【アニメ考察】生きづらい現在を共同戦線する―『夏へのトンネル、さよならの出口』

Ⓒ2022 八目迷・小学館/映画『夏へのトンネル、さよならの出口』製作委員会

 

 

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●原作
原作:八目迷「夏へのトンネル、さよならの出口」(小学館ガガガ文庫」刊)/原作イラスト・キャラクター原案:くっか

●スタッフ
監督・脚本・絵コンテ・演出:田口智久/キャラクターデザイン・総作画監督:矢吹智美/作画監督:立川聖治・矢吹智美・長谷川亨雄・加藤やすひさ/プロップデザイン:稲留和美/演出:三宅寛治/色彩設計:合田沙織/美術設定:綱頭瑛子(草薙)/美術ボード:栗林大貴(草薙)/美術監督:畠山佑貴(草薙)/撮影監督:星名工/CG監督:さいとうつかさチップチューン)/編集:三嶋章紀/音楽:富貴晴美/音響監督:飯田里樹/音響制作:スタジオマウス/音響制作担当:鵜澤加奈/設定制作:西川真剛/制作:金澤明之介・田口慶次郎・豆田真起子/制作プロデューサー:松尾亮一郎

アニメーション制作:CLAP/配給:ポニーキャニオン/製作:映画『夏へのトンネル、さよならの出口』製作委員会

●キャラクター&キャスト
塔野カオル:鈴鹿央士/花城あんず:飯豊まりえ/川崎小春:小宮有紗/加賀翔平:畠中祐/塔野カレン:小林星蘭/浜本先生:照井春佳/カオルの父:小山力也

公式サイト:映画『夏へのトンネル、さよならの出口』公式サイト (natsuton.com)
公式Twitter映画「夏へのトンネル、さよならの出口」 (@natsuton_anime) / Twitter

 

 

※この考察はネタバレを含みます。

 

 

 ガガガ文庫の八目迷著同名タイトルの小説『夏へのトンネル、さよならの出口』を原作に、監督に『アクダマドライブ』の田口智久監督を迎え、アニメーション制作は『映画大好きポンポさん』のCLAPが担当する。九月九日公開という夏の終わりに、過ぎ去りし夏の青春を、シリアスな境遇を生きる二人の少年少女の物語を通して、鮮やかな筆致で描き出す作品に仕上がっている。

 本作の重要なテーマは、時間である。原作者の八目迷は、インタビューで時間を使った物語を書きたかったと語っている*1。作品内のその最たるものが、「ウラシマトンネル」である。「ウラシマトンネル」は時間経過が外よりもはるかに遅く経過する場所で、そこでは過去に失くしたものを取り戻すことができる。二人の少年少女が、このウラシマトンネルをきっかけに出会い、新たな物語を紡ぎだしていく。

 

二人の境遇

 二人の少年少女は、雨が降り続く憂鬱な日に、駅で出会う。ずぶぬれになりながら、手荷物を大事そうに抱える少女と普段見かけない少女を恐る恐る見、傘を差しだす少年。二人が、ヒロインの花城あんずと主人公の塔野カオルである。二人はともに、悲惨な現在を変えたいが、高校生の彼らにはどうすることもできない現実が横たわっている。

 彼らの転機となったのは、ウラシマトンネルであり、ウラシマトンネルをきっかけにした二人の時間であり、駅での出会いだ。二人が出会う駅の正面には海が広がるが、眼前には白いもやしか見えない。悪天候の中、一本のビニール傘をきっかけに出会う。塔野が発見したウラシマトンネルを中心にして、ゆっくりとだが、着実に二人の仲は深まっていく。

 本ブログでは、二人の変化・ずれを生むウラシマトンネル、二人の変化を観測する駅、人々の交差点としての駅、の三点を参照軸にして、本作の魅力を見ていきたい。

 

ずれを生むウラシマトンネル

 本作では、前述したように、悲惨な状況を抱える二人が、お互いに理解していく物語である。しかし、本作を突き動かすのは、彼らの類似点というよりも、彼らの違いである。彼らは似ているようで、異なる。異なるがゆえに、近づきもするし、離れることもある。

 主人公の塔野は、失った妹を取り戻すために、ウラシマトンネルに挑む。彼が持つ妹を取り戻したいという願いは、妹を取り戻せば済む話ではなく、その本願は妹が生きていた幸福な日々や仲の良かった家族を含めた過去を取り戻すことにある。他方、花城は祖父の影響で、マンガのおもしろさを知り、マンガ家を志す。祖父はマンガ家として両親に煙たがれ、彼女もまたマンガ家への道を両親に否定される。彼女がこの地に引っ越してきたのも、両親に頭を冷やすように言われて来た島流しだった。彼女は、マンガで、名を残せなかった祖父を見てきたために、同じ道を志す者として、この世に名を残したいと願う。彼女がウラシマトンネルで願うのは、そのための特別な才能である。同時代を生きるマンガ家志望のライバルたちを圧倒するような特別な才能。そして、後世に残るマンガを描ける才能。彼女が願うのはこのような才能である。

 二人の欲しいものは、過去と未来を向いており、それぞれに異なった時間の向きをしている。塔野は過去、花城は未来に願う。ウラシマトンネルは、彼らの違いを浮き彫りにし、過去に囚われる塔野に過去と対峙するチャンスを与える。彼は、ウラシマトンネルの深部で、妹と再会し、そこで届かないはずの花城からのメールを受け取り、彼が囚われた過去よりも今大切なものを思い出す。そうすることで、彼は囚われた過去にけりを付けられる。他方、花城は、彼に残されながら、彼女の求めた才能を手にはできていないが、彼女はマンガ家になる。未来を向く彼女の場合、対峙すべきは現在の自分だった。

 また、塔野の過去との対峙、二人の出会い・親交を深める中心点たるウラシマトンネル自体、二人のずれを明るみに出す。ウラシマトンネルは、物語が進展するにつれ、彼と彼女の違いを試験紙として表現する。ウラシマトンネルは内と外で時間の進み方が異なる。トンネル内で数秒経てば、外では数時間が経過している。二人は、どれだけの時間がトンネル内で進むのか実験をする。例えば、外と内で電話をしながら、時間経過を測ったり、中から外にメールを送って、時間を測ったりする。いずれもトンネルの内と外の時間のずれを明確に表す。時間のずれを用いて、彼らが生きている時間が異なることを明確に表現している。その顕著な表現が、トンネル内の効果発生ポイントの外と内に人がいると、どのように見えるのかを実験するシーンの表現である。トンネルの内から塔野は花城を見ると、彼女は瞬間移動するように、高速で移動しているのが見える。逆に花城から見た塔野は、スローモーションで微動しているが、ほぼ動きがない状態で見える。普通ではないお互いの姿を見て、塔野は戦慄し、花城は途方に暮れ、互いに孤独を実感する。ウラシマトンネルの特異性を二人は感じ取る。内と外で明確なずれが発生している。ウラシマトンネルの視覚的な効果を用いて、二人が異なる世界・時間を生きていることが明示される。

 この違いが、最終的にマンガを認められた花城を置いて、単独でウラシマトンネルへ入っていった塔野の行動を生み出す。花城が塔野を何でも捨てられると評したように、彼が抱える悲惨さを忘却できた花城との時間をも捨て去り、彼が執着する願いを追う。

 共同戦線を張る彼らは同じ現在を生き、同じ方向を向いているようで、同じ時間を生きていないし、違った方向を向いている。二人は、過去や未来にのみ希望があり、現在には希望がないと信じ込んでいる。

 二人を繋ぐモチーフとして、全編を通して機能するのは、冒頭に塔野が花城に貸すビニール傘である。何の変哲もない傘である。二人の「共同戦線」が機能している時には、花城は塔野に傘を返すのを忘れる。塔野が一人でトンネルに潜ってからも、彼女はビニール傘を持ち続ける。傘は金属部分に錆が見られるようになるが、ビニール部分は依然透明さを保っている。塔野がトンネルから数年ぶりに脱出し、花城の傘を開いたとき、作中に開かれることのなかった傘の晴れ姿を見ることになる。開いたビニール分が太陽の照り返しを受け、今後の彼らのその先を暗示し、彼らの時間が同じ現在を刻み始めたことが分かる。

 ずれがある彼らだが、彼らの間を繋げ続けてきたのがビニール傘であるとするならば、彼らの絆を補強し、観測し続けたものは別にある。それは駅である。

 

変化を見つめる駅

 駅は町の外と内を繋ぐように、彼らの関係をも繋ぐ。二人が出会ったのは、雨の降るどんよりとした天候の中に佇む駅だった。駅の前が海にもかかわらず、海の青さは少しも見えない。一面重苦しいもやと雨雲に覆われ、層の一部として海を認識できるが、もやと溶け合っている。二人が現在感じている閉塞感を端的に代弁しているかのようである。

 シーンは飛んで、二人が水族館に出かけた後、電車を待つ傍ら、この駅で初めて会ったシーンを、塔野の方から同じセリフ・同じ振舞いで再演する。出会いの日とは異なり、眼前には真っ青な海と快晴の空が広がる。その中、塔野が手には傘ではなく、向日葵を持って、花城に語り掛ける。眼前の海と背後に咲き乱れる向日葵が二人を囲む。その中で二人は、自分たちがやっていることのおかしさに劇中最高の笑顔を見せる。本作品のピークに仕上がっている*2。冒頭の駅のシーンとそれを再演するこのシーンでは、海とは反対側が画面に入らないように、巧妙に構図選択がなされている。この細かいが、効果的な気配りにより、作中初めて塔野が笑う、二人のピークシーンを的確に盛り立てている。

 最後は、塔野が一人でトンネルに入り、取り残された花城が訪れる。塔野に嘱望されたマンガ家として奮闘するも、限界の来た彼女が駅を訪れる。そこで、彼女が大切に持ち続けた、ガラケーが振動する。背後から彼女をフレーム内に収めつつ、その奥には真っ青な海と空、そして白さを持つ夏の代名詞である入道雲が光に満ちた様子で映る。彼女はメールの文面を見る。そこには「大好き」と書かれた文字が光る。彼女はウラシマトンネルへ走り出し、物語は感動のラストへと一直線に向かう。

 駅は二人の感情や状況を反映する定点として存在していた。二人がウラシマトンネルという時間的なギミックで出会い、駅は定点ゆえに、反対方向の非現在を望む二人を結び付けた時間的なギミック(ウラシマトンネル)とは別の次元で存在しながらも、定点として駅は、観客に時間の経過、二人の変化を観測させる。

 駅での二人の出会いを再演するシーンは、彼らの表情・仕草とその背景によって、二人の感情や状況を表現しつつ、それ以上の意味を持っている。二人の再演は、言葉は同じでも、彼らの仕草や渡される物など、すべてが異なると言っても過言ではない。同じ言葉、似たものを手渡す、似た仕草をとっても、その意味は異なる。

 これと同様の演出が見られる。原作準拠の設定であるガラケーのモチーフである*3。その中で、印象的なのが、塔野が初めてウラシマトンネルに入り、家に帰ってからのシーンである。彼は充電切れのガラケーを充電し、メールを確認する。すると、加賀と花城から大量のメールが届いている。そこで彼はウラシマトンネルに居た短時間で、トンネルの外では三日経過していたことに気づく。彼は、違った文面が来ていた二人に「生きてる」と同じ言葉を二度打ち込んで送信する。繰り返しのテンポのよさやおかしさを漂わせて、同じ言葉の再演ではあるが、まったく同じ意味は持たない。この点、原作がトンネルから出たら現在だったというトリックを用いていたのを逆手にとって、ガラケーに原作の叙述トリック的意味とは異なる意味を付与する。

 同じことでも、意味が異なり、再演しようが似ている状況だろうが、同じものはない。言葉で明示してしまえば当たり前のことだが、時間を扱うウラシマトンネル、定点としての駅、そして各種演出によって、「まったく同じものはない」というメッセージを、様々な感情の色を添え、観客に届けられる。そのメッセージは観客に対すると同様に、作中の塔野へ向けられたものと捉えることで、彼が過去から現在へ戻ってきた本作のストーリを補強し、かつ何よりも彼の選択を温かに肯定し称えている。

 

開かれた場所としての駅

 このような定点としての駅は、また別の意味も持つ。それはこの土地に住む塔野と東京から来た花城を結び合わせる「開かれた場所」としての側面である。駅のアナウンスでは、電車の遅延がアナウンスされるが、駅の電車は一度のずれによって、永続的にずれが発生していくわけではない。そうであるなら、誰もが電車が来る時間を知らず、公共交通機関ではなくなる。電車の到着時間は補正されていく。それと同様に、二人の時間も、現在の今この瞬間を生きる時間へと補正されていく。そして、映画のラストで、さび付き、閉じられ続けた傘が開けられ、これからの二人の止まった時間が動き始める予感が提示される。

 

 

 二人にとってトンネルが、時間的なずれと二人のずれを生み出すものだったのに対して、駅は時間の補正先でもあり、二人の囚われからの解放の地でもある。一つには、二人が出会った地であるし、もう一つに二人がこの香崎を去る出発地点となる。二人の物語はまだまだ続くだろうし、その一編が原作者書下ろし入場者特典小説(『さよならのあと、いつもへの入り口』)に描かれる。二人のその後は、出口を抜けた二人の物語として、誰もがあずかり知らぬところで編まれていく。

*1:独占インタビュー「ラノベの素」 八目迷先生『夏へのトンネル、さよならの出口』 - ラノベニュースオンライン (ln-news.com)

*2:『夏へのトンネル、さよならの出口』パンフレット 田口智久監督インタビューより

「あのシーンは印象的に見せたかったですし、演出的にもピークになったと思います」

*3:同上