【アニメ考察】内気な少年の大冒険ー『陽なたのアオシグレ』

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約20分の短編中で、少年と少女が出会い、そして別れを経験する。少年は少女とのすれ違いをきっかけに成長を遂げる。以上のような盛りだくさんのストーリーが展開される。盛り込み具合は、ストーリーに限らない。リアルな学校や少年のカオスな内面世界、様々な場面が差し込まれる。

 内容を見ていくと、速度だけではない子どもの成長が描かれているので、以下で見ていきたい。

 

 

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●スタッフ
監督・脚本:石田祐康/キャラクターデザイン・作画監督・原案協力:新井陽次郎/原画・動画・作画管理:間崎渓/色彩設計・色指定検査:のぼりはるこ(緋和)/音楽:市川淳/音響監督・音響プロデュース:岩浪美和/音響効果:小山恭正サウンドミキサー:山口貴之

制作会社:スタジオコロリド

●キャラクター&キャスト
ヒナタ:伊波杏樹/シグレ:早見沙織

公式サイト:「陽なたのアオシグレ」公式サイト (shashinkan-aoshigure.com)
公式Twitterスタジオコロリド (@studiocolorido) / Twitter

 

 

※この考察はネタバレを含みます。

 

 

あらすじ

内気な小学4年生(ヒナタ)は、クラスで人気者の女の子(シグレ)
のこどが大好きな男の子。で、シグレど話をするこども出来ない
ヒナタは、彼女のこどを思い描きながら妄想する日々を送っていた。
そんなある日、突然シグレが転校してしまうこどに~。悲しみに暮
れるヒナタ、クラスメイトに見送られ去っていくシグレ。「僕はング
レちゃんに想いを伝えるんた!」決心したヒナタは走り出す。石田
祐康が贈る渾身のアクンヨンシーンが満載の、疾走感あふれる胸
キュンストーリー。

元URL:「陽なたのアオシグレ」公式サイト (shashinkan-aoshigure.com)

 

内気な少年と少女

 本作の主人公陽向は絵が好きで想像にふける内気な少年である。彼は同じクラスの少女時雨に恋をしている。想いは募るが、行動に移せない彼は、彼女との楽しい日々を想像する。時雨は学校のインコの世話をしている鳥好きの少女である。陽向が描いた鳥の絵をきっかけに2人は話始める。それから時雨の転校をきっかけに、彼らは別れることになる。

 主人公の陽向は前述したように内気な少年である。思い人の時雨に話しかけることも近づくこともできなかった。時雨から絵を褒められた際も、返答に窮して、思わずその場から逃げてしまう。彼の内気さは外界への態度と共に、彼の内面世界へ沈潜する様子からも伺える。彼の原風景は彼の好きなもので溢れた植物園だ。そこで好きなものに囲まれ、彼は現実では見せないような、楽し気で積極的な様子を見せる。

 彼は想像の世界に潜り、現実で絵を描くことで、その世界を表現しようとする。彼の自己表現は言葉でも振る舞いでもなく、絵である。そのような彼の自己表現たる絵を通じて、二人の仲が深まったのは印象的だ。というのも、想像世界の表現たる絵が時雨という外界との架け橋となっているからだ。

 絵と想像に耽っていた陽向は時雨という外界との接触により成長を遂げる。彼の変化を縁取る演出として三つ注目したい。第一に、想像の世界で絵を植物園に置いてくるというシーンの演出だ。第二に、告白を思い留まり「元気でね」とだけ告げるシーンの演出、最後に想像と現実が混ざり合うような演出だ。

 

内と外

 彼の内気な様子と時雨との関係を映像で表現するために、上手く遮蔽物が用いられている。遮蔽物によって、内と外が視覚化される。彼が時雨を鳥小屋で見たとき、観客は鳥小屋の金網越しに時雨がインコの世話をしているのに気づく。逆に今度は、鳥小屋の内側から時雨を介して、陽向の様子が金網越しに映る。まだ話したことのない段階では、お互いに鳥小屋の金網越しにしか見えない状態である。金網を間に、彼らは内と外に分断されている。

 次のシーンでは、陽向と時雨が話すきっかけとなる重要なシーンである。このシーンでは、屋上に設置してある落下防止の手すりが、遮蔽として機能している。

 教室内で、陽向が時雨に絵を褒められて、クラスの注目に耐えられず、屋上へ逃げ出してしまう。時雨は陽向の想像上の植物園へ入り込んだのと並行して、静かに屋上の扉を開け、彼の元へ進む。彼女が扉を開け歩きはじめる。すると、カットが切り変わり、二人が手すり越しに映る。この段階に至って、彼らは同じ遮蔽の中という場を共有することができる。そして後続のカットでは、陽向の中で現実と想像が入り混じりながら、遮蔽の内側で彼女と言葉を交わす。陽向に手を差し伸べながら、インコの世話に誘う時雨が陽向には、彼の想像の世界で美化された姿で映っている。

 その後に、彼らは二人で鳥小屋にいるインコの世話をする。

場面が変わるのは、冒頭と同様に、陽向が鳥小屋の外から、内にいる時雨を見つけた時だ。彼女が鳥小屋の内側で泣いているにもかかわらず、彼は鳥小屋の外から彼女を眺めることしかできない。

 彼は彼女の転校を聞いて、一人鳥小屋に入る。現実に鳥小屋で佇みながら、想像世界の植物園から彼女が去っていく様子が流れる。彼が入った鳥小屋の中には、もう彼女はいない。

 以上、前半部、陽向と時雨の出会いのきっかけと転校による心のすれ違いまでを記述してきた。この記述では、特に遮蔽物を上手く利用した演出に言及している。遮蔽物により、内と外に空間を分割できる。そして、その分割を利用して、空間的な内と外を視覚的に表現することができる。本作では分割の効果を利用して、陽向と時雨の心の距離を表現している。

 鳥小屋の内と外で見るだけの2人から、屋上で2人きりの場を共有する中で、彼らは次第に話し始める。鳥小屋の内を共有したが、時雨の転校に関して、2人にすれ違いが生じて、鳥小屋の外と内で分断されるようになってしまった。

 遮蔽物を用いた演出から、陽向が外界とのかかわりを作り出すのを丁寧に描いている。

 

想像と現実

 本作の陽向はもちろん、すべての人間が何らかの想像をしていると言っても過言ではないだろう。本作の主人公である陽向は一際逞しく想像の世界に耽溺している。彼の世界は大方が想像の世界で占められ、想像の世界を中心に生きている。

 この想像の多さにフィクション特有の演出が存在すると考える向きもあるだろう。要するに、演出の要請による設定に過ぎず、現実的ではないという見方だ。しかし、私はこの点は、むしろ想像に耽溺する様が、大人の子ども像に単純に当てはめるのではない仕方で、等身大の子どもを一例として捉えた姿なのではないかと思う。ここでは、思春期の少年をリアルに解釈し、アニメーション作品として表現したものとして本作を読み解いていきたい。

 まずはこの作品で陽向の想像の世界を見るシーンの特徴を掴む。

 陽向が持つ想像の世界は絵と時雨を中心にして、鳥やおもちゃなど彼の好きなものを基調に成立している。そのため、想像の世界では彼の興味のあるもので構成されていると言える。裏を返せば、関心が向いてないもの、彼が知らないことは想像の世界から排除されている。

 彼における現実と想像の関係性は、物語が進むにつれ変容する。前半部では、想像が現実とは関係のない妄想に近いものであるか、あるいは現実の出来事に起因して、現実への影響なく想像の世界で変化が起きるといった風に描かれている。前者は、話したことのない時雨と楽しく話す様子が想像では見え、後者では、時雨と関わり、彼の心情と連動するように花が咲く。

 後半部すなわち、陽向が植物園に絵を置いて、時雨を追いかけていくシーンから、現実と想像がリンクしていく。一方で、現実には、彼はタクシーを走って追いかけているが、他方、想像では、彼は白鳥の背に乗って、疾走する電車を追いかける。想像の世界では、追っている電車が飛翔するなど、現実ではありえない状況が巻き起こる。

 現実ではありえないのだが、それは彼の切迫した思い、急いで彼女を追いかけている状況から生まれている。他にも、彼が力尽きそうになったとき、彼に再度力を与えるのは、彼が置き去りにしてきた絵だ。その絵には、陽向が時雨を好きな感情が込められた、いわば彼のための作品だ。彼の積み重なった感情が時雨を追いかける力を彼に与える。現実から想像へ想像から現実へと結びつきが生まれている。

 

3つの演出

 「遮蔽物を利用した内と外の使い分け」と「想像の世界を用いた表現」、二つの表現によって、陽向が時雨という他者との関わり合いを通じて、外界とのつながりを作っていく様子が分かる。この成長を強く印象付けるのは、前述した三つの演出だ。すなわち、絵を植物園に置いてくるというシーンの演出、第二に、告白を思い留まり「元気でね」とだけ告げるシーンの演出、最後に、想像と現実が混ざり合うような演出の三つだ。

 最初に、彼は絵を想像世界植物園に置いて、転校する時雨を追いかけていく。時雨を追う決意が絵を置いていく行為に現れている。それまで、彼が絵を描くのは、自分のためだけだった。それゆえに、彼は他者の評価を恥じ、受け入れられない。しかし、彼はそのような絵を想像の世界にある植物園に置いていく。彼が自分のためだけの表現を表現として捨てた(そっと心にしまっておいた)と解釈できる。ただし、自分のためだけに描く独りよがりな表現をやめたというだけだ。というのも、その後に、彼は自分の描いた絵を時雨にプレゼントしているからだ。

 次に、時雨に駅で追いつき、彼は絵をプレゼントする。続けて、彼は想像の世界で告白しようとするが、はにかんで伝えられず、現実に戻り、笑顔で「元気でね」と時雨に言っている。なぜ彼は告白しなかったのだろうか。

 想像の世界は彼が望むがままの世界だ。その世界は彼の欲望に基づいて成立している。自分のためだけに表現するとは、自分の欲望にのみに仕えることを意味する。しかし、陽向の前に立つ彼女はそのような彼の世界の一員ではない。彼女も同様に彼と同じような世界を持った一人の人間である。

 彼女との関わりを通じて、他者を無視した表現では通じ合うことができないと、陽向は彼女とのすれ違いから悟った。自分のためではなく、彼女のために言える言葉を模索して、「元気でね」と発することができた。

 最後に、注目する演出の三つ目である。本作から、想像と現実のどちらか一辺倒ではなく、両者の領域が相互に浸透しあっているという見方が提示されている。想像の世界に耽っていた陽向が時雨に恋をして、想像の世界から現実の世界へ向かっていく成長の過程を描いている。現実の中に時雨を見出したために、告白ではなく、「元気でね」というにとどめた彼の様子は先述した通りである。

 本作から見出せるのは、陽向の現実への回帰と共に、陽向が現実に想像的要素を見出している点だ。それは、現実に車を走って追いかけ、想像では鳥に乗り電車を追いかけるシーンであり、特にそのことが強く印象付けられるのは、陽向が別れを言った後、時雨を乗せた電車が走り去るラストシーンにある。ラストシーンでは、時雨を乗せて走り去る電車を陽向が追いかける。陽向が転んで後に、カメラに映るのは、真っ直ぐに続く線路とそこを走る電車である。彼が起き上がり、涙を拭って見た光景は、鳥が上空を飛び、空に向かって伸びる線路に沿って電車が走り去っていく様子である。

 ここでは、彼が見て、感じた風景が強く反映されている。いわば過去の彼が、現実と遮断された想像の世界で生きていたのに対して、この電車のイメージは現実を想像的に生きている。成長した彼は想像の世界に閉じこもるのでもなく、想像の世界を捨て去るのでもない。現実を生きながらも、現実の風景を想像的なものとして知覚している。

 彼の成長とはこのことだ。外界との関係を開きながらも、想像の世界を幼稚なものと切って捨てず、現実を受け入れつつ、彼独自の仕方で認識できるようになったことだ。

 

 

 以上で、内気な陽向が思い人の時雨と関わりで、成長を遂げる様子を見てきた。上記してきたように、子どもの観点から成長を見ることができるともに、本作の上映時間から、陽向が急激に成長する様子は子を見守る親の観点から見ることができる。二種の観点から見ることができる作品だった。