youtu.be●原作
はまじあき(芳文社「まんがタイムきららMAX」連載中)
●スタッフ
監督:斎藤圭一郎/シリーズ構成・脚本:吉田恵里香/キャラクターデザイン・
総作画監督:けろりら/副監督:山本ゆうすけ/ライブディレクター:川上雄介/ライブアニメーター:伊藤優希/プロップデザイン:永木歩美/2Dワークス:梅木葵/色彩設計:横田明日香/美術監督:守安靖尚/美術設定:taracod/撮影監督:金森つばさ/CGディレクター:宮地克明/ライブCGディレクター:内田博明/編集:平木大輔/音楽:菊谷知樹/音響監督:藤田亜紀子/音響効果:八十正太/配給:アニプレックス
制作会社:CloverWorks
●キャラクター&キャスト
後藤ひとり:青山吉能/伊地知虹夏:鈴代紗弓/山田リョウ:水野朔/喜多郁代:長谷川育美
公式サイト:「劇場総集編ぼっち・ざ・ろっく!」公式サイト (bocchi.rocks)
公式X(Twitter):アニメ「ぼっち・ざ・ろっく!」公式 (@BTR_anime) / X
※この考察はネタバレを含みます。
概要
2022年10月からテレビ放送し、好評を博したテレビアニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』が、総集編となって、劇場公開されている。前編に当たる『劇場総集編ぼっち・ざ・ろっく! Re:』(以下、前編)が6月に公開済みで、現在公開中の『劇場総集編ぼっち・ざ・ろっく! Re:Re:』(以下、後編)は後編に当たる。
テレビアニメから映画化するにあたって、前編はテレビアニメの1話から8話まで、後編は9話から12話までを扱う。前後編どちらも、テレビアニメで盛り上がりを見せた二つのライブ、ライブハウス「スターリー」での初ライブと文化祭ライブを映画の盛り上がりポイントとして取りあげている。前後編の総集編を合わせて、主人公の後藤ひとりが、伊地知虹夏・山田リョウ・喜多郁代三人とバンド「結束バンド」を結成し、二つのライブを成功させていく道程を辿りなおすことができる。
とはいえ、テレビアニメの内容を辿り直すところに、劇場総集編を観る楽しみがあるのではない。前後編ごとに、一本の映画に構成するため、それぞれ一つの軸が定められている。前編であれば、ひとりがバンドをする理由を見つける物語であるし、後編であれば、バンドとしてひとりが学校で活躍する物語であり、学校でひとりがバンドとしての活躍することを郁代が支える物語でもある。テレビアニメの流れから切り離され、映画としての軸を与えられた『ぼっち・ざ・ろっく!』を観返すのも楽しい。
また、総集編という作品の形式では、テレビアニメなどから追加された新規カットの存在によって、作品の印象も変わってくる。新規カットの追加によって、後編の中心人物となるひとりと郁代、二人のやり取りが新たな見え方をするようになる。
練習と補習の新規カットを読み解く
新規カットとして言及したいのは、本編中盤、文化祭前に差し込まれる、ひとりに秘密でリョウが郁代にギターを教える練習風景とひとりの補習風景が、カットバックで映されるシーンである。何気ないショットの挿入だが、このショットが挟まることで、文化祭ライブでの二人のやり取り(アドリブで時間を稼ぐ郁代と彼女の方を驚いて振り向くひとり)、から文化祭ライブ後に、郁代が「後藤さん」から「ひとりちゃん」へ呼び方を変えることも、テレビアニメと違った印象を受けた。もっと正確に言えば、テレビアニメよりも、郁代側の心情や呼称変更の動機がわかりやすくなった。
文化祭ライブの前に、ひとりに秘密で郁代がリョウとギター練習していた、というのは、テレビアニメでも、原作漫画にも存在するエピソードである。両者ともに、郁代が虹夏といるリョウに個人練習をお願いするシーンはあるし、特に原作漫画では、二人が練習する姿も描かれている(原作漫画の該当箇所は下図参照)。ただ、テレビアニメでは、郁代が練習する姿は描かれていないし、ひとりが補習を受ける姿も描かれていない。
ここで、後編において、郁代からリョウへのお願いのセリフのみでなく、練習風景・補習風景が映像として示されることは、単なる描写以上の意味がある。二つの意味に言及したいが、一つ目、時間間隔と時間感覚の話、二つ目が、二人のギターの技量差とひとりの学校での活躍の話、である。
一つ目、時間間隔と時間感覚の話。テレビアニメから映画へ媒体が変わったことに応じて、見る側の時間間隔・時間感覚も、変化が生じる。テレビアニメ十話終盤に、郁代がリョウに秘密のギター練習をお願いするところを映して、映像は空へと流れていき、空の映像の中で、雲の有無という空模様を起点に時間を進ませて、同じ十話で文化祭一日目へ時間が経過させられる。そして、文化祭一日目に当たる十一話を挟んで、十二話開始と同時に文化祭ライブが開始する。そのため、ひとりが郁代のギター上達に気づくのに、十一話でのスタジオ練習時の予兆を挟むと言えども、十話の練習のお願いから十二話の文化祭ライブでのひとりが気づくまで、見る側では二週間が経過している。視聴者が次話を待つ時間経過により、ギター上達にかかる時間が確保されている。テレビアニメでは、このお願い時点からギターをひとりに秘密で練習する描写がないため、テレビアニメ特有の各話間の時間が、ギター上達に必要な時間経過へと変換され、ギター上達の時間、ひいては練習量を担保している。他方、映画では、当然次話待ちの時間がないため、ギター上達に必要な時間を何とか捻出し、見る側に表現する必要がある。そこで、新規カットの挿入は、郁代のギター上達を説得力あるものにする上で大きな役割を担う。
二つ目、二人のギターの技量差とひとりの学校での活躍の話。先ほどの話が、新規カットを挿入すること自体の効果だったなら、次に言及するのは、新規カットシーンの組み合わせについてである。新規カットには、郁代がギターを練習する姿だけでなく、補習を受けるひとりの姿も映っていた。ひとりが補習を受ける設定は、原作にはないもの*1だが、テレビアニメでは存在する。そうはいっても、テレビアニメでは、10話で郁代がリョウに練習をお願いするとき、ひとりがスタジオ練習にいない訳を答える形で、補習の事実が郁代の口から伝えられるのみだった。そのため、それほど大々的な事実ではなかった。口頭のみだった補習の事実が、映画では郁代がギターを練習するショットとカットバックで映像として提示されるよう変更された。さらに、その映像は、二人の姿に対照的に映るよう配置されている。一方の郁代の練習風景がショットごとに、明らかな変化があるのに対して、他方のひとりの補習風景がいつも似た構図で日をまたいでいるかも明らかでなく、変化に乏しく見える。二つの風景は、明瞭な対比に置かれている。一バンド活動を取ってみれば、成長という変化を遂げる虹夏と足踏みという変化していないひとりが描かれる。ギターの教える側・教えられる側だった二人が、ギターの技量で並ばないにしても、その距離が少しは縮んだように思わせてくれる。バンド活動の観点で言えばそうなのだが、このカットバックの構図を広く捉えれば、バンド活動と学校生活に区切られている。ひとりにとって、この区切りが取り払うのが、文化祭のライブである。そして、ひとりがこの区切りを取り払うことこそ、郁代が望んでいたこと(例えばライブ中のモノローグ「皆にみせてよ。本当は・・・、後藤さんは凄くかっこいいんだってところ!」*2 )でもあり、後編の大きな軸である。
人を魅了するギターの腕を持ちながら、学校ではぼっちを極めてきたひとりに、学校という場でも活躍してほしいことと願い、ステージをともにするのがひとりの裏返しのような郁代だった。ギターの腕はまだまだで、学校で人気者の郁代が、文化祭という学校行事のライブで助けることに、大きな意味を持たせることになる。
新規カットの内容に関して、主にはテレビアニメとの違いに導かれて、ギターの技量の話、バンド活動と学校生活の話で整理してきた。新規カットのおかげで、テレビアニメでは見ることができなかった、文化祭前の時間を覗き見ることでき、さらには文化祭ライブやひとりと郁代のやり取りに、テレビアニメとは違った見え方を与えてくれる。物語上、郁代のギターが上達した説得力を与えてくれることで、そのギターのアドリブを聞いたひとりの驚きを実感できる。そして、そうした形で、ひとりのトラブルを救った郁代が、バンド活動(ギター上手い/初心者)/学校生活(ぼっち/人気者)と二つの領域で同時に、ひとりとの距離を縮められて、その二人の縮められた距離間が、「後藤さん」から「ひとりちゃん」へと呼び方を変えるところに鮮明に現れることになる。郁代がどのようにギターが上達したか、そしてライブ前の二人の距離間とその後の距離間がどうだったのか、が郁代の側も分かるように、丁寧に描かれている。もう一度、結束バンドの物語を辿りなおす以上のおもしろさが、この後編にはあると言えるだろう。
そして、上述してきた練習風景/補習風景の対比は、新規カットに類似した原作のコマと比較することで裏書できる。原作の該当コマを見ると、一コマを左右に分割して、左に郁代とリョウ、右にひとりを配置して、それぞれが並行して練習している姿が描写されている。
まず、大前提、この四コマ自体が、バンド活動に向かっている。しかも、四コマ目で、ギターを弾くひとりの姿が大写しとなり、次ページから文化祭に突入する。そのため、原作漫画は、文化祭ライブへ向けた練習という形でバンド活動を主に描きつつ、郁代・ひとり二人の学校での文化祭だから、ギターソロを特別に任されるひとりの視点に比重が置かれている。対して、後編は、その部分がひとりと郁代のショットに分割され、補習している/練習している二人の視点に比重が置かれている。また、前者がバンド活動一色であるのに対して、後者はバンド活動/学校生活という対比が見られる。原作漫画との比較から見ても、後編で見た、ギター上達の成長/停滞、バンド活動/学校生活、という対比が明らかに見て取れる*3。
後編の始まりは、下校するひとりの背中を見送る郁代の視点で始まっていた。学校で後ろ姿を追う視点を起点に、ライブハウスで演奏姿を横目で見る視点へ繋がれて、前編の終わりから後編の始まりへと接続される。そして、文化祭ライブで、郁代の上達したギターの音色は、演奏中のひとりの視線を獲得するに至る。そうした意味で、郁代とひとりの関係性において、郁代側の視点を補完しているのが、後編の魅力ともいえる。
後編の終わりは、ひとりの幼少期に、一人ぼっちで先生に連れられる映像が流れる。テレビアニメ一話で見せられた光景は、総集編において、ひとりに仲間ができたことを描く総集編の出発点として、後編のラストに置かれている。ひとりにはもう仲間がいる。そして、彼女が仲間やメンバーと出会い、バンドを結成する物語は終わった。原作にもある通り、「結束バンド」の物語はその先へと進んでいる。彼女のたちの新たな道をアニメでも、見届けられることを切に願う。
*1:原作では、郁代に付きっきりで教えてもらったおかげで、赤点を回避している。
*2:はまじあき『ぼっち・ざ・ろっく!』第2巻(電子版)、株式会社芳文社、2020年、p.64
*3:この原作漫画とテレビ・劇場版含めてアニメの違いは、先の展開をどこまで描く予定か、の違いに依存していると思われる。
※以下、テレビアニメ、及び後編に続く、原作漫画の展開に触れているため、ご注意ください。
原作第二巻で、結束バンドは文化祭ライブを終え、後日、スターリーでライブをすることになる。そのライブ内で、かねてよりひとりが運営する演奏投稿名義の「ギターヒーロー」のファンである音楽ライターぽいずんやみに、ひとりがギターヒーローとばれてしまう。やみはひとりを褒める一方で、結束バンドの実力を疑問視し、挙句の果てには、結束バンドを本気でプロを目指すバンドとは思えないと言い放つ。彼女の言葉に触発された四人は、十代限定のロックフェス(「未確認ライオット」)に挑戦する。
先ほどの原作と後編のカット比較を振り返ると、前者がバンド全体の技量向上や文化祭ライブへの熱意が見られるし、加えて、そこでの中心にひとりがいるし、後者は、逆に補習を受けているからひとりのギターが成長せず、郁代のギターが上達することに注目される。そのため、原作はひとりと郁代の間の実力差は縮まっておらず、文化祭ライブでは、郁代のギター上達にひとりが驚いているのに対して、後編では、成長しないひとりと成長する郁代で、二人実力差が少しでも縮まったような見え方をする。
こうした見え方の違いは、先ほどの原作の展開(ひとりの実力が頭一つ抜けていること、今後プロを目指してバンド活動をすること)前提にした四コマ、それ以前を前提にしたテレビアニメ・後編の展開により、お互いの前提によって強く規定されているように感じた。