【アニメ考察】フロントとリバースの接触点ー『BURN THE WITCH』

© 久保帯人集英社 ・「BURN THE WITCH」製作委員会

 

 

  youtu.be

●スタッフ
原作:久保帯人/監督:川野達朗/副監督:清水勇司/脚本:涼村千夏/キャラクターデザイン:山田奈月/ドラゴンデザイン:大倉啓右/背景美術:スタジオコロリド美術部/美術監督:稲葉邦彦/色彩設計田中美穂CGI監督:さいとうつかさ/撮影監督:東郷香澄/音楽:井内啓二/音響監督:三好慶一郎

アニメーション制作:teamヤマヒツヂ・スタジオコロリド

●キャラクター&キャスト
ニニー・スパンコール:田野アサミ/新橋のえる:山田唯菜/バルゴ・パークス:土屋神葉/チーフ:平田広明/オスシちゃん:引坂理絵/ウルフギャング・スラッシュハウト:麦人/ブルーノ・バングナイフ:小林親弘/サリバン・スクワイア:清水はる香/ロイ・B・ディッパー:田中美央/メイシー・バルジャー:早見沙織

公式サイト:アニメ「BURN THE WITCH」公式サイト (burn-the-witch-anime.com)
公式Twitterアニメ『BURN THE WITCH』公式 (@BTW_anime) / Twitter

 

 

※この考察はネタバレを含みます。

 

 

遥か昔からロンドンに於ける全死因の72%は、人々が見ることのできないドラゴンと呼ばれる“異形の存在”が関わっていた。

だが、人知れずそのドラゴンと相対する人々がいた。

ドラゴンの存在を見ることができるのは、フロント・ロンドンの“裏側”に拡がるリバース・ロンドンの住人だけ。その中でも、選ばれし人々がウィッチ魔女/ウィザード魔法使いとなり、ドラゴンと直接接触する資格を持つ。

主人公は、自然ドラゴン保護管理機関「ウイング・バインド」(通称WB)の保護官である新橋のえるとニニー・スパンコールの魔女コンビ。彼女たちの使命は、ドラゴンに接触できない人々に代わり、ロンドンに生息するドラゴンたちを保護・管理することだった。

(『BURN THE WITCH』公式サイト INTRODUCTION STORYより)

 

 本作は魔法を使う者(ウィッチとウィザード)とドラゴンの物語である。魔法とドラゴンはおとぎ話を連想させる。その世界の中で、主人公はしきりに問いかける。おとぎ話で登場人物が、時間になったり、約束を破ったら、魔法が解けてしまうのは仕方がないのか、と。彼女が問いかけるのは、作中作品に対してのおとぎ話の次元で怒りを露わにしているからではない。彼女が言う「おとぎ話」とは、表世界(フロント・ロンドン)の住人が、主人公たちが住む裏世界(リバース・ロンドン)について記したもので、おとぎ話と自分たちの世界が重なるからだ。

おとぎ話と重なるリバース・ロンドンに住み、魔法を使える彼女は、おとぎ話からどのような教訓を引き出し、何を信じているのか。

 『BURN THE WITCH』は『BLECH』の原作 久保帯人、アニメーション制作はteamヤマヒツヂの川野達朗を監督に、teamヤマヒツヂ、スタジオコロリドがアニメーション制作を手掛ける。現代メルヘン物語が開幕する。

 

メルヘンの形

『BURN THE WITCH』が抱えるテーマは、冒頭に記した主人公ニニーのおとぎ話への言及から広がっていく。本作の設定自体が魔法とドラゴン、表の世界(フロント・ロンドン)から裏の世界(リバース・ロンドン)と十分におとぎ話と呼称できるために、このセリフは倒錯的なものに映る。(←このことは「人生はクソゲーというのに類似した関係?)

 

オールドメルヘン

 他人から借りた力で、迎える挫折に対して、ニニーは憤りを覚える。後半で登場する童話竜(メルヒェンズ)の「シンデレラ」からも分かるように、彼女の矛先が向いているのは、『シンデレラ』などのおとぎ話である。魔法使いの力を借りて舞踏会に参加できたシンデレラは、魔法が解けた後にも、王子様が探し出してくれ、ハッピーエンドを迎える。

 

ニューメルヘン

 『BURN THE WITCH』もハッピーエンドを迎えるが、主人公の言及とは裏腹に、厳しい世界の現実を見せつけてくれている。その中でも観客は主人公の言動から、何かを感じ取ることができる。

 

ニニーの言葉

主人公がしきりに問いかけ、語るのは、「おとぎ話がくそくらえ」で、魔法を「かけられる」のではなく、「かける」側でありたいということ。他人の魔法をあてにすることなく、生きていけるほうが彼女にとっては良いことだ。そのことの意味は、彼女が暮らす「リバース・ロンドン」では、魔法が当たり前である世界観からも、彼女の実感として説得力を持つ。

 フロント・ロンドン(あるいは、画面外の世界)では、魔法が使えない。だからこそ、誰かがかけてくれる魔法を期待してしまう。その期待の表れは、おとぎ話に限らず、ファンタジーなど数多くのフィクション作品が生み出されていることからもうかがえる。

 しかし、リバース・ロンドンの世界では事情が違う。魔法が使える。それゆえに、当然かける側とかけられる側の違いが生まれ、かける側に回りたいという言葉も理解しやすい。

 その点、主人公が「かけられる」よりも、「かける」側でいたいというのは、何かを受動的に願っているのではない姿であり、それゆえに彼女の言う「おとぎ話」とは異なっているのかもしれない。

 

カオスとしての世界

 また、おとぎ話では、善悪など価値観がはっきりしているのも特徴で、それも本作とも異なる点だ。『シンデレラ』の物語も、勧善懲悪の物語と言える。本作では、単純に勧善懲悪とは言えない。悪役然として登場したブルーノも、彼には彼の正義があり、バルゴを害竜指定と討伐手続きを進めていた。逆に、バルゴが「童話竜」の討伐に役立つと分かると、討伐命の解除を進言する。

 バルゴの一件を巡って、彼とニニー・のえるは対立するが、シンデレラが登場し、シンデレラ討伐のために共闘する。彼らが向かう先は、ずれているようで、一致している。

 

シリアスとコメディ

 シリアスな展開に差し込まれるコメディ要素も本作の特徴の一つだ。デフォルメされた表情や顔の輪郭が崩れた表情をしたりと、それまでのシリアス展開を和らげるような効果を持っている。ここに全面シリアスともコメディともいかない複雑化した側面を持っている。

 

ウィッチ/ウィザード的要素

 ただこうは言ってきたが、ニニーのセリフを裏切っていく展開が続く。自分は魔法をかける側でいたいという彼女の言葉は、自分の力で生きる主体的な宣言に感じられる。だが、彼女の生きる世界は、誰かに力を借りて、他力本願に生きているのでもないし、自分一人で生きているのでもない。

 

空を飛ぶ

 本作はウィッチ/ウィザード共に、空を飛ぶ。空を飛ぶのは、魔法のみによる浮遊でもなく、ほうきなど媒介物を用いて飛ぶわけでもない。彼らはドラゴンを使役して、ドラゴンの力を借りて、空を飛んでいる。

 一般人はドラゴンとの接触を禁じられているので、ドラゴンに乗って空を飛べるのは、ウィッチ/ウィザードに制限されている。空を飛ぶことは、選ばれし者だけができることなのである。

 

魔法を使う

 ウィッチ/ウィザードは魔法が使える。だが、何の媒介もなしに、自由に魔法が使えるわけではない。魔法を発動するには、ニニーやのえるが使う魔道具やブルーノが描く魔法陣など必要だ。

 それに対して、ニニーとのえる、2人の上司チーフはそれらの媒介なしに魔法を放つ。彼女たちが童話竜のシンデレラ討伐に苦戦する中、一瞬動きが止まった瞬間にウイング・バインドの建物からシンデレラの弱点である冠を狙撃して破壊している。

 

おとぎ話とリバース・ロンドンとフロント・ロンドン

 以上で、『BURN THE WITCH』の特徴を、ニニーの言葉に関連する観点で見てきた。主人公の言葉は複数の意味で解釈できる。魔法をかける側でいたい、にある「魔法をかける」を自分のやる気を上げる方法かもしれないし、それは能力的なものかもしれないし、あるいは文字通り魔法を使う魔女でいたいと解釈もできる。

 しかし、ここでは漠然と「魔法をかける」を解釈してきた。おとぎ話の魔法をリバース・ロンドンの舞台に現実的な次元に落とし込んでも、それでも他人の存在は切っても切り離せない。確かに、魔法が現実であるから、ニニーは魔法をかける側に居る。それはウィッチ/ウィザードと一般人の選別はあるが、魔法はリバース・ロンドンにとっては当たり前の日常だ。

 フロント・ロンドンでのおとぎ話も画面外の現実にあるおとぎ話も、当たり前に魔法は存在しない。それはおとぎ話の中だけでしか現れず、その世界に住む私たちには信じることしかできないものである。

 おとぎ話の住人であるニニーにとっては、魔法が使える。しかし、おとぎ話で語られるように、魔法もウィッチ/ウィザードも万能ではない。一人では空を飛ぶこともできないし、魔法も魔法であることから無制約に使えるわけではない。そのために彼女は「魔法をかける」ことができるように、成果を上げていくしかない。おとぎ話が一面の現実世界の真実を含んでいるように、現代のメルヘンと呼べる『BURN THE WITCH』も、おとぎ話とは異なった意味で現実的な真実を含みこんでいる。