【アニメ考察】二人のポップスターに捧げる追悼劇ー『犬王』

犬王

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●スタッフ
原作:古川日出男平家物語 犬王の巻』/監督:湯浅政明/脚本:野木亜紀子/キャラクター原案:松本大洋/音楽:大友良英総作画監督亀田祥倫・中野悟史/キャラクター設計:伊東伸高/メインアニメーター:松本憲生/監督補佐:山代風我/作画監督: 榎本柊斗・前場健次・松竹徳幸・向田隆・福島敦子名倉靖博・針金屋英郎・増田敏彦・伊東伸高/美術監督中村豪希色彩設計小針裕子/撮影監督:関谷能弘/編集:廣瀬清志/音響監督:木村絵理子/音響効果:中野勝博/録音:今泉武/音響制作 :東北新社/歴史監修:佐多芳彦能楽監修:宮本圭造能楽実演監修:亀井広忠/琵琶監修:後藤幸浩

アニメーション制作:サイエンスSARU/配給:アニプレックスアスミック・エース/製作委員会:“INU-OH” Film Partners

●キャラクター&キャスト
犬王:アヴちゃん/友魚:森山未來足利義満柄本佑/犬王の父:津田健次郎/友魚の父:松重豊

公式サイト:劇場アニメーション『犬王』 (inuoh-anime.com)
公式Twitter【公式】劇場アニメーション『犬王』熱狂上映中 (@inuoh_anime) / Twitter

 

 

※この考察はネタバレを含みます。

 

 

『犬王』の「ミュージカル・アニメ」たる「ミュージカル」要素とは何か?

 『犬王』について始めるに当たって、一つの問いから開始したい。すなわち、本作の「ミュージカル・アニメ」たる「ミュージカル」要素とは何か?いわゆる典型的なミュージカルといえば、全編を音楽に乗せてセリフを歌い上げる形式が想像され、音楽に乗ったセリフによって、物語が進行していく。

 この一般的なイメージからすると、『犬王』がミュージカルと呼べるのか迷いが生じる。扱っているのは、琵琶法師の琵琶伴奏の物語りと能楽の二つの伝統芸能である。二つが明確にミュージカルの一種として包含することができるのかはわからない。上記したように『犬王』の触れ込み*1から見るに、『犬王』では二種の伝統芸能にミュージカルとしての大胆不敵な解釈を行っている。この心意気は原作である訳古川日出男平家物語 犬王の巻』と類似を結んでいる。

 琵琶法師の友魚と能楽師の犬王の二人が、アニメーションによって魂を吹き込まれ、二人の物語が紡がれる。ここでは、そもそもどのようにミュージカルとして解釈したかを見ていきたい。ポイントとしては、本作品の「楽しさ」を形作る能楽・平曲そしてアニメーションに共通する娯楽の要素と死者への追悼という観点で見ていきたい。

 

伝統芸能と庶民の娯楽の自由さ

 『犬王』の原作は、古典『平家物語 犬王の巻』である。中世室町時代に、盲目の琵琶法師と異形の能楽師を中心人物としている。歴史物でかつ主要人物が派手な武士や華々しい貴族や天皇家でもないため、分かりやすくかつ取っ付きやすい設定であるとは言えない。しかし、本作はそのような取っ付きにくい諸々の設定を完全に理解せずとも、誰もが楽しめる作品に仕上がっている。

 まずもって『犬王』の魅力は、能楽・琵琶の音などの音楽と映像が融合したアニメーションが持っている娯楽性と自由さがある。それに加えて、『犬王』に表現媒体であるアニメーションが生み出す「自由」の特徴を見ていく。

 

能楽の自由さとアニメーションの自由さ

 『犬王』の「楽しさ」に通じるのは、自由さにある。そして、その自由さは登場人物の友魚の琵琶と犬王が生み出す能楽にも通じる。また、メタ的な広がりを見るなら、原作の訳古川日出男平家物語 犬王の巻』の現代語訳の大胆さと類似する大胆な『犬王』の解釈に関連していく。

 『犬王』全体を支える自由さは、彼らの立場・状況から生まれる様々なしがらみからこの時代の人間たちを解き放つ。比叡座の犬王は、平家の亡霊の声を聴くことによって、新たな物語を授かりそれを演じた。幼少期に失明した友魚は、音を聴く世界から新しい琵琶の音を作り出すようになる。犬王は自らの呪いを浄化していくし、友魚は見えない世界から見たいように見る世界を自らの音で作り出す。

 また、犬王の能楽と琵琶法師の友魚が作り出す舞台は、市民たちをも巻き込んでいく。それは、娯楽として彼らの心を解放する側面もあり、その最たるものが犬王・友魚に影響された市民が踊りだすところだ。友魚が琵琶の音に合わせて、歌い始めたように、観客もその音に身を預ける。犬王が異形のものとして踊り始めたように、身体に障がいを(不自由さ)持った人たちが杖を放り出してブレイクダンスを踊ったり、松葉杖を使ったダンスを見せる。二人のパフォーマンスが観客へと伝播していっている。

 このように主要な登場人物たちが自らのしがらみから解き放たれている。解放の意味で、自由が効力を発揮している。

 これと期を同じく見えてくるのが、参加という観点だ。伝統や社会規範から自由になったところに、樹立する・作り上げるなどの琵琶の音や能楽に参加する余地が生まれる。彼らの舞台は、犬王と友魚や後に友有座となる面々だけで、作り上げられているわけではない、彼らの舞台は観客をも巻き込み、その渦の中で成立している。もちろん二人の主人公たちのカリスマ性を着火剤としながらも、それと同程度に彼らが火を点けた熱源そのものが舞台を照らし熱している。

 観客によっても舞台が作られる側面が生まれたゆえんを掘り下げる。それは感動が生まれる仕方に左右されるのではないかと思う。その仕方とは、第一に双方向的なパフォーマンス、第二にそのパフォーマンスに誰もが参加できる仕方である。

 通常であれば見聞きする者と見られる者が固定化した能楽の中に、双方向性が生まれる。この点は、舞台を見る人々の波立つ様子がフレームにしっかりと収められていたところからも分かる。この描写は、舞台を見てどう感じるかを表現するための描写ではない。序盤には、この二人の舞台の熱に浮かされた者たちの様子に着目していたが、彼らの舞台が好評を博するようになると、特に演目「鯨」あたりから、舞台の観客の反応を映し出すためにスポットするのではなく、観客一人ひとりが作りあげる動きが汲み取られる。

 第二に、誰もが双方向的なパフォーマンスに参加できる観点である。ここでは特に、観客の舞台の受け取り方に特徴がある。ある対象を知覚し、その知覚によって感動が起こるというモデルを想定する。これは知覚の後に、知覚者の持っている知識・価値観に照らしあわされた後、その因果的帰結が感動という形で生じる。しかし、『犬王』の劇中で能楽の観客を感動させたのは、このような仕方ではないと主張したい。というのも、音に合わせてリズムをとる、コールに対してレスポンスする、犬王の踊りから踊り始める、などこれらは判断の隙なく、知覚と同時的に存在しているのではないからだ。ここでは、心的に行われる判断がブラックボックスの状態で、知覚とそれへの反応を純粋に楽しむ姿勢が見せる。大橋や舞台で表現されているものが何を意味しているのか、あるいはどのようなジャンル・伝統・集団に属するのか、あるいは自分の価値観に合致するかなどとは無関係に、ただ音に体を委ね、犬王のコールに無意図的に反応し、犬王の身体表現や舞台装置の動き・変化に凝視・凝望することによって、知識や好みに無関係で普遍的な身体的喜びが観客を取り囲んでいる。

 また、二人の舞台には、市民もろとも解放し、彼らの舞台に参加させるところがあったが、それ以外にも二人の舞台には自由さがある。能楽や後の能楽が様々な芸術を摂取することによって、己を形作ってきたように、犬王が演じる能楽も現代の視点から種々のものを摂取して、新しいものを形成していく過渡期を見せる。この取り込み方も、自由奔放としか言えない自由さを見せていた。そしてその自由さを形容するには、「おもしろさ」というよりも、「楽しさ」を与えると言ったほうが適切だ。次に「楽しさ」とは何か、「楽しさ」を支える『犬王』の特徴を見ていこう。

 

観て聴いて楽しい

 『犬王』の率直な感想としては、前で「楽しさ」だった。独特な映像を見ることの楽しさ、あるいは現代の要素を取り込み、史実からはありえない奇想天外な能楽を作り出し、驚きと共に、「楽しさ」があふれる作品だった。加えて、劇中の市民が犬王の能楽に手拍子や踊りで参加していたように、観客も『犬王』に参加している。そのような実感が持てた。

 「楽しさ」を作り出し、『犬王』に参加しているのは、映像的な特異さや物語的な感動も確かにあるが、重要なのはそれらと関連する、映画館の外では(アニメーションを見ることによってしか)できない体験をさせてくれるところにある。キーワードは体験である。ここでは『犬王』での体験を大きく二つに分けて、二つそれぞれの特徴的なシーンを紹介する。

 一つは、他者の知覚を体験することであり、もう一つは、熱狂そのものを体験することである。そして後者を古典に浮かぶ現代的な要素が支えている。

 前者で注目すべきは、友魚の視点である。友魚が失明してからの旅では、彼の視点を借りて観客は道中の外界を見る。彼は目が見えないために、目以外で外界の情報を得る。このことがイメージとして明快かつ過度に単純化されずに映像化されていた。先ほど彼の視点と言ったが、正確には、彼の脳内で顕在するイメージと言ったほうが良いかもしれない。

 彼の失明時のイメージは暗闇か白い闇かである。そこに聴覚や触覚を駆使して、彼の外界を彼は「見る」。失明している友魚の視点を借りることで、私たちは「目以外で見る」体験を視覚的に行うという逆説的な体験ができる。ここには物語を読む・聞く・見ることで、他人の人生を追体験する際の、他人の知覚を経験するという原体験が存在している。なぜなら、人生の追体験とは、他人の知覚・感情・思考を体験することであるならば、後二者の出発点たる知覚のみを体験しているからだ。それゆえに、これこそが追体験の純粋な楽しみと言えるだろう。

 友魚が犬王と出会い、犬王の物語を語りだしてからは琵琶法師として頭を丸めて、新しい物語を始めた際は、長髪に前髪を掻き上げた状態で、彼の眼がむき出しになり、また外界の表現も失明時の体験という表現は鳴りを潜める。

 ここから始まるのが、もう一つの体験、すなわち「熱狂そのものの体験」である。次の主役は、犬王と友魚や友有座、そして劇中の観客が巻き起こすド派手で音楽と共に舞台が進行する音と演舞の狂乱である。そして、前述したように、この作品がミュージカル映画である条件がここにあるし、観客の全身を高ぶらせる映像と音が見出せる。このパートがこれまた前述した自由さの象徴・頂点と言ってもよい。

 『犬王』の観客は、舞台と劇中観客を覆う熱狂の局外に存在している。私たちは、手拍子もせず、コールにレスポンスもせず、踊りだしもしない。ただ「しない」だけではなく、それは禁止されている。その禁止状態の中、『犬王』の観客は、劇中の観客と同じ意味で舞台に参加しないが、その熱狂自体には手を触れている。「犬王」の舞台に参加できなくても、『犬王』には参加している。『犬王』に参加することと、「犬王」に参加するとは別のことである。というのも、観客は「犬王」と同時代人ではないし、『犬王』という作品を見ているのであって、「犬王」の新奇な舞台を見ているのではないからだ。『犬王』の観客が局外者である点については、三章の追悼・慰霊に関わってくる。

 『犬王』の観客は、彼らを覆う熱狂の一員となる道は閉ざされている。あくまでも観客はその時代に起きた熱狂という時代の大きな潮流を体験している。その時代の者たちが流れに積極的に呑まれる中、私たちは第三者としてその場に居合わせ、その波を最もよい形で乗りこなすことができる特権を与えられている。

 犬王と友有座の絶頂期を超えると、熱源に冷や水をぶっ掛けられる様相となる。比叡座からの圧力、朝廷からの友有座解散命令などの自由からの迫害が進行していく。

 『犬王』の観客をそのように位置づける他の要素は、現代的な要素が用いられていることだ。ミュージカルパートでは、古典的なもの、現代的なものが合わさりあって、一つの舞台を構成していく。友魚が三条大橋で始める路上ライブの様相や観客が手拍子で参加する演目「腕塚」、観客にコール&レスポンスを求める演目「鯨」など双方向の舞台が作られる。また、友魚が徐々にビジュアル系に自分を演出してパフォーマンスを行ったり、犬王が舞台演出として「腕塚」における機械仕掛けの演出から、「鯨」光を使ったプロジェクトマッピング、「竜中将」で用いられるライトアップ・水上を駆ける舞台装置・バレエの舞など当時ではありえなかった演出が、現在地点から施されている。

 この現代的要素が組み込まれることによって、『犬王』の観客は素朴な熱狂への参加に続く道が絶たれる。なぜなら、現代的な要素を見ることで、史実とは違う物語がそこにあり、否が応でも画面の中のものがフィクションと意識させられるからだ。観客が登場人物に対するべったりとした同一化を回避できていることは、上記したように、熱狂の渦の中にいる登場人物たちと同一の位置にいるのではなく、あくまでも彼らと彼らを覆う熱狂を、俯瞰して見るよう観客に促している。

 とはいうもののそのような演出がマイナスの効果を生み出していないのがこの作品の魅力になっている。というのも、通常当時の時代でありえない演出を行うことによって、観客にその物語が作り物に過ぎない印象付け、物語への没入性を阻害する恐れがあるが、『犬王』ではそのようなことは起こっていないからだ。このことの一つの理由は、二章一節で記した意味を介さない身体的な楽しさは、物語が真実らしいか否かを無視して観客を魅了する。そして、二章二節で記した知覚の追体験も同様である。これらは、物語が真実(史実)であるか否かに関係しない*2ゆえに、『犬王』がフィクション性を意識させようが、無関係に観客を魅了する。

 『犬王』は、設定の一要素として、ファッション的に過去の要素(ちょんまげなど)を含みこむという作品ではない。『平家物語 犬王の巻』を原作にとった、歴史物としての物語である。そして、そのような歴史物を成立させようとする場合、作品の作り物感を避けるためには、その当時に起こりえたことを史実の範囲内で表現することが求められる。

 しかし、先ほど見たように、『犬王』現代的要素を劇中劇の演出に使用している点で、「史実の範囲内で表現する」制約から逸脱している。制約から逸脱する『犬王』を歴史からかけ離れた、野放図にイメージの狂乱にさせず、『犬王』は別の仕方で歴史に繋ぎ止められている。その仕方により歴史物としての側面を生かし続けている。その仕方とは、熱狂を第三者的に観客が見る視点に似ている。すなわち、現代から過去への回顧的な追悼・慰霊の視点である。

 

娯楽と死者の追悼(慰霊)

 この作品では、琵琶法師も犬王も犬王の父も、亡き平家の者たちからインスピレーションを得て、物語を語り始める。琵琶法師たちは、平家が滅亡に至るまでの物語を勇姿・悲劇を悲哀調で描き出した。犬王も直に平家の亡霊の言葉を聞き、彼らが語る物語を能楽の形で語り上げる。犬王の父は「古い面」の力によって、琵琶法師が集めた亡き平家の物語を奪い、その物語を能楽の形で表現する。

 彼らは亡き者たちの声を掬い取って、それを別の仕方で人々に語り継いでいる。そのことは平家の亡き者たちが抱える無念を和らげる。彼らの芸術(芸)は、死者への追悼・慰霊の性質がある。そして、この点が『犬王』に現代の要素を取り入れ、かつその物語を歴史に繋がるものとして性格付けをする。

 追悼・慰霊とは生きている人間が死者に向けて行う行為である。それゆえに、追悼・慰霊が行われる時間軸は現代に位置しており、死者の位置は過去に存在する。ここから分かるのは、追悼・慰霊が行われる時間は現代でしかありえず、時間の向き方は現代から過去へ向かっている。

 ここで前述した「現代から過去への回顧的な追悼・慰霊の視点」がどのようなものか分かる。『犬王』自体が犬王と友魚の追悼・慰霊の作品ということだ。そのことを示唆するのは、現代を舞台にするOPとEDの映像にある。OPでは、現代の幹線道路で琵琶法師の死霊が琵琶を弾いているシーンから過去へとシーンが移り、EDでは、過去から現代に戻り、琵琶を弾く死霊が友魚で彼を犬王が見つけ出し、二人が成仏するシーンで幕を閉じる。時間の流れが、現代から過去へ、そして過去から現代へと移行している。

 友魚は友有座を解散させられ、自分で名付けた友有の名を最後まで捨てずに、自分たちの物語が語れなくなったことに怨嗟を迸らせて死んでいった。その恨み・無念が彼を現代まで死霊として存在させた。そして、犬王の内実を丁寧に描くことによって、犬王と共にあり、ともに物語った友魚の鎮魂が可能となる。友魚の追悼・慰霊には語られる犬王の存在が必要だ。

 構造としては、以下のようになる。現実世界では、能楽師として逸話しか残っていない犬王を、『犬王』内では異形ゆえに存在しないものとして扱われている。そして、そのような犬王について、友魚は物語る。犬王が見せる姿、人物像、芸のすばらしさを琵琶の音に乗せて、語り上げる。しかし、異形の頃から犬王について語っていた彼のことは誰が語るのだろうか。語りが死人の慰霊となるならば、友魚のことはだれが語り継ぐのか。

 この語りを担当するのが『犬王』になる。犬王について友魚が語る描写を通じて、観客は友魚のことを知る。ここにきて、冒頭の問いに対する解答準備が整う。すなわち『犬王』は「ミュージカル・アニメ」たる「ミュージカル」要素とは何か?という問いには、犬王の人生や彼が見せる能楽など彼を語る友魚の語りが、日本で伝統的に受け継がれる音楽に合わせて生きている他人や死者について物語るという形式だからだ。それに加えて、映像を含む現代的要素を組み合わせて、本作が犬王と友魚の物語を語りだしているからだ。いわゆるミュージカル物が音楽と音楽に乗せた歌によって、歌う登場人物たち自身の物語が進行するのとは異なる。だが、その登場人物自身以外のことを、音に合わせて物語る部分が、『犬王』が持っているミュージカル要素であり、能楽・琵琶の中心であり、そしてこの作品の核心と言えるのではないだろうか。

*1:例えば、「前代未聞のミュージカル・アニメーション、ここに誕生」「序」『犬王』パンフレット、「歴史に消えた能楽師【犬王】の物語をもとに、変幻自在のイマジネーションで描かれる、ミュージカル・アニメーション」『犬王』公式サイト INTRODUCTION

*2:ここでは、歴史的真実であることが重要なのではなく、観客がそれを過去に起こり得たと思うかどうかが重要である。