【アニメ考察】実存主義的四畳半コメディ―『四畳半タイムマシンブルース』

©2022 森見登美彦上田誠KADOKAWA /『四畳半タイムマシンブルース』製作委員会

 

アニメで「四畳半」と続けば、連想は膨らむ。それもそのはずで、本作は、『四畳半神話大系』と似た由縁を有する作品である。原案・脚本に『四畳半神話大系』の脚本:上田誠、原作に同作の原作:森見登美彦で、監督には同作で演出を担当した夏目真悟が担当する。

 『四畳半神話大系』からの連続性を感じさせつつも、そのストーリー構造から飛び出して、同作のキャラクターたちが上田誠原案の『サマータイムマシン・ブルース』という別世界の設定でドタバタコメディを繰り広げる。タイムマシンというギミックを用いながら、コメディと「私」の選択のドラマ(それに付随する恋愛要素)を強めていた『四畳半タイムマシンブルース』の魅力を見ていきたい。

 

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●原作
原作:森見登美彦上田誠(角川文庫/KADOKAWA刊)

●スタッフ
監督・夏目真悟/脚本:上田誠/副監督:山代風我/キャラクター原案:中村佑介/キャラクターデザイン:伊東伸高・西垣庄子/オリジナルアニメコンセプト:湯浅政明/絵コンテ・演出・夏目真悟・山代風我・モコちゃん・木村拓/作画監督:伊奈透光・名倉靖博前場健次・石山正修・吉原拓也色彩設計:中村絢郁/撮影監督:伊藤ひかり・関谷能弘/特殊効果:原田詳子/編集:齊藤朱里/音楽:大島ミチル/音響監督:木村絵理子/音響効果:中野勝博/音響制作:東北新社/アニメーションプロデューサー:崎田康平

アニメーション制作:サイエンスSARU/配給:KADOKAWAアスミック・エース/製作:「四畳半タイムマシンブルース」製作委員会

●キャラクター&キャスト
「私」:浅沼晋太郎/明石さん:坂本真綾/小津:吉野裕行/樋口師匠:中井和哉/城ヶ崎先輩:諏訪部順一/羽貫さん:甲斐田裕子/相島先輩:佐藤せつじ/田村くん:本多力ヨーロッパ企画

公式サイト:『四畳半タイムマシンブルース』公式サイト (asmik-ace.co.jp)
公式Twitter『四畳半タイムマシンブルース』公式(森見登美彦・著、上田誠・原案) (@4andahalf_tmb) / Twitter

 

 

※この考察はネタバレを含みます。

 

 

コメディと実存

 作中でも、言及されるように、時間は人間に対する普遍的制約であり、その制約を取っ払ってしまうタイムマシンは、人類すべての悲願といってもよい。それゆえに、タイムマシンに関わるフィクション作品は古今東西無数に存在する。本作では、いかにもなタイムマシンが登場する。畳の土台に、中央部には座椅子、座椅子の前面にはダイヤル式の操作盤が設置されている。このタイムマシンを起点にして、下鴨幽水荘の面々のタイムトラベルドタバタコメディ劇が展開される。

 

話術的コメディ

 本作は、ドタバタコメディらしく、次から次へと新たな展開が巻き起り、そして下鴨幽水荘の面々が問題を巻き起こしていく。その怒涛の展開から、笑いの種を蒔かれていく。その種別を確認していく。

 一つ目は、登場人物たちの会話に存する。屈折した「私」の独白での毒づき、あるいは独特な言い回しや慣用句をもじって使う、森見節が炸裂している。ただ、この点は、原作小説『四畳半タイムマシンブルース』に由来する部分が大きい。主には原作小説から引き継いだ要素であり、そこに演技が付加されることで、本作では毒づきはより毒々しく、独特な言い回しはより耳当たりよい印象を強めている。

 

身体的・関係性的コメディ

 会話の応酬だけに、笑いの種は尽きるわけではない。二つ目は、映像によって見える身体的な動き、そこに見える関係性に依る。冒頭にある私と小津のクーラーのリモコンを壊したことを巡る争いは、会話の応酬とは異なる。暑さの余り、裸の二人が、小津の反省の無さから平手打ちの応酬を見せる。平手打ちの快音に合わせて、子気味よくショットが変えられ、感覚的な快を生じさせる。このシーンでは、見て楽しいだけでなく、「私」と小津のくだらないやり取りを見て、『四畳半神話大系』との連続性を実感して、なつかしさを感じ、彼らの物語の再始動を実感する。

 また、「私」と小津の対立以外にも、樋口師匠と城ケ崎の対立も別の角度から描かれる。樋口師匠が設定した九十九年前に、城ケ崎がタイムマシンと共に、タイムトラベルしてしまう。九十九年前には、下鴨幽水荘の土地は沼だった。タイムトラベルして、いきなり沼に突き落とされた城ケ崎は命からがら、現代へ帰ってくる。帰ってきた彼は、「謝れ」と樋口師匠に迫るが、タイムトラベル前の凛々しい姿はそこにはなく、泥まみれの姿に、凄みと滑稽さが重ね合わされている。樋口師匠は、飄々と、城ケ崎を受け流す。直後、城ケ崎がリモコンを持って、タイムトラベルしたため、彼が持っていたリモコンの話になる。だが、彼は沼との格闘の末、リモコンを落としてしまう。そこで、樋口師匠が城ケ崎に対して、返し刀で「謝れ」と迫る。二人が同様の構図で、同様の言葉を発し、因縁の二人の対立がコミカルに描かれる。そして、その対立の内容が、平等に実にくだらなくばかばかしい。しかし、それこそがよい。

 

タイムトラベルによるコメディ

 これに加えて、タイムマシンによるタイムトラベルも、コメディ要素を引き立てている。三つ目は、本作の根幹となるタイムトラベルに起因する。それは、このタイムトラベルによって、物語のピースが埋まっていくのと類似した仕掛けになっている。例えば、先の城ケ崎が落としたリモコンは、後に、無為に庭に穴を増やす下鴨幽水荘のケチャにより、九十九年ぶりに掘り起こされる。結末が明かされれば、彼らの行為そのものも歴史に組み込まれており、小学生じみた対立そのものも行われるべき滑稽な運命だったと分かる。

 また、銭湯でタオルを被った謎の三人組の正体、樋口師匠の愛用シャンプー:ヴィダルサスーンを盗んだ犯人の正体、未来の羽貫さんがタイムパラドックスお構いなしに、過去のみそぎのメンバーに嬉々として演技指導し差し入れをした事実、などなど構成の綿密さに驚いたのは束の間、事の真相の滑稽さに思わず、笑みがこぼれてしまう。

 そして、タイムトラベルによって、古本市に出かける明石さんを追う(過去の)「私」を追う(現在の)小津を追う(現在の)「私」という奇妙な構図が成立する。ここでは、観客が、この構図を総覧できるために、より一層のおかしさがある。観客は、それぞれの人物を見ることができ、かつ彼らの追跡構図も認識することができる。だが、ここには、それとは別のおもしろさがある。現在の「私」が体験した明石さんストーカー劇を、観客は「私」と一緒に体験するが、ここでも同様に過去の「私」を見る現在の「私」とこの時間を追体験する。「私」は視覚的に自己の行為を反省させられ、さらに過去の出来事について、本来ありえない仕方で、他人からとやかく指摘される。それも、「私」の仇敵であり、理解者でもある小津にである。

 

四畳半で実存を防衛する

 上記のような過去の反省を経た後に、現在の明石さんから、送り火に誘われたのは、未来の「私」からだと、現在の「私」は教えられる。現在の「私」が過去の明石さんを送り火に誘えば、辻褄が合うと言われ、「私」はその通りに、明石さんを誘う。

 「私」の振舞いは、見ようによっては、明石さんの指示に従い、世界の辻褄合わせに従っただけの行為に見える。だが、自然現象とは異なり、彼の行為には葛藤が存在する。彼は、その葛藤を手掛かりに、自分が取った行為を他ならぬ現在の「私」の行為だと識別し、その行為の選択の重みを心に刻み込む。こうすることで、タイムパラドックスにより危険に晒された実存を二重の意味で守り切ることができる。

 

 

 『四畳半神話大系』の懐かしい彼らの姿を見たいという思いでも、彼の変わらぬ雰囲気が見られるために楽しめる。しかし、本作の魅力はそのような限定的な魅力のみではない。本ブログでは、本作のコメディ要素を三つに分け、それぞれを簡単に紹介し、タイムトラベルによって生じた実存の防衛について、触れてきた。特に後者では、同じ時間のギミックを用いながらも、『四畳半神話大系』で「私」は変わらぬ運命すなわち過去に肯定的意味を見出したのに対して、本作では過去を、実存を構成する所与として肯定的に捉え、かつ未来は所与ではなく開かれた自由として捉えている。すなわち、過去の辻褄を合わせることで所与を所与として保存しながら、同時に所与を前提に自己の行為の責任を引き受けることで自由な実存を守っている。

 四畳半と時間、四畳半の「私」と宇宙の実存に、大気を飛ばして接続してしまう。自然と繋がってしまうから、不思議である。壮大でかつちっぽけ、まじめで滑稽な『四畳半タイムマシンブルース』の世界を楽しんでみるのはいかがだろうか。