【アニメ考察】生きることは冒険ー『グッバイ・ドン・グリーズ!』

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©Goodbye,DonGlees Partners

 

 本作は三人の少年たちが体験する冒険の物語である。私たちの何気ない日常に人生を特別にする要素が存在し、私たちが見方や行動を変えるだけで、それらが突然現れてくることを教えてくれる。

 本稿では、冒険とフレームという要素を『グッバイ、ドン・グリーズ』から取り出し、いかにして観客の「“LIFE”生き方を変える」のかを見ていきたい。

 

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●スタッフ
監督・脚本:いしづかあつこ/キャラクターデザイン:吉松孝博美術監督岡本綾乃/美術ボード制作協力:山根左帆/美術設定:綱頭瑛子/美術設定:平澤晃弘/色彩設計:大野春恵/撮影監督:川下裕樹/3D監督:廣住茂徳/3D監督:今垣佳奈/編集:木村佳史子/音楽:藤澤慶昌/音響監督:明田川仁/音響効果:上野励

アニメーション制作:MADHOUSE/配給:KADOKAWA/製作:グッバイ、ドン・グリーズ!製作委員会

●キャラクター&キャスト

公式サイト:映画「グッバイ、ドン・グリーズ!」公式サイト (donglees.com)
公式Twitter映画『グッバイ、ドン・グリーズ!』【BD&DVD好評発売中】 (@gb_donglees) / Twitter

 

 

※この考察はネタバレを含みます。

 

 

ストーリー

 東京から少し離れた田舎町に暮らす少年・ロウマ。

周囲と上手く馴染むことができないロウマは、

同じように浮いた存在であったトトと二人だけのチーム"ドン・グリーズ"を結成する。

その関係はトトが東京の高校に進学して、離れ離れになっても変わらないはずだった。

「ねえ、世界を見下ろしてみたいと思わない?」

高校1年生の夏休み。それは新たに"ドン・グリーズ"に加わったドロップの何気ない一言から始まった。

ドロップの言葉にのせられた結果、山火事の犯人に仕立て上げられてしまったロウマたちは、

無実の証拠を求めて、空の彼方へと消えていったドローンを探しに行く羽目に。

ひと夏の小さな冒険は、やがて少年たちの“LIFE”生き方を一変させる大冒険へと発展していく。
(『グッバイ・ドン・グリーズ!』公式サイトより)

 

冒険=常識から一歩出ること

常識のモチーフと具体例(レール、道、フレーム)

 本節では「レール・道・フレーム」をそれぞれ扱う。前二者は主に生き方を表現する比喩表現である。前二者が日常的に「親に敷かれたレール」や「道なき道を行く」など生き方の表現として用いられる。それに対して、レール・道には誰かが定め、定めた方向へ進むという意味合いがある。それゆえ進行者の前に同じ道を誰かが通っている。トトの父親が医者であり、トトは父親の敷いたレールを歩んでいる。ロウマは写真家になりたいと思うものの、そこに至る道が見えず、怖気付いている。

 彼らと一線を画するドロップもアイスランドの電話ボックスで、電話を受けるまでは、病に恐れ、病の状態で追えるものなどないと人生を諦めていた。しかし、電話ボックスで電話を受けて以来、自分の求める宝物を探そうと奮起する。

 道については、ドロップがドローンまでの探索予定ルートで予定ルートが通行止めと分かるなり、道を外れて進む様に象徴的に表現されている。また、レールについては、ドロップがロウマとトトに「自分の宝物が何か分かるの?」といった問いをする際に、登場する。トトが父親の意向に従って、医者を目指していることは前述した。そんなトトの医者という目的地とそこに到達するために、勤勉な努力をして、東京の進学校へ進むことを、ドロップは父親の敷いたレールに乗っているだけと評する。

 宝物とただ言葉に出せば、私たちは言語が本来表現するように、一般的に宝物となりうるものを思い浮かべる。劇中でも挙がっていた、財宝などである。だが、あなたにとって宝物とは何か問われた時、宝物の語義を基にして回答しても、問いに十全に回答したことにはならない。それはあなたが宝物と思っているものではなく、一般的に宝物とみなされているものにすぎないからだ。とはいうものの、上記問いに対して、自分の人生において最も大切なものは、お金と答えることは咎められる可能性があったとしても、それは間違えではない。つまり道徳的に非難される可能性があるが、問いに対する回答として成立していないということはない。これはお金以外のどのような可能性でも当てはまる話だ。

 したがって、私の宝物を考える際には、世間一般ではという視点は度外視して、「私の」宝物である以上、私の個人的な趣味・嗜好・理由が私の宝物を認定する基準となる。

 ここで宝物の話と関連するのが、フレームである。フレームはその性質上、ある一般的な枠・基準に収めるという意味で、レール・道に準じているが、他方で、フレームに収めることによって、フレーム内の対象を特別なものとすることができる。後者の作用が重要であり、この部分において先の宝物の例と関連する。

 劇中内でのロウマとチボリの会話を参考にフレームの考えを確認する。チボリが撮影した青一面のネモフィラ畑でてんとう虫が飛び去る写真やロウマが撮ったチボリを遠めから撮った写真など、彼らが撮ったものには、その瞬間の大切なものが映っている。前者については、物語の終盤で明らかにされている。青一面の畑で赤い服を着て、その青に埋没しないロウマの姿に勇気をもらったとチボリがSNSにてんとう虫の写真の経緯を投稿している。後者は言わずとも、ロウマが当時も現在も続いて思い人であるチボリを何とか撮影しようと必死に撮影したものだ。どちらも撮影者の興味が反映されている。興味がなければ、フレームに収めることすらするはずがない。

 ここにおいて、フレームとレール・道との違いが分かる。前者は私が作るもので、後者はすでに他者によって築かれたものである。それゆえ、前者は個人的興味がは反映されるがゆえに宝物に設定できるが、後者は一般的なものでしかないため宝物にはなりえない。このことを確認すると、ドロップ死後に、トトが医学的知識の無い自分の無力を嘆くシーンの重大さが分かる。トトは前半部で親の意向通りにすれば、いいと思っていたが、いざ上京して、自分より優れた人間は大勢いて、競争の過酷さからなぜ自分が医者になろうとしたのか、分からない状態に陥っていた。このとき、彼自身が過酷さを引き受けてまで医者になりたい個人的な理由が存在しないからだ。それに対して、ドロップ死後には、ドロップが闘病中に、ドロップの状況を知らず、友人として励ますことができなかった。そして彼はそのことと同等あるいはそれ以上に彼が一介の学生に過ぎず、ドロップの病気に無力だったことを嘆いている。この状況から察するに、彼には医者を志すに十分な個人的な理由ができたと言える。この個人的な理由こそ宝物を問われた時に、宝物を回答する理由となるものだ。

 また、フレームは劇中内フレームだけではなく、本作品も画面に映る映像作品であるから、フレームの性質が送り返されてくる。当然だが、彼ら三人を中心とした物語が作品として存在する以上、それらに関心がある人間が存在する。もちろん制作者であり、観客である。制作者は表現したいものとして映像を制作する。観客にとっては、それを注目するべき、あるいは注目したい対象として存在している。

 映像表現にその性質を読み取ることができる。後述するが、彼ら三人がした冒険は取り立ててフィクション的な非日常性を孕んだものではない。それはただ地元の山に入って、ドローンを探すといういわばその気になれば、誰でもできることだ。超常的現象が起きたり、高校生にとってあまりにも酷な決断が必要なわけでもない。そして本作においてそのような冒険が、特別性を付与するフレーム内に映像として映されること、そのことも重要である。ロウマがたい肥を撒くシーンがあったり、またロウマが花火を購入する駄菓子屋の年季の入った外観が錆汚れやガラスの曇りで丁寧に表現してある。そして、山の様子も同様である。このように、何気ない山の麓にある田舎町での生活をリアルに描いている。もちろん風景や人物のキャラクター付けなどがリアリティを持てば、観客がその作品を受け入れやすいという利点はある。しかし本作で田舎町の冒険をリアルに表現する必要があったのは、物語の見せ方以上に本作の根幹つまり冒険の要素に深くかかわっている。次節では、なぜ本作においてリアルな映像を見せる必要があったのかをまず見ていく。

 

冒険=日常と同居した非日常であること

PVと本編の比較 モンタージュの効果的な使用

 本節では、なぜリアルな冒険譚が画面に映される必要があったのか、を考えたい。

 PVと本編を比較することから始める。参照するPVは最も情報量の多い「映画『グッバイ、ドン・グリーズ!』本予告ロングver.」を参考にする。この映画の驚きはPVの時点から織り込まれている。すなわち、PV時にモンタージュを駆使することによって、あたかも彼らが現実では簡単にはできないという意味で、フィクションらしい大冒険を行っているように演出しており、ドローン探しという地に足の着いた冒険との落差を効果的に生み出している。

 PVの詳細を見ていこう。冒頭でロウマ・トト・ドロップの人物紹介を挟んで、三人が田舎町に会していることを提示する。そして幻の赤い電話ボックス探しという名の宝物探しの冒険が予感され、主題歌と共に、荷物と共に置かれたパスポート、荷を背負うロウマの後姿、等高線のみ引かれた地図と英語で書かれた熊除けのスプレーなどの荷物が矢継ぎ早に映される。それ以降にも、飛行機の離陸シーンが映り、海外へ引っ越したチボリの情報が開示される。ここだけ取っても、主人公のロウマが東京へ進学した幼馴染とアイルランドから来た不思議な少年ドロップの三人で、幻の赤い電話ボックスを探す国境を越える大冒険をすると観客は考える。

以上と合わせて、本作の制作スタッフが「宇宙よりも遠い場所」のチーム最新作という事実も合わさり、「幻の赤い電話ボックスを探しに、少年たちが日本を離れて大冒険を行う」内容の予備知識を持って映画に臨むことになるだろう。

 しかし、この予想は前半部で裏切られる。彼ら三人の冒険は地元の山に墜落したドローンを探す小規模なものだった。そしてドローンを探す理由も、自分たちが山で残した花火を理由に、山火事の罪を被せられ、その罪を晴らすために捜しに行くという些末ではないが、PVで期待した大冒険とは異なることが分かる。

ただ、大冒険ではないからといって、冒険が冒険でなくなるわけではない。私たちはこの物語をフレーム内の出来事として見ることによって、日常にある冒険を特別なものとして捉えることができる。画面外にいる私たちにも可能な冒険で、彼らはかけがえのない瞬間を紡いでいったのである。

 ここまで来て、本節文頭の問い「なぜリアルな冒険譚が画面に映される必要があったのか」に答えることができる。リアルな冒険譚を描くこと、そしてそれをフレーム内に収めることによって、日常にある冒険を特別なものあるいは、日常に冒険が潜んでいると表現するためである。

 だが、日常に大切なこと・特別なことが潜んでいることを指摘するだけでは、アニメを問わず古今の作品ですでに実践されていることで目新しさがない。そのため、上記の回答は本作の表層的な解釈に思える。前述したように、本作ではPVでの大冒険という期待から本編の三人の日常に即した冒険は裏切りの要素を含む。その落差により後者で描かれた日常に含まれる冒険の尊さが浮き彫りになる。この後に、ドロップ死後に彼からの地図を頼りに、ロウマとトトがアイスランドへ幻の赤い電話ボックスを探しに行く冒険が始まる。この冒険によって、PVによる期待としての非日常から三人による日常的冒険へ回帰してきた物語の流れは再度非日常へ揺り戻される。そして非日常への回帰によって、本作にさらなる深みが生まれる。この点を掘り下げることで、前述の表層的な解釈にもより厚みが生まれる。ここでの厚みとは、彼らの物語を通じて、上記解釈に、日常と非日常が隔絶したものではなく、奇妙な仕方でつながっていることを示す、という解釈が加わることを言う。

 

日常と非日常を繋ぐもの

 本作において、プロット上日常から非日常へと繋がりが見えるシーンを確認する。二人はアイスランドの山地で、ドロップが見たであろう神々しく黄金に輝く巨大な滝を見る。そこで赤い電話ボックスが鳴り響くのを見つける。電話ボックスの中には、飲料ラベルに書かれたメモが貼られている。メモには、「ぼくの宝物 15歳最後の勇姿を見とどけてくれる友だち(滴の絵文字)」と書いてあり、ここで冒頭部に、ロウマに告白をさせようとトトが電話を掛けた先が、チボリの暮らすアイルランドではなく、アイスランドであり、その電話を受けたのがドロップであったことが分かる。

 このシーンが現実に起こりうるかを考えると、非日常的なシーンである。高校生が二人でアイスランドまで行き、険しい山中にある赤い電話ボックスを探す。そして赤い電話ボックスを通じて、二人とドロップが出会っていたという出来事は現実でそうそう起こりうるものではない。

 ここでは、ドロップ生前にあった、田舎町の人々が営む生活が息づくようなリアリティは排され、非日常性の高い物語が目指されている。非日常性の選択は、ドロップが宝物を求めて、日本へと旅立ってきて、その思いを遂げられたという物語上のカタルシスを生むためだ。これは脚本上の起伏を作るための理由だが、それだけに留まらず、ここでは日常と非日常のある種の結びつきを示唆している。すなわち、日常にある行動と偶然があれば、非日常の世界にアクセスできるということだ。きっかけはトトがアイルランドにいるチボリに電話を掛けようとしたことだが、それが偶然番号入力を誤り、アイスランドにいたドロップに電話がつながる。そこで、ロウマとトトそしてドロップの人生が劇的に変化していく。

 先に、本作でフレームの効果として、日常がそれ自体として特別なものとして描かれていると書いた。それだけでなく、日常の中で、行動と偶然があれば、非日常を引き起こせるという日常と非日常の関係性を描いている。

 

まとめ

 本作の内容を確認してきたが、「あなたの“LIFE”生き方を変える」演出がいくつか見つかったように思う。世間の常識ではなく、個人的な理由で選択したものこそが宝物である。その宝物を探し求めるのが冒険。目的を選択する視点を画面内のものに特別性を付与するフレームであり、またそのフレームの効果によって、日常的な要素が特別なものとして描かれている。

 公式サイトのイントロダクションやPVにも書かれている「あなたの“LIFE”生き方を変える」とはこのような意味であったのではないかと思う。冒険から日常からかけ離れた営みというイメージを取っ払い、生きることそのものが冒険と感じる、そんな作品だった。