【アニメ考察】セーラー服から見える世界ー『明日ちゃんのセーラー服』

©博/集英社・「明日ちゃんのセーラー服」製作委員会

 

 

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●スタッフ
原作:博(集英社となりのヤングジャンプ」連載)
監督:黒木美幸/シリーズ構成・脚本:山崎莉乃/キャラクターデザイン:河野恵美/サブキャラクターデザイン:川上大志・安野将人/総作画監督:河野恵美・川上大志・安野将人/美術設定:塩澤良憲/美術監督:薄井久代・守安靖尚/色彩設計:横田明日香/撮影監督:川下裕樹(MADBOX)/3Dディレクター:宮原洋平/キャラクターレタッチ:カプセル/編集:齋藤朱里(三嶋編集室)/音楽:うたたね歌菜/音響監督:濱野高年
制作会社:CloverWorks

●キャラクター&キャスト
明日小路:村上まなつ/木崎江利花:雨宮 天/兎原透子:鬼頭明里/古城智乃:若山詩音/谷川景:関根明良/鷲尾瞳:石上静香/水上りり:石川由依/平岩蛍:麻倉もも/四条璃生奈:田所あずさ/神黙根子:伊藤美来/龍守逢󠄀:伊瀬茉莉也/峠口鮎美:三上枝織/蛇森生静:神戸光歩/苗代靖子:本渡楓/戸鹿野舞衣:白石晴香/大熊実:小原好美

公式サイト:TVアニメ「明日ちゃんのセーラー服」公式サイト【2022.1.8 ON AIR】 (akebi-chan.jp)
公式TwitterTVアニメ「明日ちゃんのセーラー服」【公式】毎週日曜23:30〜BS朝日にて再放送中 (@AKEBI_chan) / Twitter

 

 

※この考察はネタバレを含みます。

 

 

『明日ちゃんのセーラー服』が持っている特徴・魅力

 主人公の小径は少子化の進む町で一人だけの小学校に通い、卒業する。好きなアイドルのセーラー服に憧れて、名門女子中学校である蠟梅(ろうばい)学園に進学する。そんな彼女が蠟梅学園で憧れのセーラー服を着て、学園生活が十二話を通してじっくりと描かれる。蠟梅学園できらきらした青春を過ごす彼女を見て、親気分で感動したり、あるいは女子中の理想に浸ったり、CloverWoksの美麗な映像美に見耽ったり、見どころはたくさんある。その中でも『明日ちゃんのセーラー服』*1の魅力は何だろうか。

 『明日ちゃん』の全十二話の中心にあるのは、同年代がいることで初めて得られる経験についてだ。『明日ちゃん』にあるのは、同年代がいれば、自然に学び・経験することを小径の体験を介して、可視化していることだ。各話の物語やタイトルもそれを示唆するタイトルが付けられている。そのことから、同年代が一緒にいることの特別さが描かれる。

 この特別でかけがえのない経験をどのように可視化し、かつそれをただの無味乾燥とした記述に貶めず、一個のドラマとして結実させたのかを見ていきたい。この点を読み解くために必須なのは、美麗であるのみに留まらないCloverWoksによって緻密に練られた映像表現を解明することだ。それゆえ、物語の側面と映像の側面をセットで確認していきたい。

 

全体像を映す 友達と一緒にいることの新鮮さ

©博/集英社・「明日ちゃんのセーラー服」製作委員会

 

 視聴者が『明日ちゃん』で数多く見るのは、小径とクラスメイトがロングショットで同じフレームに収まっている映像だ。ここで言うロングショットとは、シーンの一番最初に差し込まれる状況説明のショットである。ロングショットは、どこに誰がどのような状態で位置しているのかを叙述するショットの役割を果たす。ただこのショットには叙述の役割だけではない役割に着目したい。

 その役割とは、クラスメイトと同じ空間にいること、これを端的に表現することだ。小径にとっての学園生活、ひいては友達作りの第一歩がここに詰まっている。それは、クラスメイトがいること、クラスメイトと同じ空間を共有することである。この段階に立って、初めて、彼女の目標「友達を作る」に挑戦できる。

 クラスメイトと並ぶ小径は出発点として序盤から意識されるために、このことの効果は話数が進むにつれ、蓄積されながらも、その新鮮さは薄れていく。しかし、蓄積された効果は、薄れた段階で十一話をもって突如として頂点に達する。

 私たちは、本編の序盤において、小径が一人で学校を卒業し、蠟梅学園に進学したことを知る。話数が進むにつれ、小径に親しみを覚えてくる。そして、十一話では体育祭種目であるバレーの練習を小径が通い、一人で過ごした小学校で行うことになる。小径は友人とバレーの練習をするために、小学校の恩師に体育館を使ってもよいか確認する。友達とバレーの練習をするという小径の言葉に恩師は感激の涙を流す。恩師との一連のエピソードが挿入されることで、中学に進学して友達ができたという以上の意味が付け足される。序盤で感じた友達ができたことによる安堵の感情は、十一話で再度高められた形で、再認させられる。この思いに付け加えて、小径に友達ができるように願っていたのは、小径だけではないことが明示的に語られる。妹の花緒の無邪気な問いかけや母のユワの無限で温かな眼差しとは違った感覚である。

 恩師が小径に友達ができたことを切に喜んでいるのは、学校で過ごす小径を見ていたからだ。小学校を問わず、学校は集団が使用することを前提にした施設であり、一般的にそこで友達を作る場所と言える。そのような一人にはあまりに広い校庭・校舎において、一人で遊ぶ小径を痛々しく見ていたと推測できる。小学校時代の記憶を共有する小径と恩師の二人が、二人だけの時間を作り出している。そして、視聴者は二人が共有している記憶を覗き見ることによって、小径に具体的な過去の記憶を基に、小径に友達ができた感動をかみしめることができる。

 

 また全体像の構図は、クラスメイトと一緒にいることを明示しつつ、各話に応じて各話ごとの意味を担っている。

 

 具体例を挙げると、全体像を丁寧に映すシーンは、第二話「初めてのクラスメイト」のAパート後半からBパート前半にかかる給食シーンで見ることができる。小径は、初めての給食当番に意気揚々とスープをよそい、机をくっつけてグループで給食を食べる体験に目を輝かせる*2

 この細かな小径の反応も新鮮に映る。が、注目したいのは、給食が始まってからの巧みな構図の連続だ。このシーンでは、会話において話者から聞き手、話者(元聞き手)から聞き手(話者)への単純なカットバックが用いられることはほとんどない。むしろ、単に返すだけのカットバックは排されている。その代わりに何が取り入れられているのか。

 複数人が映りこむショットが様々な角度や人物の配置により選択されている。もちろん複数人を映すショットを選択する美的あるいは技術的な魅力(誰に注目させるかなど)も存する。鮮やかなカットの変更や、それぞれの人数に適したショットが丁寧に選択されている。そのようなショットの選択によって、誰がどのタイミングで、登場人物たちの立ち位置・関係性が明確になっている。

 具体的に、このシーンの触りだけ見てみたい。眼鏡の曇りに困っている古城さんのショットからそのことに気づく小径のシーンへと移る。小径がハンカチを手渡す。手渡すシーンでは、小径の真後ろから古城さんと小径とエリカちゃんが映るように構図が取られている。学校に来る前、ハンカチで汗を拭っていた回想が挿入され、小径が奇声を上げる。奇声を上げる小径に全員が注目している様子が分かるショットが続く。そして、その後に、回想中の小径を見ていたエリカちゃんが小径を見ている肩越しショット、エリカちゃんの正面ショット(「見ているだけで面白い」)が続く。そして、古城さんがハンカチを返す主観ショットで、小径と兎原さん(エリカちゃんは外れる)が同時に映り、次に会話も兎原さんと小径の会話へ移っていく。

 メガネの曇りに困っている古城さんと古城さんを気にする小径が出会い、二人のシーンが形作られる。このことがきっかけで古城さんと小径の会話が始まる。二人のやり取りの間に、小径とエリカちゃんが収まるショットを入れ、エリカちゃんから見た小径を映す。そして、ハンカチを貸す一連の話が終わって、古城さん視点で小径と兎原さんが映るショットを入れ、今度は小径と兎原さんのやり取りに繋がっていく。

 ここまでのシーンで興味深いのが、古城さんと兎原さんのシーンに入る時には、お互いに注目する・されるの関係性があるが、エリカちゃんにはその点が出てこないことだ。というのも、エリカちゃんとは、始業前に話しており、このシーンで話すことにきっかけが必要ではないからだ。この点を明確に表現している。

 後続するシーンでも、注目されることが起こるシーンで四人全体あるいは、他のクラスメイトが見えるようなロングショットが選択されており、注目する・される関係がうまく表現されている。また、二人で話している様子を他の二人がどのように見ているかも映される。

 ただそれだけではない。机を並べ、給食を食べながら会話をする。これだけのシーンだからこそ、慎重にショットを選択する必要があった。なぜなら、会話(シーン)には、ともすると誰が会話の主導権を握るかという権力構造が生まれてしまうため、ここは慎重になる必要があるとともに、それとは別に入学して初対面同士が初めて話す空気感を積極的に表現しているからだ。後者について補足すると、初対面の会話は、だれが話すかという問題よりも、とにかくきっかけを掴んで会話を回すことに重点を置きがちだからだ。

 会話とは必然的に話す側と聞く側に分立させる。そのこと自体は、会話の二者間による発話の応酬という行為の性質から論理的に帰結することだ。しかし、この話し手と聞き手という分立は容易に「どっちが上かという」優劣関係に変わってしまうことがある。すなわち、話している人が中心であり、聞き手は話し手あるいはその集団をにぎやかす周縁にすぎないと判断されることがある。そのため、話し手を奪い合う闘争が会話の中で生じることがある。会話が性質上話し手と聞き手に分かれるのだから、互いに他方なしでは存在しえない、相互依存しあう関係なのだ。ゆえに、どちらも大切で等価値なのだ。

 話を『明日ちゃん』の第二話では、この理想化された会話が映像として描かれている。この給食シーンは、会話を話し手が奪い合う会話の闘争的でネガティブなタイプではなく、会話を回すことが目的の営みとして描いている。会話の本来の目的とは、そのグループの中心になることでもないし、相手を説得したり、何かを伝達したりすること、要するに私が話すことではない。会話に目的はない。しいて挙げるなら、会話を継続することそのものが会話の目的である。つまり、会話とは自己目的的な営みといえる。

 この視点から、該当シーンを見ると、小径の感激ぶりを私たち視聴者も理解することができる。すなわち、机をくっつけて、クラスメイトと同じ給食を食べて、おしゃべりをすること自体が、彼女にとって新鮮で楽しい時間なのである。そしてその姿を見る私たちにとっても心地よい時間となったのではないだろうか。

 視聴者は彼女たちが、何かきっかけをつかもうとぎこちないながらも、自己紹介を皮切りに、会話が徐々に進んでいく様子を第三者として見る。この光景自体は、どこの学校でも見られる平凡な光景かもしれない。しかし、小径という当事者が初めて体験することだと念頭に置いて見るなら、小径と一緒にただこの時間を楽しむ視点で楽しむことができる。

 全体像を映すとは上記の会話のシーンだけに限った話ではない。全体像を映すことは、ただ状況を説明するに留まらず、クラスメイトと肩を並べて、あるいは椅子を並べて過ごしているその時間自体を『明日ちゃん』は特別な瞬間と認識させてくれる。

 

『明日ちゃん』の友達の作り方

明日ちゃん

©博/集英社・「明日ちゃんのセーラー服」製作委員会

 

 友達と肩を並べて、一緒に過ごすこと自体に喜びを感じさせる。ロングショットでの撮影で複数人が画面内に工夫された構図には、構図の美しさという美的受容以上に小径にクラスメイトができたという意味的な受容のほうが大きい。だが、同年代の子どもがいなかったからといって、同年代の子と並ぶことだけが本作の魅力ではない。そこから小径がクラスメイトと話し、友達になり、親交を深めていく過程にも大きな魅力がある。次に視聴者を魅了するのは、小径とクラスメイトとの関係性がどのようにクラスメイトから知り合いへ、そして友達、親友へと変貌していくのかである。

 前に、各話のタイトルからクラスメイトとの関わりが示唆されていると述べた。ここでは、この関わり方が、関係性のステップアップに繋がっている。特に異色な七、八話を例にとって、解説したい。

 

五話の小径と大熊さんが親交を深める過程を、体位と切り返しショットで分析したのは下記参照。

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 七話はギターに憧れているが、弾くことは躊躇している蛇森さんとルームメイトでバスケ部の戸鹿野さんと小径を中心に話は進む。中庭で音楽雑誌を読む蛇森さんは小径に楽器が弾けると勘違いをされる。小径の押しの強さに負け、ギターを聴かせることになる。そこから蛇森さんは小径との約束に向けて、ギターの練習を始める。覚えるコードの多さに挫けそうになるが、演劇部の発声練習に玉の汗を流して取り組む小径やルームメイトの戸鹿野さんが必死にバスケのシュート練習に励んでいるのを見て、彼女もまた奮起する。その甲斐あって、遂に小径に演奏を聴かせることができる。

 ストーリーとしては、よくある話ではある。前半一~六話は部分的にクラスメイトの視点を取るにしても、基本的な視点の中心は、小径であった。しかし、この七話は、小径以外、つまり蛇森さんが中心的な視点主となる。ここから考えられるのが、小径が積極的に話しかけ、友だちになりに行くことがなくても、そこにはある種の関係性が生まれるということだ。蛇森さんが小径に向けるのは、「明日さんも頑張っている」のだから、私も頑張ろうという意識だ。この関係性が生まれるポイントは、小径が演劇部の地道なトレーニングをこなすことで日々成長しているのを見たこと、そして、演奏をいざ聞かせる段になったとき、蛇森さんが怖気づいたが、小径の「聞きたい」の訴えかけによって、演奏する気持ちが決まったところだ。

 ここで小径が体験するのは、小径にとってあずかり知らぬところで起こる、いわば受動的な体験だ。クラスメイトから見てある特定の位置に置かれる、すなわち尊敬でもあるし、何かに打ち込む同志のように思われる経験をしている。このことは小径のこれまでの人生で引き起こすことは難しいことだ。というのも、蠟梅学園入学前には、クラスメイトはおろか同年代の子どもが近くにおらず、また、数歳以上年齢が変われば、その本人が持つ性質・能力・努力いかんよりも、年齢に左右される要素によって、他人に影響を与える可能性も高くなると考えがちだからだ。

 「尊敬に近い何かに打ち込む同志」と思える影響を与える要因となるのは、「同じ」なのに「違う」という感覚だ。「同じ」とは同じ何歳だから近しい能力・感情のはずなのに、あの子は努力している、能力があるなど私とは「違う」と感じる感覚だ。一年で身体的にも精神的にも劇的に変化するこの子ども時代には、たった数年の歳の差が自分と他者が異なることの正当化理由に容易に転化してしまう。それゆえ、この時代には年齢が同じという要素は重要である。「同じ」なのに違うという感覚は、全編を通して、小径がクラスメイトに影響を与えており、そして七話で最も鮮烈に描かれている。

 

 次の八話は、小径を初めての感情にさせる点で八話の特異性は分かりやすい。体育祭種目の水泳でアンカーを小径と水上さんで争い合う。水上さんからアンカーの座だけではなく、お互い好きなものを賭けようと提案される。小径はセーラー服を賭けるのは嫌だったが、断り切れず、勝負に挑む。

 八話では、小径が感じたことのない競争心を露わにした表情を見せる*3。この勝負への思いが小径とリリさんで正面からぶつかることによって、彼女たちは心を許し合うようになる。

 さらに、「初めて」というところから感情に対する新鮮な様子は私たちを楽しませながら、「初めて」性にドキリとさせる。というのも、クラスメイトがいる環境で成長してきた人たちの中では、競争は当たり前の行為であり、いわば競争に慣らされているからだ。他者と比較することに興味のない子でも比べることそのものは知っている。その点に新鮮さを見出せるのは大きな魅力だ。

 ここで、小径の感情をもろに表現し、私たちの感情を打つのは、小径の成り立ちから想定される物語的な側面だけではなく、映像面にも工夫が隠されている。それは本作の全編にふんだんに散りばめられている。私たちに小径(やクラスメイト)の感情がリアルだと感じさせる環境を作り上げる「フェチ・細かな表現」については次章で、そして感情を切に感じさせる目・表情については五章で見ていく。

 

見ることから生まれるもの

©博/集英社・「明日ちゃんのセーラー服」製作委員会

 

フェチとは?

 本作には「フェチ」心をくすぐるような描写がふんだんに盛り込まれている。その点は女子中学生を描いていることもあって、賛否両論がある。フェチを描く作品には、二パターンあるように思う。より現実的に描くものと逆に非現実な理想に振り切ってしまうパターンだ。どちらも向く方向は正反対を示している。

 本作でフェチの描写はフェチであるから、理想的なものとして、あるいは故意にある種の振舞い・服装・身体的特徴を誇張している節はある。しかし、『明日ちゃん』の誇張は前者のパターンのように、その誇張が現実により近づいていくという意味での誇張であると言える。現実に近づく点は小径の物語に最高のバックグラウンドを提供する。

 

『明日ちゃん』のフェチシーン

 フェチとは、具体的にどのようなシーンかを簡単におさらいしたい。『明日ちゃん』は小径を含む蠟梅学園に通う少女たちを主とした登場人物としている。それゆえ、このフェチも少女たちの表現や少女たちが暮らす環境に対して向けられている。

 例えば、一話の爪切りや爪を切った後の爪切りのにおいを嗅ぐ様子や髪を結ぶ仕草がゴムを取るところから、結び終わって急に手を離した拍子に髪が跳ねる様子など振舞い着目するものや、三話の谷川さんの足や三話後半の濡れた制服が肌に張り付く様子やセーラー服のスカートの襞などある状態に着目するものを挙げることができる。

 また、前述したように、『明日ちゃん』のこれらの表現が単にフェチ的感覚をくすぐるだけではないと考えている。それでは『明日ちゃん』ではどのような効果を生んでいるのだろうか。そして、どのような点で小径の物語に最高のバックグラウンドを提供しているのか。

 

フェチから現実的をサルベージ

 フェチ的感覚を喚起すること以上に重要な効果は、その現象が画面内の世界の印ではなく、画面外の世界でも起こりうると確信できる手がかりになっているところにある。要するに、リアリティを生んでいる。

 フェチとは、ある特徴に対して異常な関心を持つことを意味する。そうならば、一般的に価値が置かれていない現象に対して、熱心な視線が注がれることになる。この段階にきて、フェチとリアリティがつながる瞬間が存在する。すなわちフェチとは本来普通である現象に対して異常な関心を持つことを言う。それゆえ、フェチの対象となる現象は極めて日常的な事柄であることが多々ある。

 『明日ちゃん』から一例をとっても、セーラー服にフォーカスが当てられ、細部まで丁寧に描かれている。これは何気ないもの・状況に執着するフェチの視点といえる。ただフェチの視点であるから、即座に卑しい視点だと切って捨ててはいけない。この視点は『明日ちゃん』のテーマ自体に重なり合ってくるからだ。『明日ちゃん』では、小学校を一人で過ごした小径を中心にして、クラスメイトがいて、友達がいる環境から得られる体験を照射している。何気無い日常に目を向けることがテーマと言っても過言ではない。ここでは、フェチの視点と『明日ちゃん』の何気ないものを映す視点の類同性を指摘できる。とはいうものフェチの視点を全面的に肯定も否定もしているわけではない。

 つまり、何気ない日常を一般的な丁寧さ以上に執着して描くことで、私たちが当たり前だとみなし通り過ぎてしまうことに、立ち止まらせてくれる土台を作ってくれる。

 

細かな表現

 『明日ちゃん』では、フェチの話と重なる部分もあるが、細かい仕草・振舞い・事物を丁寧に描くことで、質感を高めることに成功している。上記では、フェチについて限定した視点だったが、それだけにとどまらない。『明日ちゃん』がセーラー服を初めて着る一話では、今着ている服を脱ぐところから制服のソックスに足を通すまで丁寧に描写される。この点は、フェチ的要素に含まれる可能性もあるが、制服を着ることに異常な関心を持つということはおそらくかなりの少数派だと思うので、細かな描写の観点からみていく*4。着衣は八話の初めて夏服に袖を通すシーンでも同様の丁寧さをもって描かれている。これらの細かな描写によっても、彼女たちの行為にリアリティが付与される。その結果、彼女たちが生き、そしてたくさんの経験と感情を抱く血肉を持った人間だと分かる。つまり、彼女たちに実在感が生じる。

 

 また、このようなフェチや細かな所作の描写以外にも、『明日ちゃん』では、映像面について特異な表現がなされている。それは彩色の使い分けである。フェチや細かい表現でリアリティを作り出したのと同様に、彩色によって絵の密度を高めている。文字通り私たちの美しき日常がカラフルに彩られる。まさにアニメ塗という日常の流れの中で、厚塗りのアニメーションで非日常的日常が立ち現れてくるようだ。

 

日常のアニメ塗と非日常的日常の厚塗り

 過剰に演出的にも思える厚塗りは、原作漫画リスペクトでありながら、アニメーションならではの効果を生みだす。その効果は演出的な意味での特別感である。演出と言えば、盛り上がるシーンで流れる音楽や独特な映像効果を使用することで、そのシーンをどう見せたいかという制作者の意図が見えることがある。過剰な演出には、その雰囲気にはまることができれば、視聴者を巻き込んだ強力な表現と言えるが、雰囲気になじめなければ、そのシーン自体に違和感を拭えなくなる。

 アニメ塗から厚塗りへは、唐突さもあり、違和感を覚える可能性が大である。しかし、このことが単なる過剰な演出で終わらずに、ある一定の効果を有しているように見える。

 一例を取ってみよう。厚塗りが用いられている最も特徴的で分かりやすいシーンは、一話と八話にある。初めて小径が制服を着て、家族に見せるシーンだ。一話では、冬服を母のユワと妹の花緒に見せる。八話では、夏服をユワ・花緒と父のサトに見せる。彼女にとっては、憧れてきたセーラー服を着て家族に見せられる大切な瞬間であるし、家族にとっても小径の晴れ姿を見ることができる大切な瞬間である。

 ここでは、例えば、「小径がかわいい」だとか「小径が念願のセーラー服を着れてよかった」など、ある感情や主張が声高に叫ばれているわけではない。逆に主張されているのは、このシーンに注目すべきこと一点だ。

 厚塗りの個所では、誰かにとっての大切な瞬間が切り取られている。それは小径にとってかもしれないし、クラスメイトにとってかもしれない。ただ、そこで描かれるのは、劇的な瞬間に重点があるわけではなく、あくまでも大切な瞬間という主観的な感情に重点がある。制服を家族に見せるのは、一生のうちの数回訪れる瞬間と言えども、一般的に起こりうることである。この一般的なことを劇的にではないが、注目すべき輝く瞬間に見せるのが、厚塗りの効果である。あくまでもこのシーンを見てくれと言わんばかりに注目させようとするのみだ。

 付け加えて、厚塗りには、それが密度を上げることによって、登場人物の実在感を生み出している。密度を上げるとはどういうことか。

 アニメでの彩色方法は、いわゆるアニメ塗で、ベースの配色とハイライト・影・グラデーションのシンプルに構成されている。アニメであるからには、動かすことを意識して、彩色もシンプルなものになることが多い。

 それに対して、『明日ちゃん』厚塗り部では色を何度も重ね塗り、質感を高めたものとなっている。それゆえに、肌・衣服などの質感が高まり、また、陰影もしっかりとつくことで、立体感が生じる。この質感と立体感が合わさり、実在感が生まれる。実在感とはその名の通り、そこに人物・物体がいるように感じる感覚のことである。

 これによって、厚塗りという登場人物の実在感を生む表現を用いて、現実にもありうる何気ない日常の瞬間にうまく注目させている。また、この厚塗りのシーンが動きの少ない止め絵として、登場することによって、何気ないが、大切な瞬間が切り取られている。一つの瞬間として切り取ることは、イラストチックな原作のイメージに沿っているし、それに谷川さんが撮影する写真、過去の小径の姿をエリカちゃんに見せた写真や最終回でみんなが思い出す瞬間のイメージに繋がっていく。十二話の後夜祭で、アルバムのように、体育祭の思い出が蘇る瞬間としての記憶が最終回を構成する。この事実は祭りの後に行われる後夜祭に即しているように思う。

 

「セーラー服」の小径とリアリティある日常

©博/集英社・「明日ちゃんのセーラー服」製作委員会

 

 今まで『明日ちゃん』は志向なアニメと様々な観点から書いてきた。だが、『明日ちゃん』のおもしろいところは、そのような表現を用いつつも、小径という存在そのものがフィクションっぽいところだ。そして、ここが『明日ちゃん』の肝でもある。

 『明日ちゃん』の主人公小径は、少し抜けたところはあるが、勉強・運動・人付き合いなど何でもこなせるスーパー超人に見える。特徴を列挙するとそう感じるのだが、この作品はフィクション性のみに重きを置いた作品ではないことは以上でも見てきた通りだ。

 彼女のフィクション性は、蠟梅学園で一人だけ着用している「セーラー服」に象徴される。まずもって、制服指定の学校で一人だけ異なる制服である事実や、ブレザー制服との鮮烈な対比が効いたセーラー服は彼女の特異性を表現している。それに、彼女は蠟梅学園で唯一と言ってもよい過疎化した小学校の卒業生だ。

 そして、何でもできる彼女は、生まれながらの主人公と言ってもよい。以上のように、フィクション性に満たされた存在が彼女である。この物語は、登場人物の実在感と振舞い・出来事の集積たる日常生活のリアリティを土台として、視聴者の世界と地続きと感じられる彼女たちの日常生活を特異な小径というフィルターを通ることで、異化していく物語だと言える。小径が体験する学校生活や友達を作ったり、友達と遊んだりする過程は日常的なものだが、その体験や家庭を魅力的で素晴らしい体験だと、新鮮な目で見ることができる。

 一方で超常的なフィクション性の権化たる小径が存在し、他方で画面外と地続きでリアリティを持った日常生活が存在している。お互いの相互作用によって、『明日ちゃん』は異化の効果を発揮し、リアルな日常生活の魅力を再発見させ、さらに友達がたくさんできた彼女の学校生活に感動を生みもするのだ。

 ここで疑問に思うのが、フィクション的存在の小径と日常生活のリアリティはどのようにお互いに折り合いをつけるのか。もし小径の異常さが際立つのであれば、日常生活のリアリティと主人公小径の設定と不和を起こしてしまうのではないだろうか。

 しかし『明日ちゃん』では、自然な物語とは感じた。その理由は、小径が特異とは言っても、中身は普通の女の子であることも影響しているだろう。小径に関して、小径や他のクラスメイトにキャラクター的で記号的な実在感以上の実在感をうまく作り出しているからだ*5。実在感という観点は、細かな表現について前述したが、ここでも問題となる。

 それでは、この点をどのように説得力ある形で小径たちの実在感を表現していたのか。鍵となるのは、目を代表とする身体動作の表現である。

 

 小径は誰よりも思ったことを、はっきりと言葉で相手に伝える。あえて、修辞的に言うなら、伝えて「しまう」。ここに小径の性質が表れている。

 彼女の率直さがもろに反映されているのは、彼女が発する言葉よりも、彼女の振舞い・動き、表情特に目に現れている。彼女の身体や表情は、言葉と共に、あるいは言葉より先に、あるいは言葉よりも強く、彼女の感情を語りだしている。

 『明日ちゃん』で、分かりやすい顔を崩したアニメで見られるコミカルな表情も用いられる。ただ『明日ちゃん』全体を通して中心的なのは、目の描写や嬉しくて走り出す、照れて手を振る、などのこれまたリアル志向な動作などである。

 とりわけ目のクローズアップが多用されている。一つには、四話で大熊さんが小径の目を評して、「アザラシみたいな瞳」のような美的観点から着目できる。まるで宝石のように、描かれた美しい瞳を見ることができるのも本作の魅力の一つではある。

 だが、重要なのは、各登場人物たちの感情を目によって、生き生きと表現していることだ。感情の変化に応じて、目の表情が変わる彼女たちを描写している。注意が必要なのは、表情は感情を表現するための道具的な場ではない。ある感情を表情で表現すると言う場合、怒った顔はこういう顔など、感情と表情を一対一で対応させるイメージ想像してしまう。この感情の「一」には、現実であれば切れ目ないグラデーションがあるはずの感情が、微妙な段階が削除され、「喜怒哀楽」などの典型的な感情のみが表現の代表となってしまうことがある。そのように表現された感情は多分に記号的なものと言える。

 しかし本作で「感情を表情、特に目で表現している」とは、この微妙な感情の段階をも表現していることを意味している。この微妙な段階を表現することによって、より現実に近い感情という意味で、登場人物のリアリティを具える感情が表現されるようになり、そしてそのような感情を持った登場人物たちが実在感を有して私たちの前に現れてくる。

 小径の目を取っても、場面・感情によって大きく目の表情は大きく異なる。最も特徴的に感じたのは、前述八話「次は勝ちたい」である。八話では、リリさんの言葉では「いつもにこにこ」している小径がセーラー服を賭けて、真剣にリリと水泳で競争する。このシーンでは、これまでの小径では見られなかった表情が引き出されている。大切なセーラー服を賭けているために、絶対に負けられない小径は、ストレッチをして、飛び込み台に構えるときに刺すような鋭さを伴った真剣な目つきを見せる。

 勝負に負けて、落ち込む小径にリリさんが、セーラー服を賭けるのは、小径を本気にさせる建前だったと告げる。小径はそれを聞いて、安心した様子だが、すぐのショットでは真剣な表情に戻り、「次は勝ちたい」とリリさんに自分の気持ちを表明している。

勝負後の小径の真剣な表情は、勝負前に小径が見せた「刺すような鋭さを伴った真剣な目つき」とは異なっている。そこには、文字通り角が取れてはいるが、まっすぐリリさんの目を見据える真剣な目つきがある。ここには、真剣さや勝負への感情に現れる共通した目の表情が描かれているが、前者のシーンでは、セーラー服を賭けているから「負けられない」という消極さがあったのに対して、後者のシーンでは、負けて悔しい感情を知って、ただ次の競争(体育祭)では純粋に「勝ちたい」という積極さに変化している。どちらも勝負への思いを表現しつつ、小径が置かれた状況や新しくした経験から感情の違いや変化を目の描き方によって、丁寧に表現している。

 ここには「いつも」にこにこしている彼女とは異なる彼女がいる。そしてそれは、単に「負けられない」というのではなく、「負けたくない」「勝ちたい」という競争を知った彼女がいる。

 

 八話が特徴的なのは、小径の中での微妙な感情の変化を表現するだけではない。同時に、小径が「次は勝ちたい」とリリさんに告げるときの真剣な表情を見て、リリさんにも「体育祭で勝ちたい」と感情が連鎖していったことだ。この連鎖という要素は、前に感情のグラデーションを描くことで、感情のリアリティと登場人物の実在感を獲得できると言ったことにプラスして効果を与える。それは、感情を表現する表情が単に視聴者に登場人物の感情を伝えるという孤立して存在するものではなく、他者がそのような感情を見ることによって、他者にも感情の変化や行動の変化を促すという開かれた側面を表現することだ。表情が感情を表現するのみならず、登場人物に連鎖していく。この連鎖が見えることで、表情を、機械的に視聴者に感情を伝える道具的な鏡と思えなくなる。

 八話でリリさんが小径に「勝ちたい」と感化され、小径からリリさんへ感情の連鎖が生じている。このことは八話と十二話でのリリさんの表情とその映し方で表現されている。八話では、勝負前に言葉を交わさない二人だったが、十二話では「何着で来てもかまへんで」とリリさんが言って、小径は「心配してくれてありがとう。それじゃ、汗でも流してくるよ」と冗談を飛ばし合い、二人ともお互いに余裕のある会話を交わしている。さらに八話では、スタート直前の飛び込み台で構える二人の表情が正面から明白に映されていた。十二話では、飛び込み台での小径は横からのショットで表情が見えづらく映っているのに対して、リリさんは正面から彼女の真剣な表情、特に一点を見据える眼差しをとらえている。

 以上から八話で感化されたリリさんの「勝ちたい」という思いが十二話で丁寧に描かれていることを見た。

 目に関して、八話と十二話で例示してきた。ここまで来て、上記の問いに解答できたかと思う。彼女の目が、表情が、振舞いが彼女の感情や考えをクラスメイトに率直に表現する。彼女のその率直さは、クラスメイトに対してであり、視聴者に対してでもある。後者では、フィクション性の塊である彼女に積極的な意味を追加することができる。すなわち、彼女はこういう少女だという情報の鋳型にはめ込んでしまわず、彼女の振舞い・表情から彼女はこういう感情・気持ちを推測・熟慮することで、小径という未知の存在に生きた人としての肉付けができる。それによって、小径への見方が、フィクション的情報の束からそこで生きている実在感を持った存在へと変わっていく。

 

 クラスメイトからも視聴者からも、(あるいはクラスメイトも)フィクション的でありながらも、リアリティを持った存在として描かれている。そのことによって、彼女が体験し、視聴者が当たり前だと思う事象(クラスメイトがいる、友達を作るなど)が可視化される作品に仕上がっている。それに加え、登場人物たちに単なるフィクション的な感動やリアリティのみの驚きではなく、両者が合わさった形で作品が成立しているために、彼女たちの物語に現実の記述性だけではないドラマ性がしっかりと作品に根を下ろしている。

 

©博/集英社・「明日ちゃんのセーラー服」製作委員会

 

 私たちが『明日ちゃん』を観終わった実感は、十二話Bパートでの小径のものに近い。小径は学校生活という日常を過ごし、体育祭・後夜祭という非日常を過ごし、そしてまたいつもの日常へ帰ってきた。小径が「なんだか夢みたいだな」と呟いたように、私たちは幸福な夢を見ていたのかもしれない。しかし、『明日ちゃん』の終わりと共に、夢は醒める。今度は私たちが自分たちの日常から自覚的に夢を見る番なのかもしれない。その日常は次なるアニメを見る日々からしれないし、文字通りの日常生活からかもしれない。

*1:以下『明日ちゃん』

*2:同年代ではないが、小径は家族と食卓を囲んでいる。しかし、「机を並べる」と「食卓を囲む」の違いは重要だ。前者が個のモチーフとしての机をくっつけてグループを作るのに対して、後者は一つの机に対して複数人が集まっている。前者は明瞭に断定可能な関係性の呼称を持っていないのに、後者は家族という呼称があることを浮き彫りにしている。

*3:小径が小学校をずっと一人で過ごしたという環境からして、身近に同年代の子どもがおらず、何の言い訳もなしに、「負けたくない」、「負けられない」と感じられる機会がなかったとという推測に基づく。

*4:もちろん制服それ自体には、フェチ的要素が認められる。「制服を着る」行為そのものにフェチを感じることは考えにくい。それは部分的に「制服」に傾倒しているか、「服を着る」行為に傾倒しているか、あるいはその両方のフェチを持っているかだろう。

 十一話はこの点に関して印象的だ。小学校を一人で過ごした彼女は記憶から遠のいた頃、小学校の恩師を登場させ、彼女の現在の様子を喜び合う。その描写は彼女が小学校を一人で過ごして、中学に友達ができた人物と認識するだけではなく、そのことに関して、周囲の環境からの向けられる感情のある関係性に身を置いた存在だと分かる。

*5:厳密には小径だけに限らない。