【アニメ考察】成長の鍵は伴侶との〈発見=出会い〉?―『ペンギン・ハイウェイ』

© 2018 森見登美彦KADOKAWA/「ペンギン・ハイウェイ」製作委員会

 

 

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●原作
原作:森見登美彦ペンギン・ハイウェイ』(角川文庫刊)

●スタッフ
監督:石田祐康/脚本:上田誠ヨーロッパ企画)/キャラクターデザイン・演出:新井陽次郎/演出:亀井幹太/監督助手:渡辺葉/作画監督:永江彰浩・加藤ふみ・石舘波子・山下祐・藤崎賢二/美術監督:竹田悠介・益城貴昌/色彩設計広瀬いづみCGI監督:石井規仁/撮影監督:町田哲/音響監督:木村絵理子/音楽:阿部海太郎/音楽プロデューサー:佐野弘明アニメーションプロデューサー:金苗将宏
制作:スタジオコロリド/配給:東宝映像事業部/製作:「ペンギン・ハイウェイ」製作委員会

●キャラクター&キャスト
アオヤマ君:北香那/お姉さん:蒼井優/ウチダ君:釘宮理恵/ハマモトさん:潘めぐみ/スズキ君:福井美樹/アオヤマ君のお母さん:能登麻美子/アオヤマ君の妹・ペンギン:久野美咲/アオヤマ君のお父さん:西島秀俊

公式サイト:映画『ペンギン・ハイウェイ』公式サイト (penguin-highway.com)
公式Twitter映画『ペンギン・ハイウェイ』公式 (@pngnhwy) / Twitter

 

 

※この考察はネタバレを含みます。

 

 

 新作『雨告げる漂流団地』を来週に控えた石田祐康監督のファンタジー映画。新作公開前に、本ブログでは前作の『ペンギン・ハイウェイ』の魅力をチェックしたい。

 

www.hyoryu-danchi.com

 

 『ペンギン・ハイウェイ』の立ち位置は境界線上に位置している。というのも、森見登美彦の原作小説が第31回日本SF大賞を受賞すると同時に、映画公式サイトでは、本作を「心弾む青春ファンタジー映画」と形容しているからだ。SFでありながら、ファンタジーでもある。この事実に着目して、映画『ペンギン・ハイウェイ』について、まずファンタジー要素とSF要素を取り出す。その後に、両者が組み合わさったファンタジーとSFが融合する要素、換言すると、想像的なものとそれを冷静に見つめる視点が織りなす世界を取り出したい。

 

物語を動かすファンタジー

 本作の物語は、ファンタジー要素によって、動かされる。街でのペンギンの出現によって、主人公アオヤマ君の「ペンギン・ハイウェイ研究」が始まり、同じクラスのハマモトさんに誘われ、森奥に浮かぶ「海」の研究が開始することで物語が進展する。そして、お姉さんとペンギンと「海」の関係性、「海」の暴走が、登場人物たちが住む街を巻き込む大騒動へと連鎖していく。それゆえに、ファンタジー要素には、物語を運ぶ重要な役目がある。

 ファンタジー要素は、アオヤマ君の通う歯科助手であるお姉さんに主として起因している。彼女は、無機物からペンギンを生み出すことができる。そんな彼女と森の奥に浮かぶ「海」が本作にファンタジー要素を提供している。

 物語は、突如街にペンギンが出現するという出来事から始まる。空き地にペンギンが佇んでいる。道路をペンギンがよちよち歩きで歩いている。この光景一つとっても、ファンタジー的と言える。そのため、お姉さんが出現させたペンギンは、不思議なお姉さん自身と同様に本作の重要なファンタジー要素である。

 

© 2018 森見登美彦KADOKAWA/「ペンギン・ハイウェイ」製作委員会

 

 「海」もペンギンの出現以上に、その見た目から不思議な現象だ。「海」は広い草原にぽつりと浮かんでいる。球体全てが液体で構成されているようで、常時波うち、周囲の光を反射させている。人間が近づくと、近接した部位が形態を変え、液体に入ったものを中心部に引きずり、飲み込んでしまう。

 

© 2018 森見登美彦KADOKAWA/「ペンギン・ハイウェイ」製作委員会

 

 また、「海」の内部は世界の果てに繋がっている。そこは一面海に覆われており、水没する住宅、空に浮かぶ住宅や海に面し青を基調にしたこれまた不思議な街が存在する。物語の終盤でアオヤマ君とお姉さんは「海」に飛び込み、この世界に飲み込まれた研究員たちを救出に向かう。

 また、ファンタジー的なのは、現象だけではなく、アニメ独特の動きにも現れている。石田監督の代名詞とも言える疾走感あふれる滑走(滑走)は、本作でも見られる。物語終盤に、アオヤマ君とお姉さんがペンギンの背に乗り「海」に向かうシーンで、運動の最高点を迎える。該当シーンでは、ペンギンたちは、冒頭で見られた背筋を伸ばして、胸を張った姿で、愛らしいよちよち歩きではなく、羽をすぼめ前傾姿勢で颯爽と走り出す。大量のペンギンたちが重なり合い、一体の乗り物のように、二人を乗せる。ペンギンに乗って、二人は、「海」により家が浮かび、空間にずれが生じる、いつもと違った街を滑走していく。

 この滑走の気持ちよさは、作画の丁寧さやレイアウトの秀逸さのみに依拠するのではない。お姉さんがペンギンを創造し、ペンギン・エネルギーの高まりによりペンギンが活発化するなど、滑走が物語的な支えを受けることで、滑走に至る説得力を付与している。展開上の説得力が生じることで、観客はより作品世界、ここでは滑走の運動そのものに没入していくことで、素直に運動の心地よさを受け取ることができる。

 

© 2018 森見登美彦KADOKAWA/「ペンギン・ハイウェイ」製作委員会

 

 ファンタジー側では、ペンギンの出現・「海」の存在そして暴走、などの現象が物語を牽引しながら、ペンギンを代表とする、動きによる爽快感や「海」の形態のおもしろさ、また言及できなかったが、世界の果ての幻想的な風景を楽しむことができる。

 

SF側の冷静な視点

 SF側を担うのは、主人公のアオヤマ君と彼らの研究仲間だ。アオヤマ君の老成した人物設定と共に、彼に芽吹く科学精神は印象に残る。彼は、不思議なことをノートに書きつけて、研究と称して、不思議の解明に日々取り組んでいる。映画冒頭にアオヤマ君の部屋を俯瞰ショットで映し、部屋の中心部から勉強机まで縦にカメラ移動して、ノートをまっすぐ見下ろす構図に移る映像は、彼のノートに対して、観客の視線を釘付けにする効果的な演出である。

 不思議を解明する際に、彼が用いる方法こそ科学要素の代表になる。すなわち、観察と実験により、データを収集し、そのデータを基に不思議を解き明かす仮説を実証することである。「ペンギン・ハイウェイ研究」では、お姉さんがペンギンを創造する条件を、各種の道具を揃えて実験している。また、アオヤマ君は、研究ノートに、不思議なこと、仮説、実験で得たデータ、観察記録など、方眼紙に几帳面な字で、丁寧にメモを取っていく。書き物に残すことで、他の人が検証を行うことができるようになる。

 以上は、SFすなわち科学的空想に基づくフィクションの内でも、特に科学的な側面を取り扱っている。実際の科学研究に比して、実験やデータ収集の厳密さが薄いにしても、不思議に対して見込みある仮説を想像して、その仮説を実験のデータにより実証する態度は、科学的精神そのものと言える。

 SF側には、ファンタジー要素であったような物語を牽引する力は薄い。むしろ、物語を引きずり込むファンタジー要素を冷静に見つめようとする眼差しがある。その眼差しは一つの仮説を発見する。仮説を厳密に実証するという形ではないが、アオヤマは「海」そしてお姉さんの存在、二つの不思議を解明する一つの仮説を提示する。物語を大きく牽引してきた不思議は、アオヤマ君によって解明されるのだが、それでも解明されない不思議が残る。

 

不思議を解明する

エウレカとアニメの動きの作り方

 アオヤマ君の仮説により、本作で、「海」は穴・世界の果てであり、この世界に存在してはいけないものであり、お姉さんはペンギンを創造して、「海」を破壊し、世界を修復していたことが分かる。お姉さんが人間ではないことも判明する。

 この仮説を発見したとき、「エウレカ」という不思議が印象的に描かれる。天気のよい朝の登校中に、それは起きる。お姉さん・海・ペンギンに関する過去の記憶が想起され、彼は歩道で立ち止まる。彼の頭の中に映像が移り変わり、黒背景にノートが映り。ノートの中身が一つに繋がる様子で、エウレカが表現されている。その後、閃きをアオヤマ君は教室で、ひたすらノートに何かを書き続ける。

 エウレカの中身については、「海辺のカフェ」でアオヤマ君がお姉さんに、説明している。その内容をノートで見せることによって、彼に生じたエウレカの正体が明示化されている。この点が前節で触れられなかった科学側の視覚的なおもしろさである。つまりエウレカという不可解な現象を説明しながら、彼が独立のデータを仮説に繋げたのかを、目で見て分かるように説明してくれる。

 ここで面白いのが、ペンギン創造の様子や海の説明に、パラパラ漫画が用いられている点だ。ここには、科学がその仮説を定立する過程(発見の過程)を記述しないのと同様に、アニメでもどのようにアニメーションが動きを得ているのかを明示的に描くことはしない。すなわち、ここで仮説定立の瞬間であるエウレカとアニメーションが生成される原型のパラパラ漫画が、現実であれば見えないものを暴き出している。本来見えない部分(=不思議)を、〈見える〉ようにする点で、科学とアニメが重なり合う。科学要素が仮説により、その不思議を説明するのに対して、アニメがその不思議の中身を目で見せてくれる。このことをパラパラ漫画の利用により、遂行する。そして、もちろんパラパラ漫画自体の動きも面白い。

 

アオヤマ君とお姉さんと「ペンギン・ハイウェイ

 アオヤマ君は「海」、お姉さん、ペンギンを解明することで、ミステリアスなお姉さんの謎をも解明する。が、残された問いもある。一つには、アオヤマ君からお姉さんへの感情の謎、もう一つには、お姉さんから問いかけられた謎である。

 前者は、恋愛の謎である。アオヤマ君が意義深く言語化したセリフを引用しよう。物語中盤アオヤマ君はお姉さんの家に上がり、ご飯をごちそうになる。お姉さんは疲れて寝てしまう。お姉さんの寝顔を見ながら、以下のように誰にともなく問いかける。

 

なぜこの人の顔はこういう形に出来上がったのだろう?なぜお姉さんの顔を見ていると嬉しい感じがするのだろう?なぜぼくがうれしく思う顔が遺伝子によって、完璧に作られて、今ここにあるのだろう?

 

上記問いは、お姉さんが存在することへのしみじみした感動、そしてお姉さんを見た時の生じる感情への素朴な不思議さがあり、感動と不思議の源として、アオヤマ君からお姉さんへの愛が溢れている。上記問いは、科学とは対照的に、具体的な時と空間に制限された対象への問いに集約されているがゆえに、愛に直結する。問いの形式は、「なぜ」と問うが、因果関係の原因を、引いては因果の法則を求めているわけではない。お姉さんの顔の形がこのようになった解剖学的原因を求めるわけではないし、顔を見ることとうれしいという心理的事実についての心理学的あるいは神経学的原因を求めるものでもないし、アオヤマ君とお姉さんの出会いを遺伝子という小世界から宇宙という大世界を決定する唯物論決定論による原因を求めるものでもない。その問いは、「理由」を求めている。

 しかし、この時の理由は、「この」一回きりの存在(=お姉さん)に対して、法則を求めることはできない。彼は、それぞれの「理由」を追い続ける。アオヤマ君自身の素朴な疑問に対する、「理由」への問いは、お姉さんから投げかけられる後者の問いへでも引き継がれる。

 

 後者は、二人が「海」を破壊した後、「海辺のカフェ」で話しているシーンに、お姉さんが問いを発する。「ねえ、私はなぜ生まれてきたと思う?」とお姉さんはアオヤマ君に問いかける。このときのアオヤマ君はわからないと返答している。しかし、最終のモノローグで語るように、いつか彼女が生まれた原因については、解明できるかもしれない。ただ彼女が生まれた理由については、謎にとどまるだろう。前者の問いと同様に、彼が切実にその感情を。一個の謎として不思議と感じ続ける限り、彼のお姉さんへと至る「ペンギン・ハイウェイ」の個人的信念は絶えることがない。

 

 

 お姉さん・ペンギン・海への問いをアオヤマ君は発見する。そして、彼はそのことにより、彼の人生を決定づけるような、彼だけの問いを手にする。本作は、アオヤマや周囲の人たちの冒険を描きながら、物語の中心はアオヤマ君が「気取った」少年から大人への一歩を踏み出した成長物語を描いている。

 彼は愛を知る。それに向かって彼は一直線に走り続ける。勘違いしてはいけないのは、愛=恋愛のみを意味するのではないことだ。彼の愛は、恋愛の愛でもあり、愛知すなわち知への愛であり、二つが密接に結びついているからだ。執拗だがもう一点付け加えるなら、不思議への愛である。この愛の地点において、ファンタジーの不思議さ、科学の知、アオヤマ君のお姉さんへの恋心の領域が一点で交わり、その交点からペンギン・ハイウェイという名の半直線が伸びる。私たちは「ペンギン・ハイウェイ」を行く、アオヤマ君の軌跡に思いを馳せる。