【アニメ考察】病魔と争いの世界における王―『鹿の王 ユナと約束の旅』

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©2021「鹿の王」製作委員会

 

 2度の延期を経て、遂に公開した本作。上橋菜穂子の『鹿の王』を原作として、スタジオジブリ出身の安藤雅史・宮地昌平が監督を務める。帝国が近国を属国にした後の2国の対立が表面化し、さらに2国間の対立を激化させる黒狼熱(ミッツァル)という流行り病が蔓延する。そのような状況の中で、登場人物たちが力強く生きていく様が描かれる。

 


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●スタッフ
監督:安藤雅史・宮地昌幸/脚本:岸本卓/キャラクターデザイン・作画監督:安藤雅史/コンセプトビジュアル:品川宏樹/美術監督:大野広司/色彩設計:橋本賢/撮影監督:田中宏侍/音響監督:菊田宏樹/音楽:富貴晴美/アニメーションプロデューサー:松下慶子

制作会社:Production I.G/製作:「鹿の王」製作委員会/配給:東宝
原作:上野菜穂子『鹿の王』(角川文庫・角川つばさ文庫/KADOKAWA)

●キャラクター&キャスト
ガンサ=ヴァン:堤真一/ユナ:木村日翠/ホッサル=ユグラウル:竹内涼真/サエ:杏/与多瑠(よたる):阿部敦/トゥーリム:安原義人/マコウカン:櫻井トオル/オーファン:藤真秀/アカファ王:玄田哲章/ケノイ:西村知道

公式サイト:映画『鹿の王 ユナと約束の旅』公式サイト (shikanoou-movie.jp)
公式Twitter映画『鹿の王 ユナと約束の旅』【公式】Blu-ray&DVD発売中 (@shikanoou_movie) / Twitter

 

 

※この考察はネタバレを含みます。

 

 

あらすじ

かつてツオル帝国は圧倒的な力でアカファ王国に侵攻したが、

突如発生した謎の病・黒狼熱(ミッツァル)によって帝国軍は撤退を余儀なくされた。

以降、二国は緩やかな併合関係を保っていたが、アカファ王国はウィルスを身体に宿す山犬を使って

ミッツァルを再び大量発生させることで反乱を企てていた。

ミッツァルが国中で猛威を振るう中、山犬の襲撃を生き延びたヴァンは身寄りのない少女ユナと旅に出るが、

その身に病への抗体を持つ者として、治療薬開発を阻止したいアカファ王国が放った暗殺者サエから命を狙われることになる。

一方、治療薬を作るためヴァンの血を求める医師のホッサルも懸命にヴァンを探していた―― 。

様々な思惑と陰謀が交錯した時、運命が動き始める。

(公式サイトより)

 

全体像 東乎瑠対アカファ ホッサルとヴァン

 本作を貫く大きな軸に東乎瑠帝国とアカファ王国の対立がある。過去の戦いで、アカファは東乎瑠へと併合された。その戦いの際、アカファの守護者たち独角の活躍と東乎瑠人に広がった黒狼熱(以後ミッツァル)によって、東乎瑠は撤退を余儀なくされ、東乎瑠とアカファは緩やかな併合関係を築くことになる。

 本稿では、ミッツァルの病魔が蔓延する中、社会に広がる差別を抑制する考えが提示されている。それはコロナ禍を生きる私たちにとって単なるフィクションと断定できない力強さを画面に現れている。その考えについて、医学ひいては科学の精神を体現するホッサルと本作のタイトルを冠する「鹿の王」たるヴァンに注目していく。

 

ミッツァルの脅威

 過去の戦いで東乎瑠軍を撤退に追い込んだミッツァルはアカファ人には感染しないとされている。それは1つに、山犬を操っているのがアカファ人であるからだが、もう1つの理由は、ミッツァルの解毒物質が含まれるアッシモという葉を飛馬が食べ、飛馬の乳をアカファ人は好んで飲んでいたからだ。アカファ人はたとえ山犬に噛まれたとしても、飛馬の乳に含まれるアッシモの解毒物質がミッツァルの毒素を分解してしまうために、ミッツァルには感染しない。その反対に、東乎瑠人は動物の血に近いものを口にしてはいけないという宗教上の掟から飛馬の乳を飲むことはなかった。

 物語が進行すると、ミッツァルに感染するか否かの違いは、飛馬の乳を飲んでいるか否かの偶然的な事象に過ぎないことが分かる。そのため、アカファ人でもミッツァルに感染する。アカファ人のために、犬の王になろうとした少年たちは、アカファ人であるが、東乎瑠人と一緒に暮らす中で、飛馬の乳を飲む習慣がなくなり、山犬に噛まれる王就任の儀式でミッツァルに罹ってしまう。逆に言うと、ホッサルが作った治療薬を飲めば、東乎瑠人・アカファ人関係なく、感染したミッツァルを治療することができる。ここからミッツァルに感染する原因として、東乎瑠人やアカファ人であることは本質的に関係がないことが分かる。

 しかし、作中では、2国間の併合関係という関係性や東乎瑠人が世襲の王制であることから、人種・身分間の差別が深刻化していく。前者の話では、東乎瑠軍がアカファの聖地である火馬の郷に進軍する「玉眼訪来」の儀式を進めていく中、東乎瑠をよく思わない一部のアカファ人が、東乎瑠を差別し始める様子が描かれる。差別の要因は、過去の戦乱の恨みもあるが、東乎瑠に広がるミッツァルを東乎瑠人の罪が生み出した呪いと推断したことである。ミッツァルの呪いを受けないアカファ人は潔白であり、ミッツァルの呪いを受ける東乎瑠人は罪ある人種である、という人種による差別の図式が成立した。

 後者の話では、宇多瑠の病状を診にホッサルが謁見したシーンが印象的である。宇多瑠のミッツァル病状が深刻化し、ホッサルは市民の血を輸血するよう進言する。しかし、それに付き人の祭司たちは猛反対する。彼ら曰く、皇帝一族に流れる血は神聖なものであり、市民の下賤な血が混ざるのは言語道断であると。さらに進んで以下のような忠言を付け加える。神聖な血を汚すくらいなら、身体とは高貴な魂の器に過ぎないのだから、死を迎えるご決断をと。祭司たちの言動から分かるのは、皇帝一族と市民たちとには生まれた瞬間から歴然とした貴賤の差が存在する。そして、それは物理的な身体の問題ではなく、精神的な問題であることが示唆されている。それゆえ、宇多瑠と東乎瑠人の市民が同じミッツァルに感染していながらも、両者の本質的な区別が可能となる。

 

ホッサルの役割

 東乎瑠とアカファ、及び東乎瑠内部での差別意識が存在することを見てきた。同じ人間という共通意識が欠落した状態を埋める役割を果たすのが医者であるホッサルだ。もちろん彼が行うのは、東乎瑠とアカファが同じ人間であるから、手を取り合って生きていかなけばならないことを理を以て説くわけではない。彼が取り組むのは、人間の身体の分析と病の要因・症状・治療法を研究することである。それでは彼の功績と前述した共通意識の欠如を埋めるというのはどういう意味で接合できるのだろうか。

 答えは前の文章で既出している。すなわち、ホッサルの治療を受ければ、誰もがミッツァルの病から回復ができるということだ。ここから分かるのは、人間の身体的構造が同一であり、それゆえに、身体における貴賤の区別、及び人種による区別が本質的には存在しないことである。

 ホッサルが体現する医学、もっと広く見るなら、科学の精神は本作の東女人物たちが抱く世界観に新しい認識を提示している。それは人間観あるいはそれを根本から基礎付けていた形而上学的前提に改変を求めている。比喩的に言えば、元来、人種・身分という観点で人間内に起伏が認められていたのを、ホッサルはミッツァルの解毒物質を突き止めることによって、長年の習慣により強固となった起伏を均していった。このことはホッサルが東乎瑠の命で宇多瑠の治療を優先してはいるものの、彼がミッツァルの治療法を希求する動機が、特定の誰かではなく、ミッツァルに苦しむ者全てのためであることからも例証されている。念のため付言するが、「苦しむ者」とは現在の特定の苦しむ者を指すのではなく、今後苦しむ者も含まれている。さらにミッツァルに罹るのは偶然的事象であるから、誰もがこの「苦しむ者」に含まれうる。したがって、ホッサル自身は健常者も患者も本質的に区別しているわけではない。医者という職業柄、経験的に彼らを区別しなければならないというだけである。

 

王とは何を為す者か

 ここまでで、東乎瑠とアカファの関係、ミッツァル、ホッサルについて言及してきたが、主人公であるヴァンにはほとんど触れてこなかった。独角の1人で山犬の抗体を持ち、犬の王として選ばれ、ラストには山犬を山奥へ引き連れていった彼は本作においてどのような役割を持っていたのだろうか。

 まずは彼の王としての側面を見ていく。彼は全編を通して、先代犬の王であるケノイの亡霊に悩まされている。彼は望んではいないが、犬の王として選ばれる。選出には世俗的な事柄は関係なかった。犬の王の血族があるわけでもないし、また王になるための条件が明確になされず、それに何らかの条件をヴァンがクリアした描写も本作内に見られない。彼が選ばれたのは、犬の王を選ぶ意思の眼鏡にかなった、ただそれだけである。

 それに対して、東乎瑠の皇帝は世襲制である。彼らは先代から代々と受け継ぐ血によって、王としての正統性を獲得する。王となるに必要な条件は生まれたときにクリアしている。それゆえ彼らは生まれながらにして、選ばれた存在となっている。それを裏書きするように、本編で、宇多瑠がミッツァルによって命を落とした後は、その弟の与多瑠が握ることになる。

 またもう一つ、王の呼称が用いられる場面がある。それは鹿の王である。ヴァンが語った鹿の王は狼から逃げ遅れた小鹿を自らが囮になり、小鹿を守った鹿の逸話である。この話をヴァンが語ることが興味深いのは、彼がその後鹿の王を指して、偶然足が速かったからそのような役が回ってきただけと評しているところだ。

 というのも、本作のタイトルに「鹿の王」が含まれているように、ヴァン自身が鹿の王的役回りを演じることになるからだ。鹿の王は足が速いという生得的な能力を生かして、自分の命を賭けて、小鹿を救出した。ヴァンは操られたユナが率いる山犬の支配を自分のものとし、山犬の脅威を山犬の支配者となった彼ともども、山奥に封じてしまう。彼は犬の王たる与えられた能力を生かし、東乎瑠人とアカファ人たち、そして何よりユナを救う。鹿の王とヴァンは自らが持つ能力を果たすノブリス・オブリージュの実践と言える。「ノブリス・オブリージュ」の原義からすると、貴族、権力者、富裕者のような高い社会的地位を持つ者には社会的な責任が伴うという意味合いが強いが、より倫理的な観点から、能力を持つ者が持たない者への義務として捉える方がより正確だろう。また東乎瑠の王や犬の王には、何かをしたから王になるというのではない。逆に、ヴァンと逸話の鹿は最初から「鹿の王」ではない。彼らは自分が持つ者としての自覚を得て、そしてその責任を果たしたときに、王となったのである。

 以上からヴァンが体現した王の姿は人種・身分意識を相対化する。彼や鹿の王が示すのは、王は「何であるか」ではなく、「何をしたか」で決まるということだ。それゆえ生まれながらの血筋や人種・身分によってではなく、その人がした行為によってその人の社会的地位や価値が決まる在り方をその身をもって表現している。

 

まとめ

 以上から、ミッツァルにより差別が助長された世界で、2人の人物が差別を相対化する思想を体現して生きる姿を見てきた。それはホッサルが体現する医学の精神が人間身体の平等性を根拠に人間の平等性を剥き出しにしたことであり、、ヴァンが見せる犬の王の選ばれた力を大切なもののために使用するノブリス・オブリージュの精神だった。

本作のミッツァルが、私には現在世界で蔓延するコロナと重なって見えた。本作の世界よりも、マスクという物理的分断や罹患する者としない者の精神的な分断という面で、強固な分断が現代の世界を覆っている。2人の生き方を参照し、現在の私たちの状況で思考し、行動する手掛かりになるのではないか。