【アニメ考察】二つのアニメイティッドー『ギレルモ・デル・トロのピノッキオ』

ギレルモ・デル・トロピノッキオ』より

 

  youtu.be
●原作
 カルロ・コッローディ:『ピノッキオの冒険』

●スタッフ
監督:ギレルモ・デル・トロ、マーク・グスタフソン/脚本:ギレルモ・デル・トロ
パトリック・マクヘイル/原案:ギレルモ・デル・トロ、マシュー・ロビンス

●キャラクター&キャスト
ピノッキオ:グレゴリー・マン/ゼペット:デヴィッド・ブラッドリー/セバスチャン・J・クリケットユアン・マクレガー/キャンドルウィック/市長:ロン・パールマン/ヴォルペ伯爵:クリストフ・ヴァルツ/木の精霊・死の精霊:ティルダ・スウィントン

配給:Netflix

公式サイト:Netflix『ギレルモ・デル・トロのピノッキオ』11月25日(金)映画館で公開! (pinocchio-jp.com)

 

 

※この考察はネタバレを含みます。

 

 

概要

 児童文学として、発表された原作『ピノッキオの冒険』は、現代まで読み継がれ、かつ様々な媒体で翻案やリメイク形式をとって継がれてきた。この2022年に、新たな一作品として『ギレルモ・デル・トロピノッキオ』(以下『ピノッキオ』)が公開された。監督は、『パンズ・ラビリンス』のギレルモ・デル・トロが務める。『パンズ・ラビリンス』のダークで悲惨な舞台設定と少女の冒険ファンタジーは、『ピノッキオ』にも通底する。『ピノッキオ』が舞台は、ファシスト党が台頭する戦争真っただ中のイタリアである。その地で、息子を爆撃により、失った老人が、松の木で一体の人形を作り出す。老人を気の毒に思った木の精霊の計らいにより、その人形に魂が宿り、老人(ゼペット)と一体の人形(ピノッキオ)と一匹のコオロギ(クリケット)たちの波乱万丈な物語が始まる。

 本作の魅了は、何よりもストップモーションアニメとは思えないほどに、繊細かつ滑らかに登場人物たちが動く様子にある。登場人物たちの動きは、生きているかに表現される。また、そのことは、物語の筋となる、生命をもたない松の木が生命を持つピノッキオへと変容することに通じる。ここでは、本作の物語概要を簡単に紹介し、物語に現われる自律と有限な生命というテーマを扱い、最後に『ピノッキオ』におけるピノッキオとストップモーションアニメとの親和性を指摘したい。

 

ピノッキオの旅物語

 二時間という時間の中で、ピノッキオは、各地で様々な体験をする遠い旅に出る。息子として松の木に生命を宿すことで、息子を失い、悲嘆に暮れる老人に生きる意味を思い出させ、ピノッキオの旅によって、彼を追う老人に新たな冒険へと赴かせる。その冒険は、老齢のために住み慣れた土地に根付いた場所からの場所的移動、と同時に息子を失った悲しみに打ちひしがれた精神状態からの精神的移動を促す。

 ピノッキオは様々な人物と出会う。ゼペットとクリケット以外に、サーカスの団長ヴォルペ伯爵と人形遣いのサルスパッツァトゥーラ、訓練施設で指導も行う市長とその息子キャンドルウィックたちと出会う。

 ピノッキオは生命を宿して間もなく、子どものように、周囲のものに手当たり次第興味を持つ。興味の向くままに行動し、ゼペットに叱られながらも、彼を父と慕う。また、木の精霊から、ピノッキオの指導役を任じられたクリケットは、指導の見返りの願いを叶えてもらえる権利のため、ピノッキオにゼペットの息子カルロのように、行儀のよい息子になるよう言い聞かせる。それにより、ピノッキオは行儀のよい息子になろうと学校に行こうとする。しかし、ヴォルペ伯爵の介在によって、彼らの人生を大きく狂わされていくことになる。彼は、落ち目のサーカス団を復興させるべく、ピノッキオを無理やりサーカス団に勧誘する。ピノッキオがヴォルペ伯爵と結んでしまった契約の違約金を、ゼペットから肩代わりするために、ピノッキオは、ゼペットの元を離れて、ヴォルペ伯爵のサーカス団と共に、生まれた街を離れる。

 ピノッキオはサーカス団で、操り糸のなしに動く人形として、子どもたちの人気を博していく。それと同時に、講演先を求めて、サーカス団はピノッキオの故郷からどんどんと離れていく。人気の最絶頂期に、ムッソリーニの前で講演をする機会を得る。ヴォルペ伯爵が約束を違え、ピノッキオの稼ぎをゼペットへ送っていないことが判明する。ピノッキオは仕返しに、その講演で下品なショーを盛大に繰り広げ、ムッソリーニの機嫌を損ねる。その結果、ピノッキオは射殺されるも、生き返ると、彼は訓練施設へと連行されているところだった。そこでは、子どもたちが来る戦闘に向けて、軍事訓練を受けていた。お互いに仲を深めるピノッキオとキャンドルウィックは、模擬戦でお互いに同着だったため、和解の形で、模擬戦に決着をつける。市長はそれに激昂する。彼にとっては、争い、ひいては戦争は勝つか負けるかの二択しかなく、和解はありえない。彼は、息子にピノッキオを殺すよう命令するのに対して、命令に背いて二人は協力して市長を撃退する。市長撃退の安堵もつかの間、戦闘機が上空に現われ、爆撃によってピノッキオは施設から投げ出されてしまう。

 そこで、再び因縁のヴォルペ伯爵に出会ってしまう。ピノッキオはヴォルペ伯爵に十字木に縛り上げられる。しかし、改心したサルスパッツァトゥーラの助けによって、命を取り留めるも、海に投げ出される。海上で木くずに必死に掴まっていたところ、大魚に丸呑みされてしまう。大魚の中で、ピノッキオは先に丸呑みされていたゼペットと感動の再会を果たす。ピノッキオ・ゼペット・クリケット・サルスパッツァトゥーラは、嘘で伸びるピノッキオの鼻を活用して、大魚から脱出を試みる。

 アクシデントがありながらも、何とか脱出した四人だったが、大魚は彼らを諦めない。ピノッキオは、海に流れる地雷を引き込み、必死に三人を救おうとする。その過程で、彼は生き返りのルール(詳細は後述)を破り、不死性を失うことによって、すぐに生き返り、三人を大魚から救うことに成功する。

 浜辺に打ち上げられた三人は生きているが、ピノッキオは息をしておらず、また彼は不死ではなくなったため、生き返ることはない。ゼペットを思い借金の肩代わりをし、命を賭けて三人を救ったピノッキオは十分によい子となっていた。クリケットは、木の精霊からピノッキオをよい子に導く引き換えに与えられた、願いをかなえる約束を使い、ピノッキオを生き返らせる。そして、ピノッキオは三人が死ぬでもなお生き、彼らを看取る存在として生き続け、物語は静かに幕を閉じる。

 

人形の自律と生命

 ざっとここまでで、ピノッキオの冒険遍歴という形で物語を追ってきた。次に、本作のテーマを二点(自律と有限の生命)抽出して、取り上げてみたい。

 本作は、児童文学たる原作が持つ風刺の持ち味を最大限に生かしている。すなわち、本作では、ファシスト党が台頭するイタリアという悲惨な政治情勢を舞台で、大人たちが種々の権威に追随するしかない中、本来操り糸の意のままであるピノッキオが、自らの意志で<生きる>道を切り開いていく。彼は不死であり、人間とは異なるかりそめの〈生命〉しか持たないが、彼は自分が正しいと思うことを決め、行動していく様に、人間と遜色ない、むしろ権威の追随者になり果てた人間を超える生命の輝きを見せる。

 本節では、第一に、一要素となる子どもたちの自律の側面を見る。この要素、具体的にはピノッキオ・サルスパッツァトゥーラ・キャンドルウィックの決定によって、物語は大きく進展する。第二に、ピノッキオが二度得る<生命>についてである。一度目は、松の木に不死の<生命>が宿り、二度目では、不死性が失われ、地上世界の<生命>と同種の<生命>として、生き返ったときである。

 第一に、権威は、ファシスト党であり、貴族であり、市長(軍事指導者)であり、宗教である。これらの権威とそれに付き従う大人、それに反していく子どもたちの対比が鮮やかに現れる。

 ピノッキオは、よい子になるための学校に行く命令を無視して、サーカス団に行き、さらに、彼はゼペットを助けるために、サーカス団に自ら付いていってしまう。サーカス団では、ヴォルペ伯爵が約束を守っていないと知ったピノッキオはサルスパッツァトゥーラと協力して、ヴォルペ伯爵に仕返しをする。また、訓練施設の模擬戦で、和解を選んだピノッキオとキャンドルウィックは、市長からそしりを受け、市長はキャンドルウィックにピノッキオを撃ち殺すように命令する。二人は命令を拒否して、市長に反旗を翻し、市長に反撃を開始する。さらに、ヴォルペ伯爵に捕まったピノッキオを助けるために、サルスパッツァトゥーラはヴォルペ伯爵を裏切る。また、よい子になるよう言われてきたピノッキオは、大魚の中で嘘をつき鼻を伸ばすことで、自分含めて四人を大魚の中から脱出させる。

 本作の子どもたち、特に主人公のピノッキオは様々な権威に直面し、その度、自らが正しいと信じる選択を決断し、行動する。そして、その行動によって、物語の進展は、彼らの意志が結晶化した有機的な連関として、現れる。決めて、行動し、物語が駆動する。物語の有機的な連関は、その元を各個人が持つ輝きを放つ生命に依存している。

 第二に、生命については、ピノッキオと死の精霊との会話を糸口にする。ピノッキオは不死であるため、彼が死ぬような状況に陥ると、冥界に送られ、一定の時間を待ってから、地上世界に生き返ることができる。この「一定時間を待つ」ことが、生き返りのルールであり、このルールを死の精霊が司っている。このルールには、いくつか細かな条件があり、生き返る度に、「一定時間」は伸びていき、さらにこの一定時間を待つことなく生き返ることもできるが、そのときには不死性を失ってしまう。

 第二の生命という観点は、第一の自律性と密接に結びついてくる。本来、ピノッキオは松の木でできた人形であるから、操り糸なしで自律して動き出すことはない。しかし、その人形に魂を宿し、まるで生命を有するように動き始める。自律してかつ意志を持って動くことが、生命を宿すことの徴にみなされている。そのことは、コマ撮りの人形が生命を持つように見える、本作のストップモーションアニメという形式でも同様である。要するに、自分で動いているのだから、生命があるように見える。

 だが、冥界に居る死の精霊は、ピノッキオが彼以外の登場生物(あるいは擬人的なものも含む登場人物)たちとは、異なった存在だと、指摘する。ピノッキオも他の登場生物たちも意志をもって自律して、行動をする存在であるが、両者の決定的な違いは、死があるかどうかである。他の登場生物たちは、総じて死すべき運命にある、儚い存在である。それに対して、ピノッキオは彼らと自律性の意味で同じ性質を持っているが、彼の存在様式は、彼らと同じではなく、むしろ死の精霊たち冥界の住人や木の精霊たちに近い。そして、それは死後に死に続ける死者の存在様式にも似通っている。

 ピノッキオが生き返りのルールを破るまで、死は彼にとって、決して訪れることのない来訪者であった。だが、彼は死ぬことがなく、生命の限りがない状態から、生き返りのルールを破ることで、生命を持つ限定付けられた有限の状態へと陥ってしまう。だが、この移行は、忌み悔やむべきことではない。そのことは、有限の生命となったピノッキオが、ゼペットたちを救出し、さらに彼自身も三人に強く願われて、木の精霊の力で生き返りを果たし、ハッピーエンドで終演することからも見て取れる。

 非人間的なルールを破って、死すべき存在となる物語は、古代の有名な教えにも存在する。それは有名な「アダムとイブ」の物語*1である。この物語は、旧約聖書の「創世記」に収められ、人間が持つ善悪の知識、男には食物獲得の苦しみ、女には産みの苦しみ、そして人間の死ぬべき運命、それぞれの起源が記される。この起源となるのは、蛇にそそのかされて、アダムとイブが神の教えに背き、「知恵の樹」の実を食べてしまったことである。このことにより、アダムとイブは、「エデンの園」から追放される。

 キリスト教では、上記の神の教えからの背きを、「原罪」と位置付けられているように、この物語では、苦しみが増え、死すべき存在となった背きの事実は否定的に捉えられている。それに対して、生き返るルールを破り、ピノッキオが死すべき存在となったことは、『ピノッキオ』では肯定的に捉えられている。

 「アダムとイブ」の逸話と比較して見えてくるのは、これまた自律性の重要視である。そそのかされたとはいえ、二人が実を食べたこと、神の命に背いたことそのものを否定的に捉える逸話に対して、ピノッキオが決断した、生き返りを司るルールに背く選択を肯定的に捉える『ピノッキオ』では、前者に選択の余地(善悪の知識)が欠け、後者には選択の余地があり、かつ自分が選ぶべき対象を選別して実際に選択する違いがある。つまり、前者には自律性よりも権威への従順性が強調され、他方で後者ではそれとは別の自律性に重きが置かれる。

 この選択によって、ピノッキオは自らの不死性を犠牲に三人を救い、逆に救われた三人はピノッキオが生き返ることを強く願う。この両シーンでの姿に、観客は強く心打たれる。そこには、有限の存在である私たちに、課せられた価値を選び取らなければならないというある種生命にのみ許された、生命の輝きを認めるからである。

 

ピノッキオ』とストップモーションアニメ

 前章では、有限な存在が、自分にとって大切な価値を選び取ることに、生命の輝きを見出し、観客がその光景に感動できることを見てきた。『ピノッキオ』で、この感動の土台となるのは、ファシスト党が台頭する悪化した情勢、悪徳な人間の存在、さらに生命を瀕する自然の猛威など、暗く重い舞台設定と物語である。だが、物語が担うのは、土台の一部に過ぎない。土台の別の一部は映像が担う。陰鬱な状況とそこから脱するハッピーエンドのちぐはぐ感を、調和させるのは、人形に生命を吹き込むストップモーションアニメの躍動である。

 『ピノッキオ』の登場生物たちは、生命を宿して、自ら動いているかのような躍動感を持っている。ピノッキオは元気に跳ね、ステージではつらつとして滑らかに踊りを踊る。模擬戦では、障害物に隠れ、身をできる限り屈めながら、迅速に敵陣へと移動していく。爆撃に遭ったピノッキオは弧を描いて、ありえないほど吹っ飛んで崖上に落ちていく。大魚と対峙する際、ゼペット・クリケットが大魚に追われ、必死に泳ぐ二人の後方から、すさまじい勢いで、大魚が追ってくる様には、ストップモーションアニメとは思えない、スリルに富み、怒涛の迫力が感じられる。

 本作では、松の木に魂が定着し、ピノッキオに生命が宿るという意味でも、また、本作の映像媒体たるストップモーションアニメ自体が、生命なきものを撮影・編集によって、生命を宿す映像媒体という意味でも、生命は重要である。それにこれらの要素は、密接に絡み合いながら、本作の魅力を相乗して、高める。

 「ピノッキオ」が本来の意味での生命を獲得したのと同様に、『ピノッキオ』は物語によって登場生物たちに感情を吹き込み、ストップモーションアニメの形式を用い、三次元の人形に動きを付けることによって、人形たちに生命を吹き込み、彼らの物語を「ピノッキオ」たちの観客の胸打つようなドラマへと変貌する。