【アニメ考察】 日常にある多様な恋愛劇ー『どうにかなる日々』

©志村貴子太田出版・「どうにかなる日々」製作委員会

 

4編から成る恋愛をテーマとした短編集である。舞台・設定など全く異なった4つの物語が展開される。変わった恋愛物語と日常の描写が本作の魅力である。

 

 

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●スタッフ
原作:志村貴子/監督:佐藤卓哉/演出:有冨興二/脚本:佐藤卓哉・井出安軌・冨田頼子/キャラクターデザイン:佐川遥/色彩設計:仲村祐栄/美術コンセプト:伊藤豊/美術監督:齋藤幸洋/撮影:高津純平/編集:長谷川舞/音楽:クリープハイプ

アニメーション制作:ライデンフィルム京都スタジオ/配給:ポニーキャニオン

●キャラクター&キャスト
えっちゃん:花澤香菜/あやさん:小松未可子/澤先生:櫻井孝宏/矢ヶ崎くん:山下誠一郎/しんちゃん:木戸衣吹みかちゃん石原夏織/小夜子:ファイルーズあい/百合:早見沙織/田辺くん:島﨑信長/ヨリコさん:田村睦心/しんちゃん父:天﨑滉平/しんちゃん母:白石涼子

公式サイト:「どうにかなる日々」アニメ公式サイト (dounikanaruhibi.com)
公式Twitter「どうにかなる日々」アニメ公式【3月17日(水)Blu-ray&DVD発売】 (@dounika_anime) / Twitter

 

 

※この考察はネタバレを含みます。

 

 

多種多様な恋愛

©志村貴子太田出版・「どうにかなる日々」製作委員会

 

 フィクション作品では、特に現実離れしたドラマ性の高いタイプの恋愛が多い。お互いの境遇や時や運命によって引き裂かれた2人の恋愛、あるいはキャラクター的なかわいさ・かっこよさを追求した恋愛、などなど例を挙げればきりがない。そういった意味では、フィクション作品の恋愛は現実とは異なる恋愛体験と言えそうだ。

 本作に目を向けてみると、登場人物たちが繰り広げる恋愛模様は少し変わったものだ。しかも、その変わり具合は独特なものである。本作の中では、劇的な展開、いわゆるドラマチックな展開は存在しない。現実離れしたドラマチックな展開はないが、ただ平凡であるわけではない。

 劇的な展開とは、理想の展開と考えると、優劣という意味で上下のイメージを伴っている。それに対して、本作でいう「ずれ」は多様性という意味で横への広がりを持っている。登場時人物たちが暮らす世界を淡いタッチで描き出し、その世界をバックに、彼らのずれた恋愛模様を温かに見守る、そんなことを可能にしてくれるのがこの作品の魅力である。

 

 本作で、女性同士の恋愛、男子校の男性教師と生徒の恋愛、幼馴染と従姉を含む三角関係の恋愛模様を覗き見ることになる。第一の物語では、お互いに元恋人の結婚式で出会った二人がワンナイトのノリでなし崩し的に恋愛関係に至る物語だ。今でこそアニメーションの世界でも、レズビアン・百合物語は作品が見られるが、珍しいものである。これが エピソード1「えっちゃんとあやさん」のえっちゃんとあやさんの物語だ。

 第二の物語は、恋物語とは呼べないかもしれない。表立って現れる恋愛要素が、卒業式後に生徒の矢ヶ崎くんが澤先生に告白する序盤のシーンとそれを思い返す先生の描写シーンだけだからだ。この作品に底流するのは、恋する少女の心情、すなわち澤先生が抱える乙女な心情である。これこそが、エピソード2「澤先生と矢ヶ崎くん」に独特な風味付けを行う。

 第三の物語では、登場人物が同一のエピソード3「えっちゃんとあやさん」とエピソード4「みかちゃんとしんちゃん」で構成されている。両エピソードは、三角関係の2人が幼馴染と従姉ということと従姉がAVに出演していることが特異な三角関係の恋愛劇を生み出している。エピソード3では、小学生で、恋人のしんちゃんとみかちゃんの間に、従姉の小夜子は位置している。エピソード4では、いないはずの小夜子の影を2人は引きずっている。彼女の存在が彼らの関係に影響を与え、この物語に独特な雰囲気を作り出している。

 本作の魅力の一つが上記したような、少しずれた恋愛模様を劇的にではなく、静的であり、モチーフとして性的な側面を描き出しているところにある。また、議論が紛糾しそうな性的話題にも、価値観を押し付けるような要素はないし、異なる価値観を持つ者が感覚的に許容可能な範囲でずれが描かれている。恋愛にまつわる限り、性の問題から無関係でいることはできない。本作では、ずれを過剰に意識することをしない、逆に過剰に普通に合わせることをしない、絶妙に二つのバランスを図った作品と言える。

 

不在者による影響

©志村貴子太田出版・「どうにかなる日々」製作委員会

 

 それぞれのエピソードで登場人物たちは思い思いの恋愛を繰り広げる。もちろん、恋愛物語であるので、相手が存在する。恋愛とは、二者以上の関係性を言うからだ。ただ、本作では、二者とは別に不在の人物にもスポットライトが当たっている。「不在の人物にスポットライト」は一行で矛盾を孕んでいる。正確には、映像ではフォーカスが常時当たっていないが、主要人物たちに影響を与えている人物のことを言いたい。

 エピソード1「えっちゃんとあやさん」の2人にとっての百合、エピソード2「澤先生と矢ヶ崎くん」の澤先生にとっての矢ヶ崎くん、エピソード3「しんちゃんと小夜子」の二人にとってのみかちゃん、エピソード4「みかちゃんとしんちゃん」の二人にとっての小夜子である。

 不在者が与えている影響は、エピソード1では二人の仲を取り持つ役割を果たし、エピソード2では澤先生と担任する卒業生を繋ぐ。エピソード3では小夜子がしんちゃんにちょっかいをかけるきっかけとなり、エピソード4では二人の仲を拗らせ、前進させるきっかけとなる。

 あくまでもその人がいないことによって、物語が進展している。その人物が現れない、あるいは現れても脇役として登場するにもかかわらず、彼らは登場人物たちに大きな影響を与える。そのため、影響を与えるに値する強度で、不在者の姿を現さない形で表現する必要がある。

 それが電話や郵送やシチュエーションの形をとって効果的に表現されている。例えば、エピソード1「えっちゃんとあやさん」では、百合からえっちゃんへ結婚式参加確認の電話があったり、結婚式の招待状がえっちゃんに届く。また、同じ電話の利用は、エピソード4「みかちゃんとしんちゃん」でも見られる。エピソード4「みかちゃんとしんちゃん」では、小夜子の結婚連絡が電話でなされる。しんちゃんは電話を受けた母伝いに連絡を聞く。また、エピソード2では、教師の澤先生と卒業生の矢ヶ崎くんは、卒業後に出会うことはない。それゆえ、澤先生の中では、矢ヶ崎くんは心に残り続ける。

 誰かの不在が誰かの出会いや関係性の進展に繋がっている。そのような当たり前だが、不在という形をとるがゆえに、注目されない事象に光が当てられている。

 

淡さと取っ付き易さ

©志村貴子太田出版・「どうにかなる日々」製作委員会

 

 彼らの物語を彩るのは、淡い背景である。淡い背景は水彩のような塗り方に現れ出ると共に、特徴的な遠近法から生じている。前述した淡い語り口と相まって、作品の雰囲気を作り出している。以下淡い背景について簡単に解説する。

 本作の淡い背景が生まれるのは、空気遠近法によって、濃淡がはっきりと描き分けられているからだ。空気遠近法とは、その名の通り、遠近法の一種である。私たちがものを見る際、近くのものは鮮明に見えて、遠くのものはぼやけて見える。このメカニズムを活用して、二次元の平面に遠近感を作り出す。

 空気遠近法を生む原理は、空気中に含まれる水蒸気に光が反射する程度から説明される。遠くのものは反射回数が多いために、相対的にぼやけて見える。逆に、近いところは相対的に鮮明に見える。

 

 空気遠近法が、空気中に含まれる水蒸気に光が反射することよって、遠景がぼやけて見える現象を利用していることは、前述したとおりだ。

 本作では、少しずれた恋愛を描いている。そのずれた恋愛を、アニメという媒体を経由しつつ、マイルドになった状態で観客は視聴している。ほんわかした本作のようなアニメーションの枠組みを通ることによって、ずれの性質を穏やかにしている。

 平面に遠近はない。マイルドにされたものから、私たちはある意味遠近感を得ている。ここから私たちが摂取しているのは、過度な生々しさのないずれである。性が一連のテーマになっていながらも、性行為自体の描写や登場人物が持つ性的価値観が全面的に出てこない。性のテーマが視聴者の欲望に奉仕せず、ただ淡々とリアリティを持って描かれている。ここにおいて、本作の特徴が浮かび上がってくる。すなわち、劇的ではない現実的な設定と映像を土台として、通常から逸脱した恋愛を描くこと、そこに恋愛と結びついた性のテーマを組み込むこと、これである。

 ありそうな話だが、そこから過度な物語性へ解消しない演出によって、ずれのある恋愛を現実に確かに存在するものとして、違和感なく定位できる。一般的な恋愛物語へ解消しないからといって、そのずれそのものに焦点を当てて、過度な演出を行うわけでもない。それによって、ずれそのものを楽しむ享楽的な態度よりも、むしろずれを画面外の現実にも存在するものとして受け止めることができる。現実的に描かれた現実からのずれは、普通という枠組みでの遠近感を意識させる。意識して初めて、そこにある存在を認めることが可能になる。この態度こそ、ここではずれと呼んできた多様性を尊重する態度と言える。

 

どうにかなる日々

©志村貴子太田出版・「どうにかなる日々」製作委員会

 

 以上で見てきたように、本作は各ストーリーで大団円のハッピーエンドが描かれるわけではない。そして、彼らそれぞれにとって、不在の人物が少なからず作り上げた現在を生きている。彼らの姿を見ていて、晴れやかな気持ちになる。私たちの生は劇的な幸運や物語的な挫折や悲しみがなくても、生きるに値する人生だ。どんな毎日も、「どうにかなる日々 Happy Go Lucky Days」なのだから。