もう一つには、団地が持っている、過去から現在へと続く時間の堆積を印象付ける効果がある。後者については、団地が年月を持っていることと夏芽の時間間隔をも予告的に表している。

 団地に多くの人が住み、そこで長い時間を過ごす。それにより、団地自体、人々が過ごした年月を蓄積しながら、さらにそこで住んだ人々も、団地の記憶を持つことになって、団地に関わる記憶は無数に生まれることになる。この点が本作で団地の魅力の一つとして、冒頭OP部分から本編を通して描いていることだ。記憶については、団地に執着を持つ夏芽と彼女を連れ戻そうとする航祐の物語を中心に描き出される。その点については、時間の堆積と同様に次章で触れる。

 

団地の生態観察

 OPから離れて団地の見た目に話を移す。まだまだ団地の魅力は出し尽くされていない。次に団地の魅力という観点で、本作が見せる魅力は、団地の様々な姿が見られるところだ。視覚的な快という観点で、その魅力を構築している。

 OP後、同じサッカークラブに所属する航祐・譲・太志は、太志の発案で、取り壊し中のお化け団地に入り込む。かつて、航祐の祖父安次が住んでいた部屋の押し入れで、夏芽が寝ている。目を覚ました夏芽と三人は屋上に出る。団地の屋上にいる四人の姿を見て、同級生の令依菜と珠理もお化け団地に入り込む。そして、お化け団地を離れて以来、仲の悪い航祐と夏芽の諍いから、夏芽が給水塔から落ちそうになると、突如大雨が降り、視界が開けると、そこには海が広がっていた。ここから漂流団地が開幕する。

 団地は海に浮かび、どこへともなく進んでいる。団地が進む原理は明かされていないが、それは静かに海水を切って、進んでいく。飾り気のない直方体が上下左右を海と空の青に囲まれ進む状況は、異常ではあるが、いや異常であるがゆえに、観る者の心を躍らせる。団地は海を泳ぐだけではない。もちろん本来の用途に即して、漂流した彼ら七人を住まわせる。団地は、他に海に浮かぶ建物とすれ違い、衝突し、水没し、海中から浮上する。また、観覧車のワイヤーで釣りあげられ、最終的には滝登り、空を飛ぶ。これだけ聞けば、「団地とは何か」、「この団地は私たちが知っている団地と同じか」という問いに飲み込まれてしまいそうになる。だが、本作ではこれらの出来事が、純粋なファンタジー(あるいは団地のファンタジーというギャグ)になる寸前で歩を止め、フィクションという理由づけに逃げない物語の流れの中に布置されている。それゆえに、航祐の実感のこもった「俺たちの家(=団地)はすげー家だった」、という感想が出てくるし、観客もそれに素直に頷ける。このことは、後述するように、本作が纏うシリアスな展開を緩和しつつも、シリアスな展開からの後押しを受けて、純粋なファンタジーに陥らずリアリズムを保つことができている。

 様々な表情を見せる団地というのが、石田の過去作では運動に重点が置かれていたが、その状況や切り取り方そのものが魅力を生むのは新しい視点なのではないかと感じた。海をゆったりと進む団地を、ロングショットで収めても、そこには情報量はほとんどない。確かに、周囲に何もない絶望的な状況であることは、情報として観客に提示される。しかし、ここで観客を促すのは、絶望や切迫感ではなく、それとは正反対な牧歌的な海とそこを進む団地の視覚情報そのものが、観客の感覚を刺激するということだろう。

 

航祐と夏芽を繋ぐ団地

 先述したように、団地は記憶をため込んでいる。団地が持つ記憶、そして人々が持つ団地に関する記憶。団地はその性質上、日常生活において、そこで住む人々が最も時間を共にする場所である。それゆえに、大量の記憶を、年月とともに移り変わる多くの人々の記憶を持つ。そこには、新しい入居者という参加の仕方もあるだろうし、新たに家族が増えるというパターンもあるだろう。鴨の宮団地にも、その瞬間が数多くあるだろうし、夏芽がこの団地の住人になったことも、その瞬間の一点として、刻み込まれている。彼女は両親の離婚によって、この団地に住む航祐の家族と一緒に暮らすことになる。離婚して離れ離れになってしてしまうほどの、ギクシャクした家庭状況から一転して、団地での彼女の生活は、最上に幸福なものとして記憶されている。そのために、安次が亡くなり、団地の取り壊しが決まった彼女は、団地と当時の記憶に執着してしまう。

 この点が、本作の「団地の魅力」とは別側面の魅力につながり、本作の物語を支える背骨となる。そして、この記憶という観点から、本ブログの注目点を団地から、もう一つの魅力、子どもたちの成長のリアルへと移していく。

 

子どもの成長

 記憶の観点を支点に、視覚情報に着目した団地から漂流した子どもたちへと移行する。先ほどとは逆の言い方になるが、漂流したのは団地だけではなく、子どもたちもである。子どもたちは、漂流した先で、懸命に生き、一回り大きくなって、最後には全員で元の団地に帰ってくる。そういう意味では、大方の冒険ものと類似した構図を取っている。すなわち日常世界とは別の世界へ少年少女が飛び出し、何事かを解決して日常生活へ帰ってくる物語の構図である。しかし、この点で、本作の魅力は単に冒険譚と成長譚にあるという風に、物語のカテゴリーに還元してはならない、奥深さが存する。この奥深さによって、観客は、夏芽の執着に感情移入し、航祐の夏芽への思いに寄り添い、そして二人の仲直り(成長)に感動できるのだ。

 

リアル=シリアス+痛み

 本作を観た率直な感想が、PVの印象よりも、対象年齢が高い、というものだった。PVでは朗らかで、時に緊迫感のある漂流生活が描かれているが、実際の本編では、時に楽しく時にピンチで、それを乗り越えて万々歳という典型的な物語の展開は存在しない。また石田の過去作品と比較しても、常に張り詰めた緊張感が漂う、ここまでシリアスな作品は初めてだったのではないかとも感じた。

 しかし、本作がシリアスになるのも、本作にとって、ひいては、彼ら(特に)夏芽にとって必要なことだった。成長にシリアスな契機が必須であることが、過去作同様に、子どもについて、石田の鋭敏な眼差しによって、取り出されている。そこでは、子どもの成長が有するリアルな一側面を、暴露的に描き出している。その一側面とは、過去を過去の記憶、思い出にして、現在に生きるということだ。このことが子どもの一側面で大切なのは、彼らにとって、どのような記憶でも新鮮なものであり、大事な記憶となり得る。しかし、現在とは常に移動していき、過去の記憶を常に現在として取り出しておくことはできないし、その分現在を疎かにしてしまう不健全さがあるからだ。そのため、大切な過去は思い出として、心の内にしまっておき、空いた時間にそっと取り出して、思い出す。些細な過去は、無意識に思い出されないために、忘却されていく。このプロセスを経ることは、成長の一側面といえる。

 これ自体、普通のことだが、普通のこととして、捉えられがちである。だが、無意識的に過去を忘れ、思い出に変えていく過程は、成長の過程といえども、残酷さを伴っている。この無意識的あるいは自然に行ってしまう過去の思い出化を、その残酷さともども表現しているところに、「暴露的」と表現した理由がある。その残酷さは子どもたちを襲う。それが本作の夏芽である。

 過去を思い出とすること、これが夏芽には困難で、本作の漂流を通して、彼女がその困難に立ち向かわざるを得ない状況を描いている。その描写を介して、私たちは普段意識されない過去の思い出化、そして忘却という成長の過程がどれだけシリアスな事柄かを知るのである。まずは、夏芽の心情に沿って、本作の流れを見る。その後、彼女たちのドラマを描くのに必要だった演出、そしてモチーフについて言及していく。そうすることで、観客が前述したように、感情移入・感動を引き起こす本作の魅力をも語り出すことができる。

 

夏芽目線での物語

 本作の主人公が航祐でありながら、物語を引きずり込むのは、夏芽である。夏芽は過去に家族と別れ、航祐たちと住み始めて、幸福な日常を手に入れる。しかし、団地は取り壊し予定となり、父親のように慕っていた安次が死に、その日常はあっけなく散ってしまう。さらに彼女は、家族でもない自分が航祐たちの家族と一緒に住んでいたこと、そして安次の死に目に自分のわがままで、航祐が立ち会えなかったこと、など自分を責め続けている。そのような自分の居ていい場所が存在しないという苦しみから、彼女が唯一逃避できる場所は、団地での生活した過去の記憶と記憶に繋がる取り壊し前の団地だった。

 彼女の過去からして、唯一自分が居てもいい場所と思った団地に対して、特別な思いを抱いていることは分かる。夏芽は過去の記憶を忘れられず、度々団地を訪れている。アバンタイトルで、夏休みの宿題を広げて、うたた寝をする夏芽の姿が描かれているが、窓辺から柔らかな光が差し込んでいる様子は、彼女にとってその場所・その時間が彼女にとって安らぐ場所であるように見える。彼女が生きてきた十数年間の内の一部だが、若さゆえの過度な強調のゆえに、団地での生活は、彼女の人生でも最上の記憶だったに違いない。ただ、彼女が過去に執着するのは、安次が死に、団地が取り壊しになり、その幸せな記憶に関係するものが失われたからだけではない。

 彼女が過去に執着するもう一つの理由は、彼女の航祐家族への負い目*2にある。回想で、安次のお見舞いに行った際、夏芽の心配を取り除くために、航祐は夏芽に向かって、お前のじいちゃんじゃないから、そんなに心配するなと声を掛ける。その言葉に、暗に自分が航祐・安次とは他人と言われたと感じた夏芽は病院から去ってしまい、追いかけた航祐は安次の死に目に立ち会えなかった。血のつながりを否定されたことのショック、自分の行動によって航祐から安次の死に目に立ち会う機会を奪った負い目、他人を家族と思って過ごし、自分もそこに居てよいと考えていた勘違い。すべてが合わさり、彼女は過去の記憶にある、自分と航祐たち家族の違いを意識しなかった、ただ幸福な生活に逃避するしかなかった。

 彼女は二重の理由から、過去に執着してしまう。だが、過去に囚われるのは、彼女だけではない。お見舞いの日の言葉や安次が亡くなりふさぎ込む夏芽に手を差し伸べられなかったことを後悔する航祐も、似た境遇にある。病院での何気ない言動による結果も、彼にとっては、容易に忘れられる過去にできなくするには十分だった。それゆえに、過去に生きている夏芽を、彼は心配し元気づけながらも、現在よりも過去を見つめる彼女の姿にイライラしてしまうのである。

 

シリアス

 物語は二人の関係性、刻々と変化する漂流の状況、そして感情を爆発させる令依菜たちによって、シリアスを極める。もちろん人によって、状況によっては、別の興味や大切なものが現在にできることで、過去を簡単に思い出にできてしまう。本作で描かれていないが、夏芽以外の登場人物たちは、そのように現在を生きてきている。しかし、時には成長の際には、大人では可能な割り切ることが子どもにはできないこともある。その現場はかなりのシリアスを伴う。

 シリアスさは物語展開に主に形成されながらも、映像演出においても裏付けされている。シリアスさを演出するのは、リアリズムの追求と痛みの描写である。後者は前者に含ませることはできるが、本作で痛みは重要な要素を持つため、別に取り上げる。

 前者のリアリズムは、丁寧な描写・ディティ-ルの書き込みによって、達成されている。詳細な調査に基づく団地の設定*3はもちろんのこと、備蓄食料を食べ、雨水を加熱して飲料水を作ることやロープの結び方・結び目などのサバイバルの要素、錆や汚れが表面を覆い雑草が生え始め風化した建物のディティール、また各種登場人物やものの運動(代表として珠理を助けようとする夏芽のパルクール)が躍動感と厳密性を持って描き出される。また雨や地面にぶつかって跳ね返る水、登場人物の足に合わせて跳ねる水、あるいは海の様子、そして団地が空を飛ぶ際に壁面から干上がり飛び去っていく水の描写まで、各種水の描写も丁寧に描き出される。

 これらの描写が積み重なり、本作の真に迫った場面作り、すなわちリアリズムが貫かれる。また、真に迫っているからこそ、シリアスな物語たりうる。これにより、登場人物たちの感動に観客を参加させることができる。

 

痛み

 後者の痛みについては、リアリズムと重なる部分もあるが、独自の意味合いを持つ。子どもの成長は、シリアスなものであり、ただシリアスであるに留まらず、痛みが伴うことが表現されている。また、この痛みの描写、とりわけ血の描写は、以前までの石田作品には見られなかったものであり、その点も興味深い。

 本作で流血が見られるのは、三度ある。一つ目は、楢原のプールで、夏芽が自動販売機にある積み重なった段ボールを踏み越えているシーンである。不安定な場所で転び、写真立てのガラスで、膝を切ってしまう。膝の流血、ガラスと床の材質が異なる地面に落ちた血が印象的に描かれる。また、二つ目と三つ目は、航祐・夏芽・のっぽの三人がデパートに食料を探しに出かけ、その帰りに、太志に続いて珠理が団地からあわや落下しそうになったシーンだ。間一髪で夏芽が珠理の落下を防ぎ、下層に珠理を放り投げるが、珠理は頭を打ち、頭から血を流してそのまま意識を失ってしまう。夏芽も珠理を助けた後、握っていた鉄筋で手を怪我してしまう。珠理の頭部から流血が床を流れていく様子は重々しさを加え、夏芽が落下しながら画面内にまき散らす血には儚さを感じ取れる。珠理と夏芽の流血それぞれに、視覚的な変化を作り、それに応じて違った印象を作りだす。

 本作の主たる色調に、海や空の青、風化した建物に生える雑草の緑、建物の灰色、空に浮かぶ雲の白、無彩色を用いることで、その補色たる数度しか登場しない赤が、嫌でも強烈に印象付けられる。その印象は、夏芽や珠理の包帯ににじむ血のシミを通して、何度も痛みを彷彿とさせ、何度も私たちの中で反復される。観客はその痛みを引きずることを強制される。同様に、観客は彼女たちの痛みを簡単には忘れて、物語の気持ちよい部分のみを享受することを許されない。

 以上で、この作品が作り出すシリアスさとその代表例である痛み・血の描写について見てきた。痛みは身体的な痛みだけではない。逃避できる安楽な過去から去るときに、感じる痛みでもある。夏芽は過去を思い出に変え、痛みを伴って初めて、現在の航祐たちと現在の日常世界に帰ってこられる。次に、なぜ夏芽が、これほど大切に思い、離れる際に痛みを伴う記憶を思い出化し、現在を選び取れたのか、を本編に即して確認する。

 

どうやって夏芽に吹っ切らせるか

 夏芽をして現在に振り向かせるのは、主人公たる航祐である。航祐は病院で言った夏芽への言葉を後悔しており、彼女に謝って、彼女と仲直りしたいと思っている。だが、思春期に置かれた彼の状況と何より夏芽の気持ちが分からず、何を伝えるべきか分からず、彼女との距離が遠ざかっていた。その距離が、団地で漂流する環境の変化により、自然と近づき、ここで彼女を失えば一生会えないという一回性が航祐を突き動かす。

 彼女を沈みかけの団地とのっぽのから引きはがすのは、航祐な言葉である。夏芽のことを心配しながらも、何度も迷い、感情のままに夏芽に当たっていた航祐だったが、遊園地で夏芽を助けに来たシーンでは、彼の言いたかったことと夏芽の求めていた言葉は一致する。その言葉に感化され、夏芽も帰る決心をつける。この先、観覧車のワイヤーが切れて、団地が流されてしまう一幕はあるものの、彼らが漂流団地から日常へ帰るフィナーレへと進んでいく。

 

過去と現在のモチーフ

 ここで立ち返って、夏芽の過去・団地への執着を補完する回想以外にも、現在と過去を明示するモチーフを確認したい。それはぬいぐるみとカメラである。前者は、夏芽にとって、後者は航祐にとって重要である。夏芽は、物語中盤に珠理が負傷した一件で、令依菜と険悪になってしまう。彼女はベランダで、一人涙を流していたところ、航祐が話を聞きに来る。そこで、夏芽はぬいぐるみの話を始める。彼女は最初、両親のことを思い出すから、そのぬいぐるみが好きではなかったが、航祐と遊ぶときいつも一緒にいたから、宝物になった、と。苦い思い出しかなかったぬいぐるみに、楽しい日々が加わること、新たな印象を獲得している。

 後者のカメラは、安次のもので、彼がずっとほしかったものだった。安次が死んで、彼は安次のカメラが見つからず、彼も夏芽同様にカメラに同様の苦さを覚えている。だが、そのカメラを夏芽が持っており、航祐の誕生日(病院での出来事の日)に、夏芽と安次はそのカメラを航祐にプレゼントしようと考えていたことが分かる。そして、楢原のプールで非常食を確保した後、夏芽は航祐にその話をして航祐にカメラをプレゼントする。彼が写真を撮っていた描写は少ないが、彼は夏芽からもらったカメラで写真を撮っていたことが本作のラストで分かる。

 夏芽のぬいぐるみも航祐のカメラも、もの自体は変わらないにも関わらず、印象の違いにより過去と現在を分かつ。もちろん夏芽と航祐の記憶が更新し変化したことにより、印象の違いが生じている。

 また、カメラについては、航祐の思い出に限った意味以外の別の意味を持っている。それは写真を撮ることだ。写真を撮るためのカメラだから、写真を撮るという意味を持つのは当然である。しかし、この写真を撮る行為と本作の内容は密接に関連し、この作品の強度を極限まで高めている。

 六人が日常に帰ってきた後、航祐の独白で、後日譚と彼の実感が語られる。独白の一節で、団地で漂流した出来事について、「夏芽の言う通り、全部夢だったのかなって。でもやっぱり違う。あの団地であったことは本当なんだ」と感想を述べている。続くシーンで航祐と夏芽が漂流時に撮った写真を見るシーンに移る。そこには、文字通り団地が海に浮かぶ様子や懸命に漂流生活を送った彼らの姿が映っている。もちろん、日常生活に帰ってきた六人だけでなく、のっぽも映っている。

 ここでは、まず航祐の感想が語られる。それは彼の感想に過ぎない。彼が独白で言うように、どういう出来事だったのか説明できない彼には、その出来事が本当だったと観客含め誰にも説得することはできない。観客も本作のドラマを見てきたから、彼の言葉に同意する(あるいは同意したい)だけで、その言葉に説得されるわけではない。しかし、その後に出てくる写真によって話は変わってくる。写真はあの漂流生活の日々の一瞬を切り取り、あの時の記憶を事実としてそっくりそのまま写真に写し取っている。ここでも観客含め観る者を説得はできない。にもかかわらず、写真を撮るとは、目の前の光景を、過去の事実として機械的に写し取る性質の行為であるから、観る者はそれを信じなければならない。それは現実でそのようなことが起こりうるという意味でリアルと信じさせることではなく、本作の世界で、あの楽しさ・痛みを伴ったあの漂流生活が夢ではなく、確かに起こったこと、本当だったということを、写真の性質を利用して航祐や夏芽たち、そして観客に信じさせるのである*4

 

ファンタジーをリアルにする

 航祐や夏芽、そして観客もあの漂流生活を作中世界の現実のものと信じなければならない。その確信は、観客が登場人物たちの物語に素直に感動できる地盤となる。観客は信じることによって、彼らの物語に深く、素直に感動することができるようになる。

 本作の内容は、石田のワンアイデア、すなわち大海で漂流する団地というイメージボードが発端となっている*5。このワンアイデアの煌めきは甚だしいものではあるものの、これだけでは団地が海で漂流するという非現実的な内容で、光るが無味乾燥とした原石としか言えない。だが、本作はすべてを非現実的で意味のないものと切り捨てられるものではない。視覚的な驚きや快楽を生む、突飛なアイデアは、そのアイデアが展開される内実において、作品を貫くリアル志向の自覚によって、観客が真に受けるべきものへと彫琢されている。観客は登場人物たちの来歴・感情・行動を単なるキャラクターの設定として無視できないし、彼らを取り囲む海や建物に関しても、フィクションやファンタジー世界のものとして、他人事然ではいられない。その過程を経て、観客は彼らの物語、そして本作にただ見入り、ただ感動することができる。

 

 

 上記した仕方で、観客も作中の大海での漂流を彼らと一緒に経験する。だが、それだけではない。私たちは『雨を告げる漂流団地』そのものに巻き込まれ、参加させられ、そこで漂流する。航祐や夏芽たちが団地と共に漂流し、そして一回り成長して日常生活へ帰ってきたように、私たちは本作の作品世界・劇場から、何を持ち帰り、日常生活に戻っていけるのか、映画の余韻冷めやらぬうちに、考えてみるのもよいかもしれない。

*1:団地の描写が正確かどうかは判断できないが、この正確さについて、並々ならぬ力がそそがれている。以下参照。

『雨を告げる漂流団地』監修者が涙した石田祐康監督こだわりの「団地愛」 | アニメージュプラス - アニメ・声優・特撮・漫画のニュース発信! (animageplus.jp)

*2:この点、作中で夏芽が「私のせい」と自責の言葉を何度も口にするのが印象に残る。

*3:脚注1参照。

*4:あえて第三の意味を挙げるなら、辛い航祐と夏芽の成長過程そのものも、写真に収まることで、それもまたよい思い出にさせることができる。写真によってこのような思い出化が生じるのは、写真が過去の一シーンを過去として記録して、夏芽のように過去を現在に反芻しようとすることを許容しないからである。

*5:『雨を告げる漂流団地』公式パンフレット 石田監督インタビューより