【アニメ考察】アイドルから女優へのサイコホラー—『パーフェクトブルー』

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  youtu.be●原案
竹内義和パーフェクト・ブルー 完全変態』メタモル出版、1991年

●スタッフ
監督・キャラクターデザイン:今敏/企画:岡本晃一・竹内義和/企画協力:大友克洋・樋口敏雄・内藤篤/プロデューサー:中垣ひとみ・石原恵久・東郷豊・丸山正雄井上博明/脚本:村井さだゆき/キャラクター原案:江口寿史/演出:松尾衡作画監督・キャラクターデザイン:濱州英喜/色彩設計:橋本賢/美術監督:池信孝/撮影監督:白井久男/音楽:幾見雅博/音楽プロデューサー:斎藤徹/音楽A&Rプロデューサー:堀正明/振り付け:IZUMI/音響監督:三間雅文/音響効果:倉橋静男サウンドボックス)

アニメーション制作:マッドハウス

●キャラクター&キャスト
霧越未麻:岩男潤子/日高ルミ:松本梨香/田所:辻親八

 

 

※この考察はネタバレを含みます。

 

 

アイドルと女優

 アイドルから女優への転身。現実の芸能界でもよくありそうな話が、本作『パーフェクトブルー』で、主人公の霧越未麻の恐怖体験を引き起こす一つのトリガーとなる。女優としての活動から生まれる苦悩とそこに、変質的オタクの凶行や偏執的な元アイドルのマネージャーの狂った行為が重なり、彼女は恐怖・自分への疑念から、現実と妄想を混濁させていく。

 彼女は錯乱していき、そして観客も誰が犯人なのか、複雑に張り巡らされた伏線によって、幻惑状態に落とし込まれる。幻惑状態がもたらすミスリードの連続には、本作が優れたサイコホラーたるゆえんがある。その幻惑状態の一端は、未麻から観客へもたらされる。未麻自身が精神に異常をきたし始め、彼女自身の発言や記憶も、彼女にとって、また観客にとっても信用ならなくなる。観客は、主人公として見てきた未麻すらも信用することのできない宙づり状態に置かれる。

 彼女が変化していくきっかけは、アイドルから女優への転身であった。もちろん、転身によって受けた外からの刺激、例えば「CHAM」ファンからの非難や事務所からの期待、撮影現場でのプレッシャーや彼女の望まない仕事など、は変化の一要因と言える。しかし、ここでは別の要因について問いを立ててみたい。それは、外からの刺激の根本にある「アイドルから女優への転身」自体によって、彼女の精神、もっと言えば内側の心のありように変化が生じたのではないか、と問いである。そのことを、アイドル・女優に関して、一般論のみで済ますのでなく、アイドル・女優それぞれでの未麻の映し方を分析することによって、『パーフェクトブルー』内でアイドル・女優の特徴を拾い上げ、さらにその特徴から未麻の精神が被った変化を関連付けていく。

 

先日、劇場公開していた4Kリマスターの感想については、以下ご参照ください。

nichcha-0925.hatenablog.com

 

何者かに「なる」

 冒頭のシーンでは、未麻の姿が、アイドル姿とプライベートが並行モンタージュで映される。アイドルとプライベートの姿を、繰り返し映すことで、未麻に関する本作の設定が端的に説明されている。

 モンタージュは状況設定を簡潔にするだけではなく、アイドルとしての未麻とプライベートでの未麻を、はっきり分かれた形で提示する。このとき、モンタージュは未麻という一人の人間について情報提示するが、アイドルとしての彼女とプライベートの彼女に境界線を引く。モンタージュは、アイドル時代の未麻を截然と分割しているように見える。

 

なりたいアイドル

 未麻の分割を、アイドルに引き付けて考えると、おもしろいことがわかる。未麻がアイドルから女優へ転身することに対して、事務所社長の田所と未麻のマネージャー日高ルミは、たびたび口論を繰り広げる。「女優として見込みがある(と言われている)から転身させるべき」と転身肯定派の田所、「歌が好きでアイドルになったのだから未麻の気持ちを考えて、アイドルを続けさせるべき」の転身否定派のルミ。両者の対立は、少しずつ二人に亀裂を生み、転身を推し進めた田所は、後々明らかになるように、ルミにより殺害されるに至る。

 先の展開は置いておいて、注目したいのが、ルミの言葉、「歌が好きでアイドルになった」という部分である。このセリフに、アイドル未麻を描く一端が見えてくる。彼女は歌が好きで、アイドルを志して上京していた。もちろん登場人物が秘める真の動機は不明だが、この内容を額面通り受け取れば、同語反復的に、アイドルになりたくて、アイドルをやっている。その意味で、彼女は何かのために、アイドルをするのではなく、彼女の意思に従ってアイドルになる。細かな点では、アイドルを仕事にする以上、いやな仕事もあるだろうし、彼女の意図ではない、外からつけられた演出も存在するだろう。だが、好きでなったアイドルだから、「アイドルをすること」、「アイドルに付随するいやなこと」は、彼女の真意と一致しており、グループ「CHAM」のアイドル未麻と霧越未麻はぴったりと一致していられる。

 彼女は、「アイドルをすること」以外の目的を主目的として、アイドルをやっているわけではない。そこに、ずれを感じ、「本当の」自分の気持ちは何か、という発想にはならない。幸福にもこのときの未麻は、自分が自分と一致しており、演じてアイドルをやっているのでもない。さらに、アイドルとしての未麻が、彼女の日常生活を侵食することもなく、常識的に仕事とプライベートが分けられている。アイドルとプライベートがしっかりと分かれながらも、彼女の意思、すなわち「アイドルをやりたい」という意思は、彼女の中で一貫している。つまりは、彼女が彼女としていられたのが、この時期である。

 このような、彼女が彼女としていられるアイドル時期から、転身後、徐々に変化していく。一言で言えば、事務所所属として、女優として、徐々に彼女は、「彼女として」いられなくなる。その変化について見ていこう。

 

何者かを「演じる」

 女優、あるいは俳優は、媒体を問わず、演技する、何かを演じることを職業とする人である。未麻も、劇中劇「ダブルバインド」で役を演じている。演じる者としての女優をどう描き、アイドルから女優への転身で彼女がどのような心情変化を被ったのだろうか。

 

演じることを見ること

 演じる者は、カメラ・観客の目の前で、何かを演じる。見られることを前提にしており、この点はアイドルと共通している。冒頭、まだ未麻がアイドルのときには、モンタージュを利用し、「未麻がアイドルであること」と「アイドルとは別の生活があること」が映し出されていた。

 女優転身後には、カメラ・主観(誰かの視点)・モニター映像など、劇中の視点が取り込まれる。映し出された映像を、生の映像だと思って観ていると、T.Bしてカメラ映像であることが分かったり、未麻自身が映像チェック用のモニターに映し出されたりする。そうしたときに観客にとっては、未麻と観客の間に一枚の隔たりを感じる。

 このときに、彼女は、霧越未麻でも「CHAM」の未麻でもなく、役を演じる女優未麻である。観客はたびたび劇中フレームを通して、彼女を目撃することになる。

 観客が隔たりをもって見るように、「演技をすること」によって、彼女も彼女自身に隔たりをもって眺める。与えられた配役に即して、話し方、身振り手振り等の身体動作、表情など、自分とは異なる「役」に自分を合わせていく。演じることは、彼女に、自分とは異なる「ある役になりきる自分」を直視させる。彼女のこうした自分への視点は、観客が劇中フレームを通して、彼女を見ることと類似している。隔たりにより、観客は彼女に完全な感情移入を向けるのが難しくなり、彼女も自分とは異なる自分の存在に迷いが生じる。どちらも、霧越未麻に対して、よそよそしさを感じるようになる。ただ、注意が必要である。あくまでも、観客と未麻の関係性は類似に過ぎない。フィクションとして見ている観客は、現実と妄想を取り違える未麻に、落差を感じる。この落差こそ、本作の「サイコ」の種であり、その種が芽吹く「ホラー」の一部を形成する。乖離は人を恐怖させる。

 上記したよそよそしさは、アイドルのときとは大きく異なる。アイドルのときには、やりたいことをやって自分とアイドルの自分が一致していたのに対して、女優のときには、演じる自分と演じられる自分にずれが発生していく。観客もきっぱり分かれたアイドルとプライベート描写にアイドル未麻を理解するも、未麻をフレーム越しに見たとき、何を望み、何をしたいのか不明なよそよそしい存在になっていく。

 よそよそしくとも、モンタージュで分割されたプライベートは、女優になって以後、彼女の部屋へと繋がれることになる。彼女自身の分裂は、女優として立つ演技の場だけではなく、劇中劇でもない現実のプライベートへと持ち込まれていく。

 

現実への妄想の流入

 冒頭のモンタージュと似て、女優とプライベートの分割に関して、印象的なシーンがある。それは、未麻が共演する女優、落合恵理をほめるシーンである。彼女ほめるセリフを未麻が言った後、画面には、カット前に落合と同じく共演する桜木健一が談笑する姿が映る。アクションの掛け声で、談笑する二人の俳優・女優からシリアスな劇中劇の刑事たちへと変貌する。「プロの女優」と未麻がほめるように、俳優自身と役に明瞭な線引きが感じられる、瞬時の切り替えである。

 「プロ」はそうであるが、未麻は転身後、徐々に現実と劇中劇、あるいはもっと広く妄想が混濁していく。アイドルのときには、きっちり引かれていた境界線が、女優と役の間であいまいになり、またそこに役が辿る展開や「アイドルとしての未麻」に関連した妄想が入り込んでくる。

 未麻は、演技中に妄想にふけり、NGを出してしまう。演技中に、連続殺人犯と思い込んだ内田守を見つけ、驚いてしまう。また、物語が進展してくると、演技中に妄想を持ち込むのではなく、妄想・劇中劇が現実に入り込み、彼女を侵食していく。内田を見つけた同じ場所で、今度は居もしない内田の姿を見て驚く。彼女の混乱が極度に高まり、女優と役がほぼ一体となる「ダブルバインド」の取り調べシーンを経て、侵食は決定的な描写を得る。すなわち、未麻は、クランクアップ後に、テレビ局の廊下を歩いていると、落合に出くわす。カメラも回っていない現実であるはずの廊下で、彼女は落合が演じる麻宮曈子の姿を見る。こうして徐々に続いてきた侵食が、彼女の現実にまで到達する。彼女は、現実に妄想を見ている。

 そして、ルミにそそのかされた内田が登場し、さらに彼女が恐れていた恐怖の正体が明らかになり、物語はクライマックスへ通じていく。

 

アイドルから女優への変化・変態

 ここまでで、未麻が、アイドルから女優へ転身する中で、どのような変化が起き、それをどのように見せているかを見てきた。アイドルと女優で、見られることは共通するにせよ、自分が完全に一致しているアイドル、演じる自分と演じられる自分の分裂が生じる女優、アイドルから女優へ転身することで、未麻の心には変化が起きる。その変化が、アイドルのときには守られていたプライベートの現実へ持ち込まれて、霧越未麻の苦悩へ拡大・悪化の一途をたどっていく。最初に書いたように、未麻が自分を信用できなくなり、自分ではない自分が犯行を起こしたのかも、と考えていくことは、本作のサイコホラー要素を形成する重要な部分である。『パーフェクトブルー』は、偏執的なマネージャーやオタクなどの他の要素と結びつき、最上質のサイコホラーに仕上がっていると言えるだろう。

 

女優未麻の誕生・ハッピーなエンディング曲

 最後にエピローグについてである。エピローグは、女優として活躍しているだろう未麻が入院するルミの見舞いに来るシーンである。自分をアイドル未麻と思い込んだルミを、未麻は複雑な表情で見守る。彼女が病院を去り、車に乗り込んだ後に、エンディングが流れ出す。明るいポップな曲調が、状況にアンマッチに挿し込まれる。その歌詞に、未麻の現状や未麻とルミの関係性を、読み込むこともできそうだが、ここではアンマッチさに言及して本ブログを締めたい。

 アンマッチさは、曲のポップさに比して、事件の悲惨さはもちろんだが、エピローグに映るルミの症状の深刻さに大きな乖離があることに起因する。だが、この曲調がこのシーン直後のエンディングを飾るべきだとすれば、ルミの症状の深刻さを、肯定的に捉えることも一つの解釈だろう*1。そうであるなら、深刻さを払しょくできるかもしれない。ルミは元アイドルで、未麻に女優への転身ではなく、アイドルを続けるよう勧める。そうした彼女は、彼女の望むアイドルの一人、「CHAM」の未麻に完全になりきる。

 二つの変態が生じる。未麻はアイドルから新米女優、そして女優へと変態を遂げる。彼女の見舞いの姿は、すべて演技なのかどうかわからないが、ルミの姿を見て彼女が狼狽することはない。他方で、ルミは自分の望むものに、プライベートも関係なく精神に変態をきたす。そうした意味で、仕事もプライベートもなく、彼女はなりたかったアイドルそのものに、完全になってしまう。

 フィクションを峻別して演じ、女優として躍進した未麻、なりたかったアイドルというフィクションに十全になったルミ、両者にとって幸福なラスト*2がそこにはあったのではないだろうか。

 

*1:あり得るもう一つの解釈は、このアンマッチさが、本作にさわやかな終幕を許さず、不穏さを保ち続けることに一役買っている、というものだ。これも一つの解釈だが、本ブログでは、アイドルと女優に焦点を当ててきたので、二つに関連した別の道を探った。

*2:補足だが、「両者にとって」幸福なラストなのであって、観客にとっては別の可能性はある。こういう風に解釈をしようが、ラストがメリーバッドエンド的であることに変わりはない。