【アニメ考察】カットによって生まれるもの―『映画大好きポンポさん』

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©2020 杉谷庄吾人間プラモ】/KADOKAWA/ 映画大好きポンポさん製作委員会

 

 『映画大好きポンポさん』を振り返って感想を書きたい。3月にはリバイバル上映、そして東京ではコスプレ・サイリウムOKな「ヒューMAX上映会」が実施された。また5月には、WOWOWにて、初放送が予定されている。公開当時もかなりの評判を集めていた本作の魅力を断片的だが、紹介したいと思う。中でも特に、ジーン監督が黒塗りの空間でフィルムを大ハサミで断ち切る描写が特徴的だったように、カットという観点に着目してみたい。

 

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●スタッフ
監督・脚本:平尾隆之/キャラクターデザイン:足立慎吾/演出:居村健治/監督助手:三宅寛治/作画監督:加藤やすひさ・友岡新平・大杉尚広/美術監督:二嶋隆文・宮本実生/色彩設計:千葉絵美/撮影監督:星名工・魚山真志/CG監督:髙橋将人/編集:今井剛/音楽:松隈ケンタ/制作プロデューサー :松尾亮一郎

制作:CLAP/配給:角川ANIMATION/製作映画大好きポンポさん製作委員会

●キャラクター&キャスト
ジョエル・ダヴィドヴィッチ・ポンポネット小原好美ジーン・フィニ:清水尋也ミスティア加隈亜衣ナタリー・ウッドワード:大谷凜香/マーティン・ブラドック:大塚明夫/アラン・ガードナー:木島隆一

公式サイト:劇場アニメ『映画大好きポンポさん』公式サイト (pompo-the-cinephile.com)
公式Twitter【好評配信中&Blu-ray好評発売中!】『映画大好きポンポさん』公式 (@pomposan) / Twitter

 

 

※この考察はネタバレを含みます。

 

 

あらすじ

敏腕映画プロデューサー・ポンポさんのもとで製作アシスタントをしているジーン。映画に心を奪われた彼は、観た映画をすべて記憶している映画通だ。映画を撮ることにも憧れていたが、自分には無理だと卑屈になる毎日。だが、ポンポさんに15秒CMの制作を任され、映画づくりに没頭する楽しさを知るのだった。 ある日、ジーンはポンポさんから次に制作する映画『MEISTER』の脚本を渡される。伝説の俳優の復帰作にして、頭がしびれるほど興奮する内容。大ヒットを確信するが……なんと、監督に指名されたのはCMが評価されたジーンだった! ポンポさんの目利きにかなった新人女優をヒロインに迎え、波瀾万丈の撮影が始まろうとしていた。

(『映画大好きポンポさん』公式サイト STORY より)

 

アニメーションで実写制作?

 本作はタイトルからも分かるように、映画にまつわる作品である。それも実写映画を撮影する物語だ。作中映画としての実写映画をアニメーションで描くというある種歪な入れ子構造が採られている。この構造自体が新奇で興味深いというだけではなく、物語の説得力を生んでおり、それゆえに終盤の山場で観客にカタルシスを与えることが可能となっている。

 実写映画とアニメーションでの大きな違いの1つに制作の仕方にある。すなわち、本作でジーン監督が行う編集作業のシーンで見たように、実写映画が大量の映像素材から不要な部分を切り捨てて制作されるのに対して、アニメーションは基本的に、まず絵コンテによって完成形が統御されており、その絵コンテに基づいて作品が制作される。前者が主を引き算に置き、映像素材の引き算と繋ぎ合せによって作品が成立しているのに対して、後者は最初から作品の輪郭として成立している。実写に特徴的なカット編集作業において、ジーン監督に最大の課題が降りかかる様をアニメーションによって描いているので、表現形式と表現内容で奇妙な関係が生じている。これが前述した歪な入れ子構造を表現する一幕となっている。

 また作中映画『MEISTER』制作にあたっても、この編集作業が作品の肝となっている。

 主には、ジーン監督が『MEISTER』監督抜擢の布石となる『MALIN』の予告制作や『MEISTER』クランクアップ後に映画完成の障害となる編集作業や本作のクライマックスにも登場し、編集がこの作品において重要なことが分かる。

また編集の重要性は、編集のシーンでアニメーションに特徴的な演出がなされていることからも汲取れる。というのも、本作の表現形式がアニメーションである以上、重要なシーンではアニメーションの特徴を生かした表現が選択されると考えられからだ。

 PCの前で試行錯誤し、苦悩するジーン監督の様子が映るだけではなく、冒頭でも書いたように、黒塗りの空間に漂うフィルムをジーン監督が大ハサミで断ち切る様子でも描かれている。このシーンは本作では珍しいアクションシーンであり、大ハサミを振う運動の快楽によって、アニメーション的な魅力を高めている。また、画面から飛び出すフィルムを介することによって、シームレスに現実の編集室とジーン監督の想像の世界を行き来する場面切り替えはアニメーションならではの場面切り替えである。

 実写映画とアニメーションを分かつ編集作業のカットは本作で特徴的に捉えられている。それに加えて、カットは映像編集とは異なる重要な意味を帯びている。そして2つの意味が結び合わせることによって、本作に大きな感動を生んでいる。

 

人生におけるカット(選択)

 編集作業のカットが本作に実写映画とアニメーションを分かつ意味で、重要だと確認した。以下では、本作においてカットが担っているもう1つの意味を確認する。

作中映画『MEISTER』のダルベールは音楽に身を捧げ、音楽以外の生活や妻子までも顧みない生活を送っていた。彼は公演失敗により地位も名誉も失い、「友人の勧めで自然豊かなチューリッヒの町に旅行をする。そこで、少女リリーと出会い、公演失敗のどん底から音楽界への復帰に奮起する。

 彼とジーン監督は重なる。ジーン監督はハイスクールに馴染めず、映画に逃避・没頭する日々が続いた。その映画へののめり具合はいわゆるシネフィルと呼んで差し支えない。ハイスクールを卒業した後も同様であり、彼は映画業界へと就職する。そこで伝説のプロデューサー:ペーターゼンを祖父に持つポンポさんのアシスタントとして、働き始める。

 彼ら2人に共通しているのは、人生の中で「何かを残す」ために様々なものを「切り捨て」たことである。これがカットのもう1つの意味である。この「切り捨て」つまりカットによって、本作の盛り上がりを生んでいる。

 最後に、2つ意味のカットが合わさることによって、クライマックスでどのようにして感動を生むのか見ていく。

 

夢と狂気の世界

 本作のクライマックスは、花譜による挿入歌が鳴る中、ジーン監督が凄まじい集中力で『MEISTER』の編集作業を行うシーンだろう。このシーンで、彼は作品にとって、必要なショットを選び取り、不要なものをカットする。それと並行して、映画のフィルムを模した映像、独白やフラッシュバックを使用して、彼が映画のために切り捨てたものを回顧していく。映画において素材のカットとジーン監督が過去に行った切り捨てが合わさり1つの作品、『MEISTER』に結実したことが印象付けられる。

 『MEISTER』完成によって生まれる感動は、2つ意味のカットが合わさることによって、生み出され、増幅されている。彼は1映画ファンとして、珠玉の映像素材をカットするのにためらいを見せている。それでも彼が目指す作品のために、容赦なくカットしていく。その容赦のなさは、「会話」、「友情」、「家族」、「生活」をジーン監督とダルベールが切り捨てるフィルムの枠に収まった過去の映像にも見られる。「会話」、「友情」、「家族」、「生活」を各々の目的のために、切り捨て様子が2人に類似した形で、映像に現れる。そして机に向かうダルベールとジーン監督のフィルムが重ね合わされる。

 挿入歌の盛り上がりと共に、ジーン監督が編集するPC画面からフィルムが飛び出す。ジーン監督はフィルムが飛び出す風圧で体をのけぞらせる。その直後、風圧に逆らいながら、体を起こすと同時に、編集室と編集空間が接続する。あたかも作中映画外のジーン監督と映画内のダルベールが映像として重なり合ったように、画面外(PCの外)と画面内が重なり合う。

 ここでジーン監督が映画制作に捧げる感情が視覚的に表現される。キーボードを叩く様も、フィルムをカットしてハサミを振う様は気迫に溢れている。夢以外のものを切り捨てた過去と大切な映像素材をカットしていく現在が合わさり、彼は未来へ新たな作品を生み出す。鬼気迫る様子から編集作業が完了し、映画が完成して、大きなカタルシスを生むことになる。

 

 

 映画以外のすべてを切り捨て、尋常ではない集中力で作業を進めるジーン監督を観て、ポンポさんが、ジーン監督の元同級生であるアランに語った「ようこそ、夢と狂気の世界へ」という言葉が思い出される。ジーン監督が追い求め、夢だった映画制作を完成させるためには、過去に映画以外のすべてを切り、そして現在ではジーン監督が大切に思う映像素材をことごとく切ることが必要となっている。映画以外のすべてを切って、さらには映画でも本当に必要なもの以外切る運命にあるジーン監督の様を形容できるのは、狂気としか言いようがない。『MEISTER』完成によって感動が生じるのは、ジーン監督が夢の初監督映画を過労で倒れながらも、完成させたことのみならず、彼の人生おいて、上記してきた2つのカットという多大なる代償を支払った結果初めて、手に入る夢の世界だったからだ。

 本作を通じて、何かを追求することの輝きとその常軌を逸した姿が見えた。そして、その姿は、本作を制作する姿にも同様に当てはまるだろう。それゆえに、作中の登場人物たちと同じ「夢と狂気の世界」に立つ制作者の方々にも脱帽。