【アニメ考察】老若男女に向けられたアニメーションー「夢みるキカイ」(『Genius Party』)

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●スタッフ/
監督・脚本・絵コンテ・キャラクターデザイン・作画監督湯浅政明/音楽:竹村ノブカズ美術監督:勝井和子/CGI監督:川村晃弘/アニメーション制作:STUDIO4℃

公式サイト:Genius Party - ジーニアス・パーティ (studio4c.co.jp)

 

 

※この考察はネタバレを含みます。

 

 

「夢みるキカイ」概要と誰向けの物語?

 「夢みるキカイ」をどのような観客をターゲットにしているか想像してみるのは楽しい。登場するキャラクターは簡単な線の組み合わせでデザインされ、独特な色使いと動きを見せてくれる点は、子ども向けに感じるが、短編集で劇場公開作品という製作・作品公開の手段やよくよく見ると皮肉めいた設定はアニメに慣れ親しんだ大人向けと言える。
ターゲットの問題はさておき、「夢みるキカイ」は、STUDIO4°Cによって、独創性に富む監督たちの作品が集められた『Genius Party』所収の一短編である。本作はある意味で不思議な作品であり、また別の意味では親しさや懐かしさを揺り起こす作品でもある。
 物語は、幼少の主人公が養育ハウスから追い出され、外の世界に飛び出すところから始まる。外の世界で、最初に出会う炎のモンスターなど様々な生物に出会い、別れを経験する。そして、年を取った主人公は、再び養育ハウスに戻ってきて、次の赤ん坊を養育する養育ハウスの養分になる、という物語である。
 ストーリーの骨組みは明快だ。だが、会話や世界観設定の説明が皆無のため、ストーリーから読み取れる意味やそこから帰結する感動が抽象的なものになっている。それと対比的なのが、物語上登場する生物の見た目や動きから得られる、目で見て判然としたおもしろさだ。この分かりやすい面白さが、アニメーションが動くことを純粋に楽しんでいた幼少期を懐古させる。この点で、観客にノスタルジックな感情を引き起こすことになる。
 上記の「抽象性」と「ノスタルジー」を踏まえて、本稿では二点を確認していく。第一に、ストーリーの骨組みが明快であるのに反して、そこから得られる意味や感動が明快でなく、抽象的であることによって、どのような効果を生むのか。第二に、分かりやすい動きやキャラクターのデザインから得られるおもしろさが、ノスタルジーを感じさせるのはどのような点でか。
まずは、上記した「抽象性」と「ノスタルジー」を生む基盤部分を二章で確認する。シュールでユーモラスなキャラクターたちと彼らが生きる非情な世界がその基盤に当てはまる。

 

シュールでユーモラスかつ非情な世界

シュールでユーモラスさと愛らしさと

 この作品には、愛らしさが宿っている。主人公は外の世界で、様々な生物に出会い、別れる。現実には存在しない空想的な見た目をしており、独特な動き・振舞いを見せる。そこには、シュールさを包含しながら、思わず頬を緩めてしまう愛らしさがある。
 主人公が最初に出会うのは、炎の生物だ。細い骨格に炎を纏っており、主人公に食べ物を要求するが、体を覆う炎で焼き焦げてしまう。細い骨格を動かして、ぎこちない仕方で主人公を追ってくる姿には、愛らしさを感じられる。
 次に主人公が出合うのは、四足歩行の生物(以下、四足歩行)だ。芋虫のように、胴体が円形の部位が数珠つなぎになっており、その胴体に体の全長よりもはるかに大きい四足を持つ。顔には、ハンドルのような触覚が付いている。四足歩行は主人公を背に乗せ、大股で歩き始める。四足歩行が歩く際、構図がロングショットに変わり、進行する四足歩行が長い足を柔軟なしなりを持って歩を進めている姿が画面一杯に占める。決まったリズムで、しなりを持って足が動く姿には、心地よさを感じる。
 四足歩行との出会いの後、主人公は緑の生物とも出会う。主人公より一回り小さく、顔が細長で、顔の先端には細長い筒状の口が伸びている。頭の頂点には、双葉が生えている。緑の生物との出会いは、主人公が四足歩行の上から、放尿しているときだ。四足歩行の足元に緑の生物が登場し、左右に調整を行って、主人公の尿を筒状の口に注ぎ込む。口を起点にして、尿に合わせて、ちょこちょこと動き回る姿にも愛らしさを感じるが、尿を取り込でいることを思うと、シュールさも感じられる。
また、緑の生物は主人公の便を取り込む。顔全体を膨らませて咀嚼し、取り込んだ食物を、体を膨張させながら嚥下して、彼もまた排せつする。地面に落ちた排せつ物から双葉が芽生える。自分の身体の幅もあるものを体内に取り込み、体を膨張させながらほおばる姿に愛らしさを感じるが、それが主人公の便であり、それが緑の生物の排せつ物になり、そこから地面に双葉が芽生えるのもシュールに感じる。
 上記してきたように、主人公と出会った生物たちはその身体的特徴・生態・動きにシュールさなユーモラスさや愛らしさを含んでいる。だが、「夢みるキカイ」の世界は、そのようなキャラクターたちが住む牧歌的な世界ではない。

 

非情な世界

 「夢みるキカイ」の世界は、シュールでユーモラスさや愛らしさを具えた生物が存在するとともに、その世界は非情さを見せ続ける。その非情さは主人公が幼少期に追い出される様や主人公たちが旅する荒野に現れる。特に、非情さが前面に押し出されるのが、主人公が何度も経験する出会った生物たちとの別れである。
 ぎこちない仕方で主人公を追ってきていた炎の生物は、主人公に近づこうとするも、空から飛来し地面に固着した水の塊によって、主人公が気付いた時には、炎を消失させ、黒い骨格だけで静止していた。主人公がその骨格に触れると、音もなく崩れ、骨格の形すら失われてしまう。
 次に出会った四足歩行とは、本作の中盤で別れる。主人公・四足歩行と緑の生物の三人で荒野を進んでいる中、四足歩行の進む先に突如蟻地獄が現れる。主人公と緑の生物は蟻地獄から逃れるが、四足歩行は蟻地獄に嵌ってしまう。四足歩行は蟻地獄から脱出しようと四本の懸命に足をもがくが、さらさらした砂で登ることができず、抵抗むなしく穴の下へと沈んでいく。ここでの動きは、荒野を歩いていたしなりがあり柔軟な足の動きではなく、何とか砂の上で踏ん張ろうとしている固さを持った足の動きになっている。四本の足が埋まった後も抵抗を続ける四足歩行が、砂地獄の主に食われるシーンは、クローズアップで私たちの目を釘付けにし、非常な現実が突き付けられる。
その後も、主人公と緑の生物は二人で旅を続けるが、四足歩行との別れはその後にも尾を引く。二人で荒野を進む姿も、三人での旅と同様にロングショットで描かれる。小さな二人の旅では、画面下中央に二人が画面を占めるのは、ごく一部だけだ。四足歩行が居たときには、画面一面を四足歩行が占めており、どこを見ても四足歩行が目につく構図だった。それゆえ、主人公と緑の生物が二人の画面からは、珍妙な動きで、私たちの視線をさらった四足歩行がいないことが一目瞭然にわかる。加えて、二人の旅は、小さな歩幅で淡々と進んでいくために、過去にあった愉快さが失われ、悲哀感漂う姿が描き出されている。
 緑の生物との別れもゆっくりとだが、その瞬間は突如訪れる。四足歩行と別れた後しばらくして、緑の生物が地面に刺さって、何の反応も示さなくなる。ある夜、近くの植物が光を放ち始める。光に呼応して、緑の生物も光り始め、頭に生える双葉を羽ばたかせ、放光する植物に向かって飛び去っていく。走って追いつけない主人公は道中で拾った羽を取り出して、飛んで追いかけようと懸命に羽ばたく。彼の必至な思いと練習の成果から、羽ばたきの動きが微妙に変化していき、遂に地面から離陸する。彼の羽ばたきは最初、腕を振って、腕に装着した羽で空気を掻くだけだったのが、浮力が発生したときには、腕の付け根から羽の先までが一つの部位となり、一つの運動の起点を作り出すように、羽ばたき方が変化している。そこから力強い羽ばたきが生まれ、離陸を遂げる。
 離陸した彼は、光を放つ植物に向かう。植物の口をこじ開け、何とか体内に入り込む。だが、植物の体内で、力尽きている緑の生物を救い出すことができずに、戻るしかなくなってしまう。体内から這い出て、地面に落下した衝撃で彼の羽はぼろぼろになってしまった。
 最後には、彼が立ち会うのは、彼自身との別れだ。緑の生物と別れた後、画面が暗転する。時間経過が示唆され、全身つぎはぎだらけのぼろを纏い、傷だらけの主人公が登場する。荒野を歩く彼の目に見えたのは、かつて彼が育ち、追い出されたハウスである。ハウス内には、一人の赤ん坊がベッドに寝かされている。彼はミルクを飲み一息つく。赤ん坊にも哺乳瓶でミルクを飲ませてやる。
彼は外に出て、ハウス足の外壁に設置された人型の穴の前で立ち止まる。彼はその穴に身を捧げる。そうすると、何かのメーターが目盛りを進ませ、傾いたハウスが正常な位置に戻る。
主人公との別れは、主人公自身の別れでもあり、観客にとっての本作との別れになる。本作の中で、出会いと別れが繰り返される。別れた生物はそれぞれが違う生物の糧になっている。だが、他者の糧になることは、シュールでユーモラスな側面と乖離する非情さがあった。

 

抽象性とノスタルジー

 「夢みるキカイ」が持っているシュールでユーモラスさ(愛らしさ)と劇中世界の非情さを見てきた。
 陽と陰の側面を合わせ持つ世界を、たった十五分のアニメーションで顕現させるのが「夢みるキカイ」である。相反する側面から感じる愛憎の思いを、同時に持ちうる土台をこの作品が作りあげる。この二つの要素は、登場キャラクターたちを掘り下げることなく、達成されている。本作は主人公や登場する生物や施設が何であるか、素性を語らない。聞こえるのは意味不明な音声と、描写されるのは、彼らの動きだけだ。ここから、効果として生まれているのが、抽象性とノスタルジーである。このことは、上記した抽象性とノスタルジーの要因となっている。

 

抽象性と私の代入可能性

 彼らの正体・素性が語られないことから、彼らの物語が個人的な物語からは逸れているように感じる。主人公には、個体を指示する名前がないし、感情・思いなどの内面情報、素性や過去などの外面情報が語られ明かされることはない。身体情報も、線と簡単な図形でキャラクターの造形されている。すなわち、主人公は命を持ち身体を具備した具体的な人物だが、主人公Aという名の代数に感じられる。というのも、主人公を満たすべき内実(内面情報・外面情報・身体情報)が欠如あるいは不足しているため、その主人公Aはどのような人物でも代入可能性に開かれているからだ。また、それは他の生物も同様だ。あの世界に存在する種・個体として唯一無二性が感じられない。
 上記したように、登場する生物に唯一無二性が欠如していることによって、本作からは抽象性を感じられる。この物語が、珍妙な動きについ笑みがこぼれたり、別れを見て悲しみに心打たれるなど、観客の心に迫るとしても、画面の中の具体的な登場人物たちの心情に感情移入し、心打たれる仕方とは異なった仕方を取っている。それは、抽象性から引き出される。つまり、「この世界ってこうなっているのだ」、「生物・人間はこういうもの」という大きな命題の形で、私たちに訴えかけてくる。その命題の射程は、そ「夢みるキカイ」の世界に留まらず、私たちの世界にも類似した構造があるのかもしれないと、想像させる。想像を促すことが、本作の「抽象性」から、私たちの心に迫る仕方である。

 

ノスタルジーと純粋な好奇心の懐古

 また、ノスタルジーの正体は何なのか。なつかしさとはどのようななつかしさなのか。アニメ内で主人公が多様なものに純粋な好奇心を露わにし、それを見る私たちは彼らの奇怪な動きにおもしろさを感じる。それら二点が合わさった感覚、すなわち純粋な好奇心と動くだけで喜ぶ感覚を私たちは知っている。見るものすべてが新しく、心をときめかせ、興味のままに突っ走ってしまう幼い頃の記憶だ。
 ノスタルジーを感じるのは、目新しいもの・奇怪なものに私たちが出合ったときの心の動きを私たちに提供してくれるところからだ。むしろ、そのような心の動きを強制するほどの、力強い表現が見られる。強制力が発動するのは、記憶を喚起するよう言葉で諭さずに、私たちの記憶をデジャヴのように、引っ掛かりを作り出すことに由来している。

 


 この物語自体が幼少期とその後空白のときを経た大人の段階を描いている。それゆえに、この体験の部分を抽出して、観客に振りまくのは本作のテーマに適っているのではないだろうか。
 「夢みるキカイ」の魅力を十全に味わうためには、幼少期と幼少期後を経験する必要があるのかもしれない。子どもが本作を見ても、アニメーションの純粋な動きそのものを楽しめる。だが、そこから一歩進んで、ユーモラスなキャラクターやキャラクターの動きと世界に宿る非情さを認識できる段階に至って、本作の魅力を味わい尽くすことができるのかもしれない。子どもにとっては、純粋な好奇心とアニメーションへの感動の強烈な喜びを感じ、大人にとって、過去の感情を懐古し、また「夢みるセカイ」の世界は現実の世界と似ているのかもしれないと思考を巡らす楽しみを享受する。その意味で、本作は子どもも大人も楽しめる作品で、明確に世代のターゲット層が決まっていない、幅広い世代で楽しめるが、不思議な作品に仕上がっていると言えるだろう。