【アニメ考察】恋のエトランゼたちのカタルシスー『海辺のエトランゼ』

©紀伊カンナ / 祥伝社・海辺のエトランゼ製作委員会

 

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●原作
原作:紀伊カンナ 「海辺のエトランゼ」(祥伝社on BLUE comics)

●スタッフ
監督・脚本・コンテ:大橋明代/キャラクターデザイン・監修:紀伊カンナ/総作画監督渡辺真由美/エフェクト作画監督橋本敬史美術監督:空閑由美子(STUDIOじゃっく)/色彩設計:柳澤久美子/撮影監督:美濃部朋子/編集:坂本雅紀(森田編集室)/音楽:窪田ミナ/音楽制作:松竹音楽出版/音響監督:藤田亜紀子/音響効果:森川永子/録音調整:林淑恭/音響制作:HALF H・P STUDIO

アニメーション制作:スタジオ雲雀/配給:松竹ODS事業室/製作:海辺のエトランゼ製作委員会

●キャラクター&キャスト
橋本駿:村田太志/知花実央:松岡禎丞/桜子:嶋村侑/絵理:伊藤かな恵/鈴
仲谷明香/おばちゃん:佐藤はな

公式サイト:映画『海辺のエトランゼ』公式サイト (etranger-anime.com)
公式Twitter映画『海辺のエトランゼ』公式サイト (etranger-anime.com)

 

 

※この考察はネタバレを含みます。

 

 

概要

 『海辺のエトランゼ』の「エトランゼ」はフランス語で異邦人を意味する。同性愛者の駿と異性愛者の実央が、海辺のベンチを中心に、お互いに恋愛の異邦人として、出会う。原作マンガの触れ込みの通り、「心が洗われるようなボーイズラブ」である本作を、二人のトラウマが現れる息苦しさ、二人が結ばれるカタルシス、そしてその先にある広がりという流れで見ていきたい。特に、本作として、最も重要なのは、「心が洗われるような」という形容からも分かるように、恋愛の成就、それによる二人の息苦しさからの解放、すなわちカタルシスである。二人のカタルシスであると同時に、観客のカタルシスという視点も忘れずに、言及していきたい。

 

トラウマを抱える、二人のエトランゼ

 二人は、沖縄の離島で出会い、実央が沖縄本島の施設に行き、三年越しに再会して、二人の間の恋愛が成就するまでが描かれる。沖縄の見るに飽きないカラフルで雑多な様相の中で、二人は衝突しながらも、愛を育んでいく。

 二人が出会ったとき、実央は母親を亡くし、一人ぼっちになってしまっている。彼はその悲しみから吹っ切れずに、また両親を亡くしたことから、同情の目を向けて声を掛けてくる他人に対して、嫌気がさしている。彼の思いは、彼が語る言葉よりも、幼い頃の彼と彼の母親の何気ないが、幸福な日々を回想するシーンで一層強く推し量ることができる。回想を通して、彼の現在の感情が補強される。

 二人が出会ったきっかけは、そんな状態の彼に、駿から声を掛けたことから始まる。実央は、同情心や良心ではなく、ただ実央と話したい下心から話しかけたという、駿の率直で偽りない言葉に、彼に心を許し始める。駿の下心からとはいえ、ただ実央にまっすぐ向かう彼の思いは、この世界でたった一人になってしまった実央の救いとなる。

 実央に救いをもたらした駿は、自分の恋愛指向*1で、トラウマを抱えている。彼のトラウマを表す直接的なシーンは、彼が挙式の当日に、ゲイを告白して、婚約を破棄して、家を飛び出す回想シーンである。それ以外にも、回想や会話で彼の指向が否定されてきた事実が、積み重ねられる。

 二人のトラウマは、駿の告白とその後本島の施設から三年の月日を経て、駿の元に実央が駿の告白を受け入れて帰ってくることで、第一段階的に解消される。

 

路地による焦点化

 彼らが生きる息苦しさは、彼らの語りを中心とする物語と並行して、彼らの思いを代弁するように、映像が物語っている。PVでも見られる印象的な場所が、海辺に面したベンチである。海辺に向かうベンチに一人で座りこむ実央とその様子を見る駿。昼間に声を掛けるも、「気持ち悪い」と一蹴されてしまう。別日に駿は路地から実央を見つける。消失点に向かって路地の塀が狭まる中、その果てにベンチに座り、街灯に仄明るく照らされた実央の後ろ姿に、駿の視線は釘付けにされる。それを見て、駿は実央に声を掛け、駿がお店の余り物を実央が受け取り、初めて二人の間にコミュニケーションが生まれる。そうして二人の物語が開始する。

 とはいえ、路地のシーンでは、消失点に向かって狭まると書いたが、あの瞬間に駿が実央に恋に落ちたと考えるのならば、この後の駿に訪れる苦悩を暗示していると読み取ることもできる。つまり、彼自身、その恋の広がりを明確に見ることができず、近づけば近づくほどに、空間は狭まり、窮屈さは増していく。それに応じて、彼の苦悩、すなわち男を好きになることを否定された過去が彼の前に立ちはだかってくる。このように、思わず目を止めるような恋に落ちる瞬間(=視点の集約)とその恋に落ちたこと自体が、待ち受ける駿の苦悩(=段々と狭まる路地の窮屈さ)が路地のシーンで表裏一体に表現されている。

 

窮屈さを作る画面分割

 路地のシーンで駿の視線が狭められたように、二人の息苦しさは画面から表現される。第一に、柱や戸などが登場人物たちの前面に現われ、分割される画面である。先述の路地で生まれる効果と類似して、画面を分割して、人物たちが支配する空間を狭めることによって、彼らのドラマに観客の注目を集める効果がある。同時に、狭められた空間に、人物たちが配置される親密な関係性が演出される。だが、分割された画面の効果はそれだけではなく、彼らは柱や戸によって分割され狭められた空間に閉じ込められる。トラウマを、自らの内に秘めておくことしかできない彼らの現実の立場そのものが、画面に立ち現れる。彼らは、その画面内の狭い範囲で、信じる相手にのみ、自分たちの思いを伝えることができる。

 

歩きの時間

 第二に、登場人物がフレームアウトする仕方が挙げられる。画面の分割と合わせて、登場人物たちが画面外にフレームアウトしていくシーンでは、画面分割されて、狭さが強調された中から出て、カットを変えることなく、フレーム外へ歩いていく。カットを変えることなく、フレームアウトすることにより、彼らがフレームアウトしていく時間が増幅されて観客は体感する。つまり、彼らの関係性を占める分割された狭い空間とそこから開かれた広い空間を歩き出てフレームアウトする増幅された体感時間が合わさることによって、二人の空間に広がる外部の広さが強調される。逆から見れば、この広さの中から、画面を仕切り、関係性を閉ざすことによってはじめて、二人が親密な関係性を構築できる空間の狭さが強調される。こう考えると、二人が関係性を構築する場が、いかに閉ざされた窮屈な空間であり、だがそのような空間で初めて二人は親密になれたことが分かる。またそこから、狭い空間にいる彼らが、広い空間から閉ざした外圧の存在がにじみ出ている。

 

人物と背景の並列化

 画面を仕切る、フレームアウトまで時間をかけて歩かせる以外にも、画面に息苦しさを表現する。第三に、民宿や花などが平面的に塗られながら、登場人物から画面の主役を奪うかのような、画面作りである。物語の主役たる駿と実央は画面の主役であるが、二人が生活する周囲の環境に主役の座を奪われかける。二人にあからさまにピントを合わせることを避けて、背景と同列に置くことによって、バザンが言う意味

*2

での、現実が持つあいまい雑多性に重点を置く実存的映画の様相を呈する。しかし、ここで重要なのは、指摘した通り実存的映画の様相を呈するのだが、そのあいまい雑多な多様性そのものが彼らの外圧となり、彼らの存在感を希薄にするように読める点だ。すなわち、現在もそうだが、本作が公開された2020年は、多様性の肯定が叫ばれる気運の真っただ中である。本作は、沖縄を舞台にして、色とりどりの背景、多種多様で珍しい調度品・家具、美しい自然、それらの多様な環境が画面に溢れる。それゆえに、観客の視点・注意は二人を追いながらも移ろう。二人が感じる外圧とは、駿が親から同性愛を否定されたように、真正面から多様性を否定されるような、そういった外圧だけではない。そうではなく、沖縄本島のホテルで、二人が手をつないでいる様子を、別の部屋から覗き見て、こっそり笑うような外圧であり、多様性を認めながらも他の多様性とともに、一緒くたに重要視され、それゆえにその重要視そのものを無意味化させる外圧なのである。

 本作はこの外圧を味方につけ、多様性の肯定を強調することで、価値を認めさせ、物語的起伏を作る戦略ではなく、むしろ多様性の肯定そのものを強調せずに、その価値を認めさせる戦略に出る。そのことが、本作で最高潮を迎える、駿と実央が真に結ばれる夜のシーンへとつながる。どういうことか。私たちは、画面の明示的な注目点が欠けた多様性の状態から、本作にとって重要な登場人物たちの姿(見るべき対象)を必死に探す。このことは、登場人物たちに優先を置くからといって、その他の多様性を否定することにはならない。目をつぶれば、すべての多様性が見られないように、登場人物以外の多様性を削除して、二人だけを見ることができない。多様性の中から二人に画面で注目すべき価値を観客が選択し、そして自らピントを二人に合わせようとする。観客は、二人の物語をこそ画面から見出そうと努める。そして、観客が、価値を認め、必死に追ってきた彼らの恋模様が、最終的に成就することによって大きな感動の源となる。しかも、そのシーンが、彼らの肌色で画面が覆われ、画面の注目点を彼らに据えることで、彼らの存在を認め、多様性の中から彼らを追ってきた観客の努力そのものの肯定される、観客にとってのカタルシスが生まれる。この点は次章で詳説する。

 

まとめ トラウマ

 画面について、三点述べてきたところで、観客が見出そうとする二人の関係性へと話を戻そう。実央が戻ってきて、二人は両思いになったかのようだが、そうはいかない。最初に実央のことを好きになったはずの駿が、実央に対して、そっけない態度しかとらない。この態度の裏には、彼の恋愛指向・性的指向が否定されてきたことがトラウマとなっている。

 このトラウマとその解消が中心となって後半の物語は進んでいく。駿は、自分の恋愛指向・性的指向を否定されてきた過去から、実央が駿と一緒にいるために、本島から離島へと帰ってきたにもかかわらず、実央にそっけない態度を取り、異性愛者の実央に彼女を作った方がよいと助言をし、果てには、彼の元婚約者が登場してしまう。それぞれを経て、二人は真に結ばれ、二人のトラウマは解消される。次にその過程について、見ていく。

 

二人で二重の救済=カタルシス

 恋愛感情を抱くもの同士という仕方で、駿と実央は、沖縄本島で結ばれる。ただ、その後の二人の様子は、恋愛が成就した後の、幸福満点の関係性ではない。ここでは、二人の関係性の変化を二つの次元、恋愛面における親密・大切に思う次元(恋愛指向の次元)と性的対象とみる次元(性的指向の次元)に分けて考える。前節の沖縄本島で、仲直りするシーンまでが、明示的に恋愛面における親密さで満たされ、ここで言及するのは、それ以降のシーンで二人が肉体的に結ばれる性的指向の次元についてである。

 二人の恋愛が成就したシーンを、恋愛物の最頂点とするならば、本作の最頂点は、桜子が地元に帰っていった後の、二回目の仲直りシーンと考えられる。そのシーンこそが、二人の絆が、恋愛面で大切に思うという精神的な次元ではなく、お互いに性的対象という恋愛のもう一つの側面、すなわち肉体的な次元で、固く結ばれるシーンである。

 このシーンでは、今まで見てきた観客が二人の間に見出す関係性とは、おそらく逆の関係性が提示される。実央の描写は、悲しいことがあったら、すぐに涙ぐむ様子やきゃしゃな仕草が見られる。彼の部屋に無造作に散らばる私物の中に、少女マンガが目に入る。それゆえに、駿の繊細で弱々しい側面に、観客は彼を「受け」のように認識する。同時に、ぶっきらぼうな態度を採り、トラウマに悩みながらも、実央を引っ張る駿は、「攻め」のように感じる。だが、登場人物の造形の次元の「受けと攻め」は、彼らが真に結ばれる営みの前で、その造形は逆転する。

 造形の逆転には、決まりきったカップリングよりも、彼らの物語に没入させる物語設定の妙がある。特定の典型的な特徴から関係性を解釈させ、あるいはその関係性を裏切るような典型的な関係性の入れ替え、いわばテンプレとそのギャップが複雑に絡み合いながら、二人の恋路は成就を遂げるよう演出される。ぶっきらぼうだった駿の行為時に、準備してきたことを告白するいじらしい姿や、その姿を見て、本作では見たこともない真剣な表情になる実央など、関係性は固定化せずに、ぶれる。しかし、これこそが、公式サイトで記載され、本作が訴えかける「特別じゃない、ただ恋をしている」に通じるのではないだろうか。それがテンプレ的「BL」の関係性を見せるのではなく、二人、駿と実央の恋愛物語に仕上がることによって、観客は彼らが精神・肉体で、「愛しあう」姿を、感動を持って、見ることができる。

 ここに至って、駿のトラウマは晴れ、それにより実央のトラウマも晴れる。駿のトラウマは、同性愛の否定された過去だが、このことは同性への恋愛感情への否定ともっと重要なのが、同性への性的感情の否定が含まれる。前者については、実央が三年かけて、離島に戻ってきたこと、沖縄本島で、お互いの本音を話すことによって、ある程度解消された。しかし、後者の一線を越えることは重い。いくら恋愛的に大切な人物であっても、その一線を越えることは難しい。というのも、その一線を越えてもよいと思える精神的な思いやりを見せることができるかもしれないが、その行為自体に精神とは別の、肉体が反応し、さらに欲求にまでつながるかとは別のものだからだ。駿は、実央がその一線を越えることに対して、精神的に「気持ち悪い」と思うことを恐れ、それ以上にその行為に肉体的に萎えてしまうことに恐れを抱く。

 実央は、そう駿が考えており、駿が望むように、自分が求められないことにもどかしさ、そして寂しさを感じる。唯一の肉親だった母を失った彼を必要としてくれた彼は、ただ大切な存在として、最後まで駿の求めるようには求めてはもらえない。

 彼ら二人のトラウマが、二人の結びつきによって、解消する。それは二重の意味でカタルシスを二人に与える。すなわち、トラウマの解消という意味であり、かつ二人の思いの丈が行き着く性欲の解消という意味の重層的なカタルシスを迎える。二人が肌を寄せ、画面に二人の肌色が広がる画面を見て、観客は前述した多様性の中に埋没する二人ではなく、そこに真なる結びつきを遂げた二人だけを見出す。したがって、トラウマを抱えた二人が、親密になれる人物と出会い結ばれ、さらにその人物たちの物語を、狭さ・多様性に埋没させられる二人を観客が必死に追いかけてきたために、二人が結ばれるこのシーンは、観客にとってより一層感動的に映る。

 

息苦しさから広がりへ

 二人は、彼らにとって、息苦しい日々に生きながら、大切な存在に出会い、救われる。その救いは、前述した通り、「ただ恋をしている」ことによって、導かれる。窮屈な息苦しさは、その狭さが、二人の親密さへと直接に繋がっていく。ただ、本作が見せるのは、息苦しい狭さから二人の密接で親密な空間が形作られるだけではなく、それ以上に、駿と実央の物語が、ボーイズラブを題材にした物語以上の物語になっていることだ。この広がりを端的に表すのは、行為後、縁側で二人が話すシーンで、実央が、自分は女の子が好きだけれども、駿のこと好きになったと告白するシーンである。

 この告白は、重要である。この告白の意味は、実央が同性愛のケがあったというのでもないし、異性愛者だけれども、その恋愛指向の壁を覆して、同性の駿が好き、ということでもない。この告白が意味するのは、自分の直感的な感覚としては、異性が好きだが、直感以前に大切に思い、好きになった駿は、同性だったという前後関係である。それを証するように、実央は駿に、駿を好きになって、男の子を好きでもよいと優しく伝える。

 

俺、女の子が好きだよ。それでも駿のこと好きになったよ。男が好きでもおかしくないよ。

(『海辺のエトランゼ』本編 実央のセリフより)

 

ここに、男「だけれども」好き、という逆接よりも、好きになった人が男であってもおかしくないという思いに重点が置かれている。

 大切な人がいる。そしてその人を好きになる。その結果、その相手がいずれかの性別だった。ただそれだけのことのように思わされる。思えば、実央が駿に対して、好意を抱くようになった理由は、一人ぼっちになったときに好きと言われたからであった。好きと言われたから好きになった。そのこと自体は、日常多々ありうることであり、そしてそのことは同性間でも同様と本作では語り上げる。

 ここにおいて、多様性の中から、二人の物語を必死に追ってきた観客は、二人の物語から広がりをもった物語を受け取る。すなわち、性別よりも先に人がいて、そこから恋愛が生まれる可能性が提示される。「可能性」というのは、「好きと言われたから好きになる」ことに対して、違和感を覚える人がいるように、極論「相手が異性だから好きになる」ことに対して、違和感を覚える可能性を提起する。裏返せば、どちらも同程度の基準に過ぎないと、訴えかける。この訴えは、多様性に埋没させられ二人を、観客が焦点を合わせることによってはじめて、成立する。「恋愛であればどれも同じ」ではなく、「違いはありながらも結局は同じ」と差異を無視することなく、「ただ恋をしている」と理解することができる。

 したがって「心が洗われるようなボーイズラブ」である二人の恋愛にカタルシスを見出すとともに、そのような美しい恋愛模様を、美しいBLとして自らの欲のままに消費させる作品以上の、何の限定もなしの、二人が「ただ恋をしている」(だが男同士の同性愛を扱っている)、「恋」という広がりの中へといざなう作品となっている。

*1:参照 用語一覧 - 特定非営利活動法人にじいろ学校 (nijikou.com)

*2:以下を参照した。

『映画とは何か』アンドレ・バザン | 現代美術用語辞典ver.2.0 (artscape.jp)

野崎 歓『映画を信じた男-アンドレ・バザン論』 一橋大学語学研究室紀要 1995 (HERMES-IR : Research & Education Resources (hit-u.ac.jp))

アンドレ・バザン 訳野崎歓・大原宣久・谷本道昭「映画言語の進化」『映画とは何か(上)』 pp.122-134 岩波書店 2015