【アニメ考察】世界を肯定するのは「私」―『四畳半神話大系』

©四畳半主義者の会

 

●原作
原作:森見登美彦太田出版 角川文庫刊)

●スタッフ
監督:湯浅政明/シリーズ構成:上田誠/脚本:上田誠/キャラクター原案:中村佑介/キャラクターデザイン・総作画監督:伊東伸高/美術監督:上原伸一/色彩設計:辻田邦夫/音響監督:木村絵理子/音楽:大島ミチル

アニメーション制作 - マッドハウス

●キャラクター&キャスト
「私」:浅沼晋太郎/明石さん:坂本真綾/小津:吉野裕行/樋口さん:藤原啓治/城ヶ崎先輩:諏訪部順一/羽貫さん:甲斐田裕子

公式サイト:四畳半神話大系 (noitamina.tv)

 

 

※この考察はネタバレを含みます。

 

 

四畳半神話大系』の位置づけ

 2022年、『犬王』を公開した湯浅政明監督が、2010年に世に放った作品。森見登美彦の同名小説を原作に、映像化困難と言われる著者の作品を、初めてアニメ化した作品でもある。

 9月30日から公開予定の、同著者の『四畳半タイムマシンブルース』がを機に、先日テレビで再放送された。今回の再放送には、テレビ放送未公開のDVD映像特典も含まれる。このブログでは、そのような『四畳半神話大系』を見ていきたい。

 『四畳半神話大系』では、原作のストーリーをアニメに右から左へ移し替えた作品には留まらない。原作が持つ雰囲気を、原作小説からアニメへと、的確に翻訳された作品だった。主人公である私の一人称語りで進む原作小説に対して、語りを声優の演技の形で取り入れながら、語りのニュアンスや行間の事実をうまく掬い取り、再構成して、アニメ版が完成している。

 本ブログでは、可能世界から主人公が現実を肯定した過程をどのように表現しているか確認すると同時に、可能世界自体の存在をアニメの中だけに押し込んでしまう傾向をどのように回避しているのかを見ていきたい。そしてそのどちらの要素も、原作に含まれており、その原作の丁寧な解釈に成り立っていることを指摘して、本ブログの締めとしたい。

 

世界の肯定の軽く楽しい導出

どの世界を肯定するのか

 『四畳半神話大系』は、主人公「私」を中心とする個性的な登場人物たちが、「私」のサークル選びを契機として、あり得る世界で活躍する姿が描かれる。あり得る世界=可能世界で、それぞれに異なった生活を送ることになる。八話を通して、どのサークル(弟子入り含む)を選択しても、「私」は、理想の「バラ色のキャンパスライフ」を歩めなかった。十話では、「四畳半信者」となり、「サークル選択をしない」という選択を実行し、四畳半に引きこもる。引きこもったまま、四畳半が永遠に続く世界に閉じ込められ、限界に達した彼は自分が生きる現在の世界が肯定できる世界だと気づく。

 そして、通じ合いながらも、一方的に嫌悪する小津を親友と認め、常にぶら下がり、好機とだった「もちぐま」を手に、明石さんとの恋を成就させる。

 彼は、自分が住む世界を、自らの頭で肯定し、そして自らの手でより肯定できる世界へ変えていった。

 

不毛な愚行、愚行の不毛

 本作の魅力の一つは、主人公含む登場人物たちが、不毛で愚行と言えることに、並々ならぬ熱を持って愚行に取り組んでいることが、バカバカしくもあり、愛らしくもあることだ。男女を結び赤い糸を切って回ったり、鴨川でコンパを行うサークルにロケット花火を打ち込んだり、古来より続く「自虐的代理代理…代理戦争」に基づき、陰湿ないたずら合戦を行ったりと、並みの精神では実行するどころか、到底、実行を考え付くことすら叶わないことを巻き起こす。

 また、『四畳半神話大系』では、フィクションにおいて可能世界が担いがちな重々しさが、欠けている。シリアスよりも、前述したように、ばかばかしさに溢れており、軽さを伴っている。世界を肯定するのに、シリアスな展開も必要なく、都度の現実それぞれが最善であることを提示している。「シリアスさでもって現実肯定を迫る」のではないところに、肩ひじ張らず気楽に一つの価値観を受け取めることができる。それゆえに、単純におもしろい。

 そして、次章の「他人ごとの回避」へも繋がっていく。

 

語りの奔流 声優の演技

早口と超長いセリフ

 アニメ版の重要な要素の一つに、語りの要素がある。語り手の「私」はもちろん、会話の形で、怒涛の勢いで主張する各登場人物たちがいる。原作小説の雰囲気をそのままに写し取りながら、原作小説では読解に開かれた語りが、声優の演技という物理的な、もっと言えば音声的な重みをもって、立ち現れる。

 確かな重みをもって現れるが、重みとは形式の話である。内容のシリアスさで言えば、原作そのままの軽妙さを保持している。語りは、現在進行形で進む物語の案内人として機能している。案内するのは、物語や設定のみならず、主人公の内面も含まれる。本作では、主人公が後悔を何度もやり直すという物語の内容上、主人公の思いは切実なものであり、自然と重みをもってしまいそうだ。が、本作では原作からの「軽さ」を受け継ぎながら、最終的な気づきである「現在の肯定」すらも、毎話軽やかに通りすぎた集積が、最終話に自ずから明らかにされる。明示されるのは、「私」と視聴者である私たちに対してである。

 

独語の爆発的表出

 軽さと合わせて、語りにかかる怒涛の勢いが感じられる。「私」は冒頭のナレーションを中心にして、まくしたてるように、語りを生み出す。彼の言葉に対して、それぞれの登場人物たちが、思い思いのリズムで、返答をする。

 原作では、文字のみから推測されたリズムが、アニメ版の中では、空白を目印に、リズム自体を推測し鑑賞者が構成せずに、楽しむことができる。

 ナレーションでは、彼一人の早口、せっかちなリズムしか存在しない。早口の演説のように、一方的である。会話ではそうはいかない。各登場人物たちとの会話があることで、彼の行き過ぎた思考にストップがかかったり、横道に逸れたり、逆方向に反転させられたり、彼だけでは到達しえなかった地点に到達している。

 ナレーションでは、「私」の感情というよりも、彼の価値観・考えが、爆発的に現れ出ている。ナレーションでの彼の会話は早口で、およそ人のため、聞かせるためと言い難いが、早口のリズムとその内容も他の登場人物たちは破壊する。そのまま突っ走れば、極端に陥っていたところを、周囲の人間たちとの会話や四畳半の可能世界を経ることで、彼の考えも変えられる。

 

イメージの奔流

 また、原作が持つ軽やかさは、主人公たちが語る内容そのものは、原作から直結するものである。その要素は、語りの中・あるいは語り方に限定されない。その点は作画にも見られる。

 本作の背景および作画には、もちろんリアリティを求めた表現も見られる。それとは対照的な、幾何学的な背景、膨張し変形する人物たちの姿が、アニメ的イメージとして描かれる。アニメ的イメージの利用だけではなく、パースが破壊された背景、色のみで人物や背景が分割されるものなど、おもしろい表現が見られる。

 このような作画は、原作小説が持っている自由さをアニメ版に再構成する形で、翻訳しており、また一人称で進む原作が持っている主人公の視点・イメージを表現するようで興味深い。

 

 本作が可能世界の中から現在を肯定する物語を、語りとイメージを媒介することによって、映像にうまく落とし込んでいる。そこには、原作そのままの軽やかさと、そこから生まれるばかばかしさが成立している。物語にとって、主人公が、九回の選択と一回の不選択により到達した可能世界を経験することによって、現実世界に価値を見出す、価値を生み出すことは重要な要素である。次に、このことが「私」にとって、切実であるのと同様に、私たちにも意味あることとして、受け止められる仕方を見ていく。

 

他人ごとの回避

現実とアニメ

 本作における物語上の肝は、可能世界による現実世界の肯定を「私」に信じさせ、かつ「私たち」に信じさせることだ。要するに、主人公の改心に説得力を持たせることだ。原作では、突飛な物語であれども、あくまでも現実の大学生という設定に即した形で描かれる。そして何より私たちが、活字から想起するのは、現実世界の像で想像をしている。

 しかし、アニメになると話が変わる。原作小説であれば、自前の想像力と経験から現実的=実写的なイメージを結ぶのに対して、アニメだと視覚的及び聴覚的イメージが準備されており、そのイメージを受け取ることになる。そのため、本作の設定である複数世界が、いわゆるループものではなく、可能世界(=並行世界)であるからには、その特殊性を本作(アニメ版)の世界のみに帰属させてしまう。だが、もし本作の世界で可能世界があり得ると思うなら、私たちの世界でも同様にあり得ると認めなければ、筋が通らない。というのも、本作において、第一に、明示的に可能世界への移行方法が明示されていない、かつ私たちの世界でもあり得る世界を想像することができるためであり、第二に、本作の物語を可能世界ではなく、タイムリープものと仮定しても、時間の巻き戻り方法の描写がない及び明示的な記憶の引継ぎがない、初期位置すなわちサークル選択する前の状態が各話数で同一とされているため、可能世界(=並行世界)と同様に考えても大した差異がないためである。最も避けなければならないのは、『四畳半神話大系』の世界では可能世界があり得るが、現実世界では絶対的にありえないと想定して、「私」の世界肯定の射程もアニメ内に限定させるよう仕向けてしまうことだ。つまり「私」は「私」の世界を肯定できるが、「私にはできない」と決めつけてしまうことだ。

 イメージを提供することで、現実と切り離してしまいがちなところで、アニメ版は映像的な工夫を加えることによって、アニメと現実の切り離しを阻止し、可能世界への信を生むことに挑戦している。そのキーポイントは「違和感」である。

 

映像手段

実写の利用

 アニメの中の実写映像は違和感を生む。アニメであるから、絵が主体になるのだが、そこに突如として実写の景色・部屋の様子が映りこむ。『四畳半神話大系』の中に、馴染むように加工されているが、それでもアニメと実写の溝は大きい。前述したように、アニメ自体の作画は、自由自在に線が運動する作画が完成され、動きが印象的だ。それに対して、実写は動きがあるとしても、本来的にある枠内でしか動かせない。それゆえに、単に実写とアニメの見た目の違いの他に、枠を感じさせるかさせないかの違いがある。

 以上の実写とアニメの違いから、実写はアニメ世界における異世界として機能する。それは、実写においてファンタジー世界が異世界と感じられるように、アニメ世界でも実写の世界は別世界に見える。別世界が入り混じった本作は、単にアニメと現実とで截然と分割することができなくなる。それゆえに、アニメと現実の境界線が薄くなる。より正確には、アニメが実写を含んでいるのだから、アニメと現実の境界線を自然と跨いで考えられるようになる。

 

色の要素:ビビッドカラー

 本作では、鮮明な色を多用する。現実世界にももちろん、同様の色は存在するけれども、割合高くはない。他の要素特に、実写・イメージの活用の要素と相まって、違和感を生む。違和感を生む現実と異なる色遣いは、現実とは切り離された世界を予感させる。それゆえに、通常のアニメ部分・実写の部分、ビビッドな彩色が使われがちなアニメイメージの部分が分かれる。一つの世界として統一されない感覚である。

 この三部分に分かれ、統一されていないことから、前述境界線を跨ぐ作用を後押ししている。

 

 色に関しては、アニメ世界内の世界観を統一させず、イメージの主人公の解釈を表現して、同時に実写映像を挟むことで、アニメ外への越境を容易にさせる。そのことで、アニメだけに可能性を閉じ込めない作りになっている。

 

四畳半から四畳半の外へ

 以上で、アニメ『四畳半神話大系』について、二点記載してきた。第一に、「私」が世界を肯定する様をシリアスにではなく、軽さを持って行う原作の特徴をどのようにアニメで表現していたか。第二に、「私」が世界を肯定するのはいいが、その肯定をアニメ世界だけのものとせずに、視聴者が受け止めるために、どのような工夫がなされていたか。

 前者については、声優の演技と作画の観点から、後者については、実写映像の挿入と色使いから、解答をした。

 

 

 「私」が現在を肯定するために、可能世界というギミックが必要だったように、私たちにとっても、現在を肯定すべき、あるいは肯定してもよいと思うためには、ギミックが必要であることは同じである。『四畳半神話大系』自体が、他の映像作品や芸術、哲学・人生観などを含むギミック全体の一員となっている。その中でも、ウィットと軽さに富み、あるがままの世界を肯定できる本作に出会えた幸運を噛みしめたい。