【実写映画考察】不透明な真実の先にあるもの―『落下の解剖学』

『落下の解剖学』公式X(映画「落下の解剖学」公式)から

 

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●スタッフ
監督:ジュスティーヌ・トリエ/脚本:アルチュール・アラリ

●キャラクター&キャスト
サンドラ:ザンドラ・ヒュラー/ヴァンサン:スワン・アルロー/ダニエル:ミロ・マシャド・グラネール/検事:アントワーヌ・レナルツ

公式サイト:映画『落下の解剖学』公式サイト (gaga.ne.jp)
公式X(Twitter):映画「落下の解剖学」公式 (@Anatomy2024) / X (twitter.com)

 

 

※この考察はネタバレを含みます。

 

 

概要

 作家夫婦と事故で視力を失った少年の三人が暮らす。映画冒頭に、夫が自宅から落下死する。彼の死をめぐって、死の真相、夫婦関係や親子関係を含めた家族関係、それに被疑者となった妻の人間性が、裁判内外で問われていくことになる。

 2023年カンヌ国際映画祭にて、最高賞パルムドールを受賞した本作。落下死という事故でも、自殺・他殺の事件でもありうる死因を設定して、裁判という特殊な人間の営みを媒介して、他人に決して触れえない私秘的な内心を鋭くえぐり出す。裁判・息子の苦悩から私秘的な心が浮かび上がってくる。

 

真実をいかに明らかにしないか

 冒頭早々に、夫のサミュエルは落下死する。妻のサンドラが被疑者となり、ついには起訴され、被告人として裁判にまで至る。

 本作でおもしろいのは、どの映画問わず観客が関心を持つ、登場人物の人となりや登場人物の関係性が、劇中の裁判によって争点化される、ということである。要するに、夫婦仲はよかったのか、親子関係はどうか、妻の性格はどんな性格か、などである。劇中の裁判で、夫の落下死が事故か、自殺か、他殺かが問題になる。また他殺であった場合、妻が最有力候補に挙げられている。ただ、凶器・目撃者などの物証・人証など彼女が直接に夫を殺した証拠が全くない。そのため、三点を巡って、裁判が進行していく。第一にサミュエルの死が他殺であること、第二にサンドラにサミュエル殺しが可能であること、第三にサンドラにはサミュエルを殺す動機があることである。したがって、第一・第二に関しては、最も蓋然性の高いサミュエルの落下の仕方をシミュレーションが行われる。他方で、この第三の点において、サンドラの人となり、サンドラとサミュエルの夫婦仲、ダニエルを含めた家族関係が、裁判の争点となっていく。

 

裁判過程 

 裁判では、事実の認定と法律の適用に基づき、判決が下される。刑事裁判の場合、起訴事実に対して、有罪か無罪か決定し、量刑を判断する。本作に当てはめて言えば、事実の認定、特にサンドラがサミュエルを突き落としたことが、合理的な疑いを入れない程度に証明されているかどうか、が鍵になっている。

 にもかかわらず、サミュエル死亡につき、直接的な証拠は劇中で登場しない。そのため、二点の状況証拠を出発点にして、裁判はある種の泥沼化に陥る。地面への落下では付かないサミュエルの傷とサミュエルが落下したとき家にいたのはサンドラのみ、という状況証拠を手掛かりに、サンドラが突き落とす可能性があったのか、すなわち突き落とすことができるのか、加えて突き落としたいと思っていたかが問われてくることになる。

 その問いに、検察・弁護人双方は、各々の立場から立証を試みる。まずは検察側。検察側の準備段階として、公的機関の強制力によって、サンドラの私生活を調べ上げられる。押収された証拠物を基に、彼女の行いや人格にわたって糾弾される。挙句の果てには、証拠を基に、検察の都合のよいストーリーが法廷で煽情的に語られる。逆に、このことは、弁護人側も同様である。サンドラの友人で、弁護人を務めるヴァンサンも、彼女に真実を語るように諭し、さらに彼女が彼に本心では「どちらだと思うか」問うたとき、彼は信じているとは答えない。検察・弁護人双方の立場を前提に固守し、その立場が真実により近いという、蓋然性を獲得するために議論を戦わせ、法廷に向けて各立場に有利に印象付け、その元で裁判官・参審員に判断を仰ぐ。つまりは、検察側は有罪を前提し、弁護側(弁護士・弁護人)は無罪を前提にして争う。

 裁判を何とか戦い抜いたサンドラは、見事に無罪を勝ち取る。それはすなわち、裁判所が、有罪・無罪の二者択一から、無罪を選択したことに他ならない。しかし、そのことは、サンドラが犯罪を犯したのかどうか、あるいは彼女の本心がどのようか、という問いへの解答を一切含んでいない。裁判所が宣言する無罪は、彼女の起訴事実が、合理的な疑いを入れない程度に証明されなかった、ということを高らかに謳うのみである。

 

 裁判上では、「本当はどうだったか」は、明らかにされなかった。その問いは、映画により解答される事を観客が期待する問いであり、いくつもの問いへ分割できる。例えば、サンドラはサミュエルを殺したのかどうか、サンドラはサミュエルを憎んでいたのかどうか、夫婦・家族の関係はどうだったのか、あるいはサンドラとはいったいどんな人物だったのか。など問いは尽きない。

 裁判上解答されていない一因は、裁判は法的裁定という特殊な役割を担っており、真実、すなわち「本当はどうだったか」を明らかにする制度ではないことだろう。しかし、「本当はどうだったか」は、裁判の前にも後にも、劇中で明らかにされない。この不明瞭さの前に立たされるのは、裁判官(+参審員)・検察・弁護人など裁判の当事者たち、それに観客も含まれるが、残されたサンドラの家族、息子のダニエルもその一人である。

 

ダニエルの決断

 裁判は、決定的な証拠が提出されず、真実を明らかにされなかった。息子のダニエルも、裁判から真実を知りえなかった。そのため、息子も知らなかったサンドラの姿、サミュエルの自殺未遂の事実など、彼を戸惑わせる事実に戸惑い、サンドラを信じるかどうか迷っている。家庭の外で犯罪事実の立証・反証を追い求めたのが裁判であったなら、家庭内で真実を知りたいと願ったのは息子のダニエルである。

 興味深いのが、サンドラとダニエルの動向を見守る、マージ・ベルジェがダニエルに与えた助言である。彼はマージに、サンドラが本当にサミュエルを殺したと思うか問いかける。彼女は立場上答えられないと伝えた後、どちらか分からないならどちらかに決めるしかない、といった旨の助言を与える。それを聞いて、一人ダニエルは決断して、証人として出廷することになる。

 こうして、出廷したダニエルは、サンドラが殺しておらず、サミュエルが自殺した可能性があることを証言する。母と子として過ごしてきた時間はその根拠をなし、またサミュエルとの重大なエピソードが語られる。そのエピソードで、サミュエルは誰かがいなくなるときの心構えの必要性をダニエルに伝えていた。そのことを思い出し、ダニエルはサンドラは犯人でなく、サミュエルの自殺かもしれない、という証言に至る。

 このダニエルの決断と証言に関して、描かれないことが重要になる。何が描かれないか。それは彼がサンドラを信じるに至った経緯である。どういった道筋を立てて、彼がその結論に至ったのか。そのことが本作上では映らずに、法廷での証言に集約されている。要するに、母親が殺していない、ということが、彼の中で、刑事裁判の原則に則れば、合理的な疑いを入れない程度に証明できたのか、それとも「信じたい」から信じているのか。ダニエルの心証の揺れ動きが描かれていない。

 したがって、観客からは、ダニエルが信じる事柄が立証されたとは感じられず、彼の信じたいというむき出しの感情を聞き取ることになる。そうしたとき、観客はダニエルがどう思いたいかを知るが、結局「本当はどうだったか」は不明のままに置かれる。

 

まとめ

 以上で、弁護人・検察から裁判所が下す判決、そしてダニエルの心証に言及することを通して、ついには「本当はどうだったか」という問いが、明らかにされなかったことを見てきた。公的機関の強制力、弁論術を生かした煽情、親子で過ごした時間や親子の絆、どれをもってしても、真実、すなわち事件の真相、夫婦の関係性、あるいはその二つの関係する、サンドラが何を思い、何を感じていたのか、という彼女の私秘的な心を明らかにすることはできなかった。こうして、落下死とその裁判を通して、本作で簡単には解明困難な心が浮かび上がってくる。

 それと同時に、解明困難な心や感情が、その強固な殻が割れ、漏れ出す瞬間がある。その瞬間を作り出すのが、本作が効果的に用いる複数言語である。サンドラは裁判途中に自分の思うところを話す際、不得意なフランス語から英語へ切り替えて話し始める。また別の個所、裁判の判決間際に、ダニエルがサンドラとは離れて、付添人のマージと二人でいたいと話したとき、本来二人はフランス語で話さなければならないが、サンドラはとっさに英語で言葉が出る。どちらもサンドラの感情に迫って、観客に届けられる。

 結局のところ、異なった相手・異なる状況・複数のものごとについてのサンドラの語りが、「本当はどうだったか」を解く鍵だったのではないか。フィクションでは、登場人物たちの動向、セリフをよく見聞きし、彼らの物語を楽しむことができる。それに、観客は他の登場人物が知らない、あるいは見ることができない登場人物たちの言動を目撃することもできる。そのような観客の特権により、裁判で明らかにされるよりも、長い時間を過ごすダニエルよりも、本作を細かく見ていけば真実に近づけるのかもしれない。たとえ、フィクションである以上、彼女が裁判中に嘆いたように、「一面的」でしかないことを免れえないかもしれなかったとしても。