【アニメ考察】過干渉 or アンバランスへの抵抗―『リコリコ・リコイル』

©Spider Lily/アニプレックスABCアニメーションBS11

 

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●スタッフ
原作:Spider Lily/監督・シリーズ構成:足立慎吾/副監督:丸山裕介/ストーリー原案:アサウラ/キャラクターデザイン:いみぎむる/サブキャラクターデザイン:山本由美子/衣装デザイン:鈴木豪・浮き足/リコリス制服デザイン原案:尾内貴美香/プロップデザイン:朱原デーナ/銃器デザイン:寺岡賢司/銃器作画監督:江間一隆/メインアニメーター・銃器・アクション監修:沢田犬二/美術監督池田真依子/美術設定:六七質・綱頭瑛子(協力)/背景:草薙/色彩設計:佐々木梓/CGディレクター:森岡俊宇/撮影監督:青嶋俊明/編集:須藤瞳/音響監督: 吉田光平/音響効果:上野励/音楽:睦月周平/音楽プロデューサー:山内真治/音楽制作:アニプレックス/チーフプロデューサー:三宅将典/プロデューサー:神宮司学・吉田佳弘・大和田智之/宣伝プロデューサー:高橋里美/制作統括: 柏田真一郎・加藤淳/アニメーションプロデューサー:中柄裕二

制作 :A-1 Pictures/製作:アニプレックスABCアニメーションBS11

●キャラクター&キャスト
錦木千束:安済知佳/井ノ上たきな:若山詩音/中原ミズキ:小清水亜美クルミ久野美咲/ミカ:さかき孝輔/吉松シンジ:上田燿司/真島:松岡禎丞

公式サイト:オリジナルTVアニメーション「リコリス・リコイル」公式サイト (lycoris-recoil.com)
公式TwitterオリジナルTVアニメーション「リコリス・リコイル」公式サイト (lycoris-recoil.com)

 

 

※この考察はネタバレを含みます。

 

 

 毎話EDが始まるたびに、高揚感が高まる。そんな作品は珍しい。『リコリス・リコイル』は、EDの入りタイミング、かき鳴らされる音の心地よさから、数々のアレンジやMAD風の映像が作られるなど、各話の終わりに定評があった。

 定評のEDが次話の期待を高めるように、本作が十三話で終わろうとも、そこから始まりがある。始まりがあれば終わりがあるし、終わりがあれば始まりがある。『リコリス・リコイル』はどのように始まり、始まったものがどのように終わりへ向かい、そして終わりから次なる始まりが続くのか、本作を見ていきたい。主人公の千束、彼女の前に立ちはだかりライバルとなる真島に着目する。特に彼らがなぜ対立関係に位置付けられるのかを、「善」と「正義」をキーワードにして見ていく。

 

(今回着目する千束と真島については、以下で書いておりますので、参照いただけますと幸いです)

nichcha-0925.hatenablog.com

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二つのパターナリズム 平和の強制・幸福の強制

 『リコリス・リコイル』の世界観は、一種のディストピアである。秘密組織DAに所属する「リコリス」が暗躍して、東京の治安は犯罪から未然に守られる。非公式で、超法規的なリコリスの存在は、国民に秘匿され、同様にリコリスによって犯罪者が、この世から排除されることで、東京の治安が守られている事実も秘匿されている。そうした真実が隠されることによって、『リコリス・リコイル』の世界では、世界中で犯罪や紛争が止まらない中、日本だけが驚異的に安全な国である状況から、日本人の国民性から日本の平和が作られるという神話が信じられている。

 そのような世界で登場する主人公が千束だ。最強のリコリスでありながらも、彼女の希望によりDAの主戦力として犯罪者の抹殺任務は遂行せずに、店主のミカと店員のミズキと喫茶リコリコを切り盛りしている。そこに、命令無視により、DAから左遷を受けたリコリス・たきな、この世界の秘密組織アラン機関やDAから命を狙われるハッカー・くるみをメンバーに加え、物語は進んでいく。

 物語の中心には、リコリスという孤児の少女たちが置かれる。彼女たちは自らの価値を、犯罪者を排除し日本の治安を守る、というDAの任務に同化させられている。DA及び、国家の中枢は、国民からリコリスの情報を秘匿して、日本人の国民性のおかげという甘い嘘を喧伝し、国民を平和のぬるま湯につかるように強制する。国家はリコリスの情報を隠しながら、嘘を喧伝することによって、国民を本来自律した意思決定を行う主体から、庇護・介入すべき半人前の主体へと仕立て上げる。上記した意味で、この世界はパターナリスティックな雰囲気を漂わせる。

 本作が提示するのは、政治体制としてのパターナリズムだけではない。吉松が体現するように、個人の生き方に対しても、パターナリズムの精神が充満している。アラン機関のエージェントで千束の才能を見込み、千束の命を救った吉松は、千束の才能を生かした殺し屋になることこそ、彼女の使命であり、その使命に基づき彼が千束に期待するのは、「いくら救ったか」ではなく、「いくら殺したか」である。さらに、その期待や使命を全うすることこそが、どれほどの幸福か説く。彼は、殺しの使命を果たすことで、彼女を幸福にさせようと、全力を投じる。

 人間の才能を、個人の所有物でもなく、社会の共有財産でもなく、神の所有物と説く彼の眼は常軌を逸した輝きを見せる。彼は千束にその才能をいかんなく発揮させるために、日本の偽りの秩序を破壊しようとする真島に武器を提供し、秘書に千束の人工心臓を破壊させ、さらに千束が生きながらえるのに必要な人工心臓を自分の体内に埋め込んでまで、不殺の彼女に殺しをさせようとする。彼が神からのギフトと信じる才能に、その役目を全うさせようといかなる手段も厭わない姿は、狂信的に見える。また、千束が二人の父と呼ぶ一人が、吉松(=救世主)である事実から、社会に千束の才能を届け、使命を果たす幸福を彼女に与えようとするその狂信的態度に、娘の幸福を願う父の姿が重ねられる。

 国民を自立した主体として扱わず、政府の嘘により作られた平和の神話を信じ込ませる、パターナリズム。殺しの才能を持つ千束に、殺し屋としての生き方こそが彼女の使命であり、使命を全うすることこそ彼女の幸福であると信じて、使命の全うを強制するパターナリズム。二つのパターナリズムが『リコリス・リコイル』を覆っている。その猛威は、物語開始からたきなに襲い掛かっている。

 たきなは、一話冒頭の銃取引現場での任務で、待機の命令を無視して、機関銃で射撃する。その命令無視により、喫茶リコリスへと左遷になる。彼女は、左遷イコール自分の価値の喪失のように思い、なんとかDAに復帰しようと奮闘する。

 そんなたきなに対して、三話にて、千束は、優れたリコリスが集まり、全リコリスの憧れであるDA本部で、彼女を優しく諭す。千束がたきなに告げるのは、ただリコリスとしての役目、つまり生きる意味、彼女自身の価値を失ってしまったたきなに、千束はたきなに会えてうれしいし、喫茶リコリコのメンバーやお客さんはたきなを待っていると伝える。彼女はリコリスとして殺しを続けること、DAに戻りたいと思うたきなの意志を否定しない。彼女は、DAから離れて、リコリス以外の選択肢があることを示唆するだけで、DAから離れて喫茶リコリスで働くことが正しいあるいは善い、とたきなに強制しない。たきなは彼女の言葉を受けて、喫茶リコリスでやってみる決断をする。

 たきなは、千束や他のメンバーと過ごす、喫茶リコリコで変化していく。彼女の変化が明白に描かれるのは、命令違反の行為である。彼女の命令違反は、一話と十一話では異なる。一話がそこに人質の仲間を救う意図はあったにせよ、あくまでも、リコリスの任務完遂に対して、最も合理的な手段を選択する。しかし、十一話の彼女は異なる。彼女は与えられた任務を放棄して、与えられる任務とは別に、彼女が今自分がやるべきことに向かって、千束の元へと走り出す。

 

父への抵抗 善と正義

 上記した二種のパターナリズムに抗う者が、守る者と破壊する者という相反しながら登場する。すなわち、千束と真島である。上記した私的なパターナリズムに抗うのが、千束であるのに対して、真島は公的なパターナリズムに抗う。物語で、画面で、対立関係を作り出された二人は、対立しながらも、パターナリズムに別の道で抗う。

 私的なパターナリズムが、才能の強要・幸福の強要・価値の強要と呼べるように、善や幸福に関わる。それに対して、公的なパターナリズムは、<善良な>市民を守るために、どのような治安維持組織を構築するのか、あるいはリコリスが行う事前予防は妥当か、犯罪者の人権はどうするのか、など人々が生きる社会的な空間、すなわち公共空間に関わる。この公共空間を統制する一つの価値が正義である。

 私的なパターナリズムは善や幸福に関わり、公的なパターナリズムは正義に関わる。主人公の千束がパターナリズムへの抵抗というコインの表側を構成するなら、裏側を真島が構成する。それに応じて、私的なパターナリズムが表、公的なパターナリズムが裏に対応する。本作は千束を中心として、彼女を助けてくれた救世主の存在、彼女の才能、やりたいこと重視の価値、そして喫茶リコリスのメンバーとの出会い、それらを比較して、彼女なりの生き方を選択する物語が、主旋律を織りなす。その主旋律を支える副旋律が相棒のたきなの物語である。彼女は十一話ラストで、旧電波塔でピンチの千束を救い、彼女に光を届ける。十三話では、真島をぎりぎりのところで倒した千束を、延空木から落下しそうなところを救い出す。また、吉松の思惑により、千束の心臓が破壊された九話では、たきなは動揺を表情から露わにし、十話以降、千束を死なせまいと、クールな彼女らしからぬ狂犬ぶりを見せる。三話で、千束が優しく温かく彼女を抱きしめながら、たきなに「君に会えて私は嬉しい」と率直な思いを告げるのに対して、千束を死なせないために、吉松サイドへ殺意を剥き出しにするたきなの姿は、表現される感情が正反対にもかかわらず、伝えられるメッセージは相似たものになる。「あなたに(生きて)会えてよかった」、と「あなたに死んでほしくない」は、生死の両極端に言及するにもかかわらず、「あなた(=たきなor千束)」の価値を最大限に肯定する。

 千束が夢想する世界は、ユートピア的なものだ。十三話、延空木戦闘中に、休憩を挟む千束と真島は、理想の世界について、話をする。千束が望むのは、みんな自分の信じている善いことをしている現状の世界である。千束はみんながみんなの優しさで、幸福に生きられる世界を夢想する。そこは、誰もが自分の思うように、大切な人々を大切にする。そのような優しさが包み込む世界になったらいいな、と彼女は考える。

 真島はそれに同意しない。彼が求めるのは、バランスだ。彼は、強弱、優劣、自然不自然、があれば、弱者・劣勢・不自然の味方である。しかし、それも弱者が弱者であるそのひとときだけである。彼が、公的なパターナリズムに抗えるのは、このような彼のバランサーを自認するバランスを最重要とする彼の信念ゆえである。千束が主旋律、たきなが副旋律に位置付けられる幸福を求める物語に対して、彼が位置するのは、バランス、正義を追求する対旋律である。

 彼は、より善い世界を望む改革者あるいは革命家ではない。彼の目には、より善い平和な世界は見えず、彼が目より鋭敏な耳で聞き取るのは、アンバランス・不釣り合い、一方に傾く天秤の歪で悲痛な音だけである。彼は革命家を気取らない。彼はより善い世界という理想を実現し、支配者となるきは毛頭ない。彼が仕えるのは、バランスの感覚だけである。それゆえに、彼は正義の使者たり得る。

 千束と真島、人々の思いやりで成り立つ善い世界とバランスが保たれた世界が対立するように、善と正義が、異なるもので時に対立するものであり、現代正義論において善と正義を区別して考えるのが、基本的な見解となっている。現代正義論の出発点とも言えるジョン・ロールズは、善に対する正義の優先性を説く。個々人は、自らが望む価値を追い求めるという善の構想を持って生きている。しかし、趣味も価値観も多元化した現代世界では、人々の善の構想は、一致が完全に不可能なほどに多様化している。それゆえに、異なる善の構想を持つ人々が共に暮らす公共空間で、ある特定の善の構想に依らずに、つまりどのような善の構想を持っている人間でも、受け入れることが可能なルールが定められることが必要になる。そうすることによって、異なった善の構想を持つ人々は、共生することができる。その際、価値観の相対性を理由に、ルールを拒否することはできない。これこそが、善に対する正義の優先性、の意味である。

 なぜ、現代正義論の話が、登場するのかというと、真島が体現するバランス至上主義の行動原理と、特定の価値によって運営されるパターナリスティックな社会秩序を破壊する彼の行動が正義の精神と中核において合致する部分があるからだ。彼の行動原理は、バランスを取ることにある。DAが暗躍する日本において、ある特定の価値観(=善の構想)を是として、国家道徳として暗に君臨する現状に、真島はアンバランスさを嗅ぎ取る。そこは、漂白された除菌された世界こそが是と、あらかじめ勝手に措定されている。

 真島は、アンバランスな社会にクーデターを仕掛ける。バランスを取り戻そうと、彼は破壊する。破壊者の彼が、破壊の中で抵抗を進める一方で、もう一人のアランチルドレン千束は許すことで、彼女の<父(=吉松)>が敷いたレールに抗う。

 「やりたいこと最優先」の彼女には、自分がやりたいことであり使命だと考えていることがある。それは、先天性の心疾患の自分が救世主に助けられたように、自分も誰かを助けられる救世主になることだ。そのような博愛的な使命から、彼女が夢想する世界は、みんながみんな周囲の人間を思い合って行動するある種の理想的な世界となる。

 彼女は救世主になるべく、誰も殺さない。先天性の心疾患で、生きられる年数が少ないことを社会・世界のせいにして呪ったりせず、彼女と関係ないところで殺しの使命を期待されても、すべてを許してしまっている。この過剰な許容、悪をも許してしまう善性に、真島が千束を気に入らない理由がある。すなわち、過剰な悪(利己主義)がバランスを崩すように、過剰な善(利他主義)もバランスを崩す。そのため、旧電波塔での過去の因縁、特別な才能の持ち主同志の事実と合わせて、千束と真島はライバルとなる。また、彼女の過剰な善性は、彼女が望む周囲の人間に優しくする世界を物語上で、見せてくれる。彼女のために、喫茶リコリコのメンバーは、彼女が吉松の手により余命を縮められた状況に怒り、彼女が選ばなかった吉松から心臓を手に入れ、その心臓を千束に移植する執刀医を手配する。彼女のために、許されない行為を取ってしまう状況に、苦さを感じながら、各人の千束への思いやりに、視聴者は胸を打たれる。

 彼女が真島と対比的に映るのは、真島が、日本が抱える嘘を知っていること、すなわち不自然なアンバランスさを知っているために、彼のクーデターを開始した。それに対して、千束は、彼女が決断を下すに必要な情報が隠され、さらにその情報を知らずに、彼女がやりたいことを決めていく。彼女は彼女自身を救った救世主を知らない。彼女はなぜ自分が選ばれ、救われたのを知らない。父親のように接しているミカと吉松の関係性を知らない。さらに真島との戦闘後、病院で目覚めた彼女は、沖縄へ飛び出し、なぜ彼女が生き続けているのか知らない。ましてや彼女の胸の中で動き続ける心臓が、どのような過程で手に入ったのか、彼女は知らない。十三話のみならず、これまでの話数でも彼女の笑顔は、嘘によって守られている。

 やりたいこと最優先の千束とアンバランスを破壊する真島は、対照的でありながら、似ているためにライバルたり得る。そして、根本的な点で、対立していないために、彼らはお互いをせん滅すべき憎き対象ではなく、ライバルのままで居られる。すなわち、善を求めることと正義を求めることは異なる。彼らは、より善き世界を望むことと不正を正すことは異なるが、似た様相を持っている。それゆえに、似た境遇のアランチルドレンはひかれあい、延空木で一線を交え、その戦いを経て、彼らの才能を発揮できる場所へと散っていく。

 

終わらない彼らの戦い

 パターナリズムを端緒に、千束と真島を対立させ、本作の伏在する善と正義の関係性を見てきた。十三話終わった彼らの様子を見ると、真島が正義を追求したが、ラストの包帯に覆われた姿に幸福さを認められないのは、正しさが必ずしも善に繋がらない事実が浮かび、それと同様に、千束が生存できたことには、手放しによかったと言えない余韻を感じさせ、善さには、必ずしも正義が伴うわけではない事実が証されている。だからと言って、単なる皮肉として、物語は消化不良で終わらない。

 ここからが始まりであり、彼らの戦いは終わらない。千束がいつか、救世主が吉松と知り、殺しの才能を買われて助け出されたのをミカから告げられたように、彼女の生が吉松の死によって成り立っていることが知るだろう。彼女が幸福な人生を歩むほどに、事実を知ったときの反動は大きく、そのときこそ彼女の真の戦いは始まる。同様に、真島も、彼のバランスへの執着から、彼のバランス取りは終わりを知らない。彼の気に食わなさ(感情)の根源にバランスがあり、彼はバランスに支配されている。旧電波塔襲撃時点での真島が、印象的にも目隠しをしているように、彼の姿は「正義の女神」の含意を体現している。彼は、破壊の対象に、誰もかれも差別しない。彼の攻撃の対象が、気に食わないという自己の感情にあれ、バランスから外れた状態に対する気に食わなさにあることから、「特定対象」への「彼」自身の感情は相対化される。この点に、測る対象の姿形によって差別しない「目隠し」が持つ無差別性の含意、等しきものを測る「秤」が持つ平等性の含意が現れている。彼は正義の女神の無差別性が体現するように、気に食わなさが自己の感情であることを理由にして、その感情を優先する利己主義を(利己主義)を排除する。要するに、自分がバランスを守りたいと思ったからではなく、自分とは無関係にバランスは保持されるべきだから、彼の破壊は実施される。付け加えて、千束の最終戦で爆弾を仕掛けていなかったように、千束がこの東京を守るために、命を落とすこと(可能性)を許さない。というのも、自分の命と引き換えに、東京を守ろうとする自己犠牲的な行為は、アンバランスであるからである。つまり、アンバランスであるため、彼は利他主義をも否定する。利己主義も利他主義も、アンバランスなために、彼はどちらも許さない。

 

 

 真島がバランスそれ自体のために破壊を行うために、今後もアンバランスを是正し続けるのと似たように、千束も彼女が思う善(幸福)をこれまでできなかったことを含めて追求していくのだろう。社会には、真島のように正義に基づいて、不正を正す意味で社会を破壊し、異なる価値観を追求する人々が暮らす基盤を追求することも、千束が夢想するみんなが周囲の人間に優しくすること、人間間で善き関係性を築くことも重要である。『リコリス・リコイル』自体も、正義に則るバランスによる破壊行為を行う真島の物語だけでは味気なく、虐げられたリコリスの千束が善い理想の世界を望むだけでは、余りに空想的な物語になってしまう。二人のライバルが、正義と善の異なる理想を求めること、さらに二人が対立しあうことによって、相乗効果を生まれるバディ物ならぬライバル物語成立したために、本作はたぐいまれな作品となったのではないだろうか。

 また、ライバル物として終わりを告げた本作は、主旋律の千束、副旋律のたきなはハワイへ旅立ち、対旋律の真島は負傷の姿で東京の街に消える。二グループは、二つに分かれる。分かれた先で、それぞれの信念に基づいて、彼らの戦いは終わらず、独立した旋律が聞こえてきそうである。