【アニメ考察】「儚い恋」と「固い絆」の凝縮―『あさがおと加瀬さん。』

©2018 高嶋ひろみ新書館/「あさがおと加瀬さん。」製作委員会

 

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●原作
原作:高嶋ひろみ

●スタッフ
監督・絵コンテ・演出:佐藤卓哉/キャラクターデザイン・作画監督坂井久太/プロップ設定:郷津春奈/色彩設計:岩井田洋/美術監督平間由香/美術設定:松本浩樹/撮影監督:口羽毅/編集:後藤正浩/音楽:rionos/プロデューサー:寺田悠輔/制作プロデューサー:新宅潔

アニメーション制作 - ZEXCS

●キャラクター&キャスト
山田結衣:高橋未奈美/加瀬友香:佐倉綾音三河木戸衣吹井上茜寿美菜子/先生:浅野真澄/コーチ:内山夕実/?:落合福嗣

公式サイト:「あさがおと加瀬さん。」アニメ公式サイト (asagao-anime.com)
公式Twitter「あさがおと加瀬さん。」アニメ公式 / Kase-san Anime Official (@asagao_anime) / Twitter

 

 

※この考察はネタバレを含みます。

 

 

あらすじ

「どうか加瀬さんが、私の事を好きでありますように――――…。」
高校生の山田は、緑化委員の内気な女の子。
同じ学年の加瀬さんは、陸上部のエースで美人な女の子。
山田が植えたあさがおをきっかけに、
言葉を交わしたことがなかったニ人の距離が少しずつ縮まっていく。
恋と青春の輝きだけを、ギュッと詰め込んだ物語。

(『あさがおと加瀬さん。』アニメ公式サイト「Introduction」より)

 

 高嶋ひろみのマンガ原作に、『あさがおと加瀬さん。』シリーズは制作されている。本ブログでは、アニメーションクリップ「キミノヒカリ」には触れずに、OVAあさがおと加瀬さん。』に言及する。

 『あさがおと加瀬さん。』は、高校生の山田と加瀬さんの、青春の恋模様を描いた恋愛アニメである。恋人である彼女たちの、幸福に満ちた様子を、二人の物語に感じられる光を取り出して、一方で光の物語を展開し、他方で光自体を形態化・現象化させることで、光に満ちた画面の作品に仕上がっている。本ブログでは、二人の物語を作品内から、引き出すことに努め、またその物語を包み込む光と陰の描写について言及していく。

 

学生百合の光と陰

 本作の大きな特徴は、前述した通り、山田と加瀬さんの高校生百合の物語と光の表現にある。高校生百合の、光多めの「光と陰」を扱いながら、二人の様子を緻密にしつらえられた光が二人を照らし出す。そして、二人の関係性における光の側面と視覚現象の光は、最終的に純粋さという性質において交わる。

 

光を取り出す

©2018 高嶋ひろみ新書館/「あさがおと加瀬さん。」製作委員会

 『あさがおと加瀬さん。』の、光の部分とスパイスとして陰の部分で構成される。二人が付き合っていることを、心から幸せに感じている様子からも分かる。二人の恋愛は、幸福で「きれい」なものである。「きれい」であるのは、彼らの付き合いに自体に否定的な見解が提示されていないことに基づいている。山田と加瀬さん以外に名前の付いた登場人物は、二人の理解者である三河しか登場しない。クラスメイト・家族・既存の価値観など社会から二人が隔離され、二人だけの物語に閉じている。こうすることで、二人だけの夢のような時間が可能になっている。

 二人の閉鎖した関係は、二人の恋愛模様を凝縮(無菌化)することになる。というのも、二人だけの世界はすべてが二人にとってすべてが許され、加えて普通百合物に付随する「常識」との対決を回避して、二人の感情の交わりのみ見せることができるからだ。

 閉鎖性の観点で付加されるのは、二人が付き合った状態から物語がスタートし、「二人がなぜ付き合ったのか」、「どのようなところに惹かれたのか」を具体的に語るシーンがないことである。またさらに言えば、それを示唆するような具体的なシーンもない。恋愛物に付属する上記問いに対して、回答がないことにより、作品内で「好き」というお互いの感情が掛け値なしに露わになる。というのも、上記問いに回答することで、二人の関係性に限定を付すように感じられるものであり、「〇〇だから、好き」「〇〇してくれたから、好き」と受け取られかねないからだ。

 また、二人が付き合った起源を知らない私たちは、安易に起源の事実から二人の関係性を評価・断定することができず、二人の関係を知るには、本編を注視・傾聴するしかなくなる。「なぜ好きなのか、付き合ったのか」という起源の問いに回答が与えられないことで、私たちは画面を注視・傾聴して初めて、現在の二人の振舞い・言葉から二人の関係を、偏見なしに知ることができる。私たちも余談から離れて、二人の現在に閉じ込められることができる。

 登場人物の制限、常識との対決を回避、そして起源の問いを語らないことから、二人だけの世界という閉鎖性を生み出し、それにより本作での二人の思いの純度を高める。同時に二人の関係が幸福な関係となるのも関連してくる。

 また、二人の思い・関係性の幸福さは、上記理屈っぽい話をせずとも、二人の表情の変化(赤面、笑顔など)や交わされる言葉、立ち居振る舞いから自ずと発見できる。中庭でガーデニング中の山田が加瀬さんの足音で満面の笑みで振り向くところ、加瀬さんのために何日も喜んでお弁当を作る山田、加瀬さんを家で迎える山田が準備が整って凛として「よし!」と言いながらもすぐに甘い顔になってしまうシーン、山田の笑顔を優しく見つめる加瀬さんの柔らかな表情、山田を求めながらも山田のことを一番に気遣う加瀬さんの様子、などなど二人の関係性を感じるシーンは多々ある。

 明るく幸福な様子の二人から流れ出すのは、光だ。本作は、映像としても光に満ちている。光の飽和は、光に関する現象・描写となって画面に現れる。列挙すれば、流れ星、夜空に輝く星、飛行機の点滅、窓からの逆光は、直接に光を描き出し、じょうろから出る水の反射、虹、夕日、水たまりの反射、蛇口の反射、玉響、フレアは、間接的に光を描き出している。後者の光の内、特に玉響・フレアはレンズ効果により生じるので、より演出の度合いが高く、重要なシーンや山田の主観ショットで用いられている。

 以下光の描写について、三つの例を挙げる*1

 

玉響の一例(アニメ公式Twitterより)
©2018 高嶋ひろみ新書館/「あさがおと加瀬さん。」製作委員会

窓からの逆光(白色)と光のもやの一例(アニメ公式Twitterより)
©2018 高嶋ひろみ新書館/「あさがおと加瀬さん。」製作委員会

フレアと夕日の一例(アニメ公式Twitterより)
©2018 高嶋ひろみ新書館/「あさがおと加瀬さん。」製作委員会

 各現象・表現が合わさり、二人の関係に光を差し入れる。本作の光の演出は、単に大量に光の現象・表現を用いることによって、二人の関係を光で照らす、あるいは、光の表現を収集した標本的な意味があるに尽きない。本作の本領は、光と反対者の陰と合わさり、アニメーションクリップ「キミノヒカリ」*2以上に、二人の関係性に深みを作っていることだ。

 以上より、次節にて陰の部分を簡単に紹介し、その次の節にて、光と陰の協同効果、およびそこから派生する純粋さに言及していく。

 

分相応な陰と二人の試練

 本作で、陰は光とは異なり、あるべきところに置かれている。光が過剰に演出的に舞台へ登壇させられているのに対して、陰は分相応な働きをこなしている。とはいえ、まったく演出的な使用がないか言えば、そうではない。その点は、次節にて述べる。

 さて、この陰の分相応さは、二人の関係性の試練に対応している。ただ、この対応は、二つの役割が対応しているだけで、試練のシーンに必ず映像に陰が入るという意味ではない。

 二人の試練は三つ訪れる。第一に、山田が加瀬さんのためにお弁当を作るも、タイミングが合わず人気者の加瀬さんにお弁当を食べてもらえないことによる、すれ違い。第二に、修学旅行で一緒にお風呂に入れなかったことによる、すれ違い。第三に、加瀬さんが東京の大学に進学して、離れ離れになることに対する山田の不安。前二者が「相手が自分のことを好きなのか」という試練だったのに対して、後者は「これから二人の関係をどうしたいのか」という試練である。三つの試練が、分相応な陰と対応しているのは、二人の試練が二人から生じているからだ。分相応な陰が、その性質の通り光が当たらない部分で役目を全うするのと同様に、二人の試練は、二人の感情から端を発するものである。陰は演出的必要から過度に用いられず、二人の試練も他人の価値観から生じたものではない。要するに、両方、外部から押し付けられたものではない、ということだ。

 試練を乗り越え、二人の関係は輝きを増し、絆は強固なものとなり、陰は光の輝きを増している。

 続いて、光と陰が混じり合い、生み出す効果について見たい。

 

光陰はピュアさに帰結する

 ここでは、光と陰の効果的な利用について、二シーンを取り上げたい。

 第一のシーンは、修学旅行で訪れた水族館のシーンだ。前日に、山田が恥ずかしさのため、加瀬さんと一緒に大浴場に入るのを拒否してしまい、二人の仲に不穏な空気が流れる。翌日に、暗い水族館の館内で、二人が別々のところで、水槽を眺めている。館内は水族館らしく暗く、水槽からは光を受けている。館内と合わせて映るのが、水槽の中の様子だが、水槽を映す映像は、強い光が水中に、もやを掛けている。多様な魚が描かれているにもかかわらず、水族館の主役の魚たちがほとんど見えない状態になっている。

 陰は水族館の暗さを表現しているため、本来的な様子だが、光は過剰に演出され、水族館の魚から、二人の不穏な空気へ主役の座を奪う。光により魚を視認しづらくし観客の注意を二人の空気に集中させ、二人の間を流れる不穏な空気を、水槽の光に対比される館内の陰によって、効果的に伝えている。

 そしてこのような状況を、山田さんの手を引いて呼び出す加瀬さんの強引さと、その状況に涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにした山田の純情さが打破して、二人は気持ちを確かめ合う。

 第二のシーンは、加瀬さんが東京に試験を受けに行く日、加瀬さんを見送った中庭でのシーンである。駅に向かう加瀬さんの背景には、燃えるように鮮やかな夕焼けが広がる。その後、明度が低い三カット、①グラウンド・校舎、②野球場ベンチ前、③上方のネットとポールの後に、これ以前の明度の蛇口のカットが挟まる。ここでは、試験に向かう加瀬さんと学校に残った山田の対比が効く。

 中庭内側から中庭に向かう山田が映る。中庭側は校舎に遮られ陰を作っているが、山田が立つ場所は西日に照らされている。ショットが変わると、山田視点になる。陰になっている中庭は、暗くいつも彼女がガーデニングしていた場所とは別の場所のようである。加瀬さんが去って、「仕方なくなった」山田の感情を、明度の落ちた三カットと中庭の陰で表現する。さらに、その三カットと中庭の暗い部分から光を見せ、直後の中庭の陰を際立たせる。

 がらんとした中庭を見て、思わず山田は手に持つほうきを捨てて、走り出す。走り出した彼女の背景には、陰影が二色に分けられ、印象に乏しく見える校舎がそびえたつ。

 がらんとした様子と加瀬さんへの思いに駆られた彼女は、駅まで走り、加瀬さんが乗車予定の新幹線に飛び乗り、一緒にいたいと思いを伝える。構内には白の光を残し、二人が乗る新幹線は、夜の闇の中、少ないが確かに光を灯しながら走り去っていく。

 幻想のような白い光を残して、一寸先は闇かもしれないが、二人で今後の人生を進んでいく様子が分かる。

 上記のように、光の要素をこれでもかと盛り込みながら、ここぞというシーンでは陰を効果的に利用して、あくまでも二人の関係の光に焦点を当てて、関係性の表裏を描き出している。

 

純粋さの交わりと蛇足的余談

 二人の物語と視覚現象の光は、ともに内容・形式面で主題となっている。両者に共通し、物語の帰結する先は、純粋という概念だ。二人の物語は、二人のお互いを思い合う「きれいな」物語に仕上がっており、ピュアな物語を形成しながら、光を表現する白は色の純粋形を用いている。ともに、純粋性を具えている。

 この純粋性は、ともするとこのような物語はアニメの中だけという意味で、純粋培養された恋愛(=フィクションの中だけの恋愛)と指摘されるかもしれない。同様に、光は白ではないという指摘も想定できる。それゆえに、本作の恋愛、ことに百合の同性愛はただ、フィクションとして娯楽的にのみ享受できるのみで、単なる娯楽にすぎず、現実には何の影響与えず、何も残さないのだろうか。

 この問いには、否と回答したい。たとえ、純粋培養された中だとしても、二人が構築する幸福な関係性に、少しでも胸を打たれるのなら、その感情を基に、視聴した同性愛者も異性愛者も共感の精神を引き出すことができる。この作品で排除された「常識」との対決、あるいは和解はこのような共感をもって行われるのではないだろうか。本作から得られるものは、「儚い恋」であり「固い絆」を体現する二人への尊さと共に、尊さから帰結する、上記した闘う力を有する共感の精神なのではないだろうか。

*1:陰、及び光と陰で言及するシーンについては、アニメ公式Twitterに画像がなかったので、是非とも本編を見ていただければと。

*2:アニメーションクリップ「キミノヒカリ」は、光の饗宴とでも形容できる。まさに二人の戯れ=光の戯れと言える。