【アニメ考察】サマーゴーストが教えてくれたこと―『サマーゴースト』 

©サマーゴースト

 

 数々のイラストや映像作品で活躍してきたloundraw初監督作品。ネットで出会った3人とサマーゴーストによる、ひと夏の思い出を見ていきたい。

 


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●スタッフ
原案・監督:loundraw/脚本:足立寛高(乙一)/キャラクター原案:loundraw/音楽:小瀬村晶・当真伊都子・Guiano・HIDEYA KOJIMA

企画:FLAGSHIP LINE/アニメーション制作:FLAT STUDIO/製作・配給:エイベックス・ピクチャーズ

●キャラクター&キャスト
杉崎友也:小林千晃/春川あおい:島袋美由利/小林涼:島﨑信長/佐藤絢音:川栄李奈

公式サイト:「サマーゴースト」公式サイト (summerghost.jp)
公式Twitter映画「サマーゴースト」公式 (@summerghost_PR) / Twitter

 

 

※この考察はネタバレを含みます。

 

 

あらすじ

 3人はネットでサマーゴーストのうわさを元に集まった年も住む場所も異なる若者たちだ。忘れ去られた離着陸場で花火をすることで、サマーゴーストは見えるとうわさされている。その素性は自殺した女性だとかなんとか。彼らが離着陸場で花火をしたとき、彼女が姿を現す。彼が語るには、死に触れたがっている人間しか自分は見ることができないらしい。彼らとサマーゴーストの物語がここに幕を開ける。

 

テーマ

 冒頭から印象的なシーンで物語が始まる。真っ暗な背景に花火の瞬きが輝く。花火の着火部が強く輝き、中心から火花を飛び散らせてながら、画面周縁へ消えていく。画面いっぱいに花火が映し出され、いやでも花火に注視させられ、真っ暗な背景の記憶が意識に残留し、火花の光が意識の暗闇すら照らし出す。

 本文で記述したいことのエッセンスが冒頭数秒のシーンから見ることができる。本作では光と闇という映像上の要素とサマーゴーストをきっかけとして巻き起こる人間ドラマに含まれる生と死の要素が重ね合わせられる。上記した「光と闇」「生と死」はどちらも双方が他方を引き立てる役割をこなす。以下のよう標語のように言われる。闇が深ければ、光の輝きが増す。死があるからこそ、生に意味がある。生が充実すれば、死が恐ろしくなる。

 本来、上の2組の対立要素はどちらか一方のみを重要とするのではなく、両者が相関関係を構築しているから、両者に目を向ける必要がある。本作で試みているのは、この2組の概念が単なる対立概念というだけではなく、相互に浸透し合う形での相補関係であることだ。この点について、光と闇の要素、そして生と死の要素に分けて、本作を観ていきたい。

 

光と影の饗宴

 光とは日常生活の中ではただそこにあるものだが、映像作品の中では光にスポットライトが当てられたり、あるいは光そのものを創出されたりと、光には特別な地位が与えられる場合がある。本作でも映像の中に光の描写が積極的に組み込まれ、また、ただそこに存在している光を想起させる工夫がなされていた。

 最も分かりやすい光の描写は花火のシーンだ。闇が広がる中で、カラフルな火花が散る様は光の美そのものであるし、3人の様子をほのかに照らす花火の光にも美を感じる。光源そのものの美と光源から放たれる光線にある美は、映像作品においてよく描かれることがある。前者は星の輝きで、後者は太陽光など。厳密に言えば、光源そのものの美と感じているものも光源から伸びる光線を人が知覚することによって、美を感じるため、光源とその光線は同一ともいえる。ここで分けたのは、物理的な身分が同一であったとしても、人間の判断や作品内の解釈においては、主体がどのように解釈したか、あるいはそこにどのような意味を見出せるか、と言うことが重要となるためである。

 ところで光と対照的な位置に置かれているのが、闇である。その観点は光と闇という光量の差異と闇には光源と光線の区別がないところが挙げられる。光量については、光と闇の定義的な性質から導き出されるが、闇にグラデーションがないのは私たちの認識に依存している。前述した花火のシーンでは夕暮れの舞台から闇の要素を引き出しつつ、花火を差し込むことで光と闇の対照を上手く現出させている。

 また上記以外に、彼らが集まるカフェの窓から差し込む斜光が印象的に取り入れられていたり、カメラのレンズに光が反射して生じるフレア・ゴーストを入れ込む演出が特に目立っていた。前者は普段から見えている窓からの斜光を対象的に描いている。後者のレンズフレア・ゴーストは光に対するレンズ効果を媒介することによって、観客の意識を光に向けさせる。意識を向けさせるのは、画面上に光が明確に描かれていなくても、レンズフレア・ゴーストが生ずるからには、その原因たる光が存在すると推論を立てられるからだ。とはいっても、このような推論を経なくても、光によるレンズ効果を美しいと観客が感じるだけで、そのこと自体で観客は光を感じていると言える。

 以上で挙げたのは、光そのものを描く、光と闇の対照が際立つ演出を用いる、レンズ効果を用いて光を意識させる、といった工夫である。その他にも、ガラスや床へ写り込む反射や白黒の色彩を利用することによって明暗を強調する、燃えるような夕暮れが背景の描かれ方など工夫が数々見られた。

 

生と死の饗宴

死への近接事情

 本作の主軸はサマーゴーストと呼ばれる幽霊に会い、正体を突き止めようとするところから始まる。忘れ去られた離着陸場で花火をする儀式を行い、彼らはサマーゴーストの絢音と出会う。彼女を目にするためには、死に近接している必要があることが絢音の口から明らかにされる。序盤の段階で、3人が日々生活しながらも、それぞれが死と距離の近い人間だということが分かる。

 涼は病気を患っており、来年までの春までの余命しかなく、死を消極的に受容している存在である。あおいは学校でいじめを受けており、その辛さから死を望む者である。友也は彼自身の意志を隠して、優等生な彼を演じている。自分の望む生を生きられないために、死に逃避するである。

 それぞれに理由があり、絢音を視認することができた。当の絢音自身も特異な存在である。生きている彼らに対して彼女は死に続けている存在である。彼女は交通事故で身体の活動を停止したが、心残りから成仏できずにサマーゴーストとして世界に存在している。心残りとはひき逃げの被害に遭った彼女の身体は加害者によって、隠匿されてしまい、彼女の母がいまだに行方不明状態の彼女を待ち続けていることである。

 彼女の特異性は幽霊であることにある。幽霊であることから抽出したいのは、死んでいること、そして光であることだ。幽霊は通常見えないし、何かに触ることはできない。幽霊がどのような構成要素によって組成されているかは分からないが、本作上目に見えるが、ものには触れられない存在であることが分かる。目に見えるが触れることができないもの、それは光である。彼女は光である。この点については、後述する。(5章参照)

 

死生観

 登場人物ごとの死への近接事情を概観したところで、登場人物ごとの死生観を読み取っていきたい。まず涼は、死は断絶であり、生こそ望むものと感じている。彼自身病気が発覚してから、仕方ないという思いで病気を受け入れているが、なぜ自分が死ななければならないのか=生き続けることができないのか、その不条理に怒りを燃やしてはいる。それゆえ彼の現在の生は死を待つだけの時間という捉え方をしている。彼は友也・あおいとの出会い、サマーゴーストとの不思議な体験から死までの時間を必死に生きようと心変わりをする。

 次に、あおいは生を辛いだけの体験であり、その辛さからの解放が死と考えている。いじめの原因が何か分からないし、どんなに努力したところで辛い現実は変わらない。彼女に残った最後の手段は自殺すること。死によって、この辛さから逃げ出すことしかないと思っている。彼女にとって生とは解消不可能な苦痛に身体的にも精神的に侵される時間であり、それを唯一解消してくれるのが全てを無に帰する死である。物語が進み、サマーゴーストとの経験を経て、現実が悪意と苦悩だけではないと知ることで、生に希望を持つ。

 友也の死生観は2人よりも少し複雑な様相をしている。複雑ではあるが、現実世界で誰もが持ちうるありふれたものではないかと思う。彼は親・先生からの期待に応えるために、絵を描きたいという自分の本心を裏切りながら生きている。彼は人から期待される生を生きながらも、本来的な意味において死に続けている。ただ現在のように死に続けながら、生き続けることは彼にとって辛い経験であるから、彼は死を望む。死は苦痛からの救済と考えていたあおいに対して、友也は身体的な機能の停止として死を望んではいない。彼が望むのは彼自身の望んだわけではない生の終わり、そこから逃げ出すことである。そのため、彼が彼自身の望む生を生き始めるためのある種儀式的な意味で捉えるのが正確かもしれない。

 最後に、絢音の死生観を見ていく。彼女は交通事故により、生を突然に奪われた。不意に奪われた生にしがみついて彼女は幽霊として存続しているわけではなく、彼女が残してきた自らの身体と行方不明の彼女を案じ続ける母が心残りとなって幽霊化している。彼女が自分の人生に未練を全く抱いていないと断定するのは誤りであるけれども、彼女からは一種の諦念を見出せる。例えば、3人が自分たちの欲望を多く持っているのに対して、彼女が望むのは身体を見つけて、彼女の母親を安心させることだ。詳しくは後述するが(5章参照)、彼女は死んでいるために、自分の持っている可能性を実現することができない。実現できるのは生きている彼らだけだ。欲望を持ったとしてもその可能性を実現する可能性がないために、彼女は諦念の境地に至っている。彼女は身体と身体から帰結する様々な意志による阻害から解放されて、生と死について純粋な認識者となっている。純粋な認識者となった彼女こそ友也へ生の重要性を諭すことになる。

 

「光と闇」、「生と死」の結節点

 以上で、「光と闇」、「生と死」という重要なキーワードについて見てきた。ここではその両対立項がどのように本作の中で絡み合っているのかを見る。1章で述べたのは相補関係であることだった。この相補関係を深堀したい。

 世間の常識を出すまでもなく、生を理解する最も手っ取り早い方法は死について考えることだ。身近な概念である死を考えることによって、生の概念を明晰化できる。明晰化まで行かずとも、ただ通り過ぎるだけの茫漠とした抽象概念ではなく、自分のこととして生を実感することができる。そのことは「光と闇」においても同様である。暗いところでは光が印象的になるし、光量が多ければ、暗い部分の暗さが際立つ。

 このことは一方のことを考える、あるいは見ることによって、他方にも注目させられるという言い方もできる。普段目のいかないところに想起させ、注目させるところは本作の大きな魅力なのではないかと思った。

 「生と死」、「光と死」が普段注目されていないのはなぜなのか。日頃から生死について考える人や生活に存在する日常的な光の光景に美を感じる人はそう多くはないと思う。映像作品に現れて初めて「光って美しい」と感じることや、映像外の現実では虹が架かるなど特殊な状況がなければ気づかないことが多いだろう。このような気づきにくい要因についても両者に共通している。

 このことの要因は、一方が可能性の前提条件であるのに対して、他方がその可能性の欠如であるからだ。生は人間が有する可能性を実現する前提条件となっているのに対して、光は人間がものを視覚する前提条件となっている。それぞれに可能性を実現するために必要となる。

 また逆に、死は存在が有している可能性が欠如した状態であり、また闇は視覚可能性の欠如として現れてくる。私たちが普段注目し、一喜一憂するのは可能性が実現したあるいはしなかった段階であり、私たちが普段見ているのは光が照らしだし伝達する視覚像である。私たちは生や光が当たり前のものであるから、それに意識を向けることはないのだ。

 生と死が描かれることで、その条件である生が可視化されている。また同様に光も可視化されている。観客として眺めている本作自体が視聴可能になっているのは光のおかげである。映像を見ること自体光を見ている体験だが、私たちは実際その光自体に注目しているわけではない。先述したように、本作では様々な演出によって作中の光そのものへ注目が向くように工夫もなされている。

 この点について、2つの対立項を映像内に架橋しているのは、死ひいては生を意識している3人とサマーゴーストの絢音の存在である。3人と絢音が生と死で隔てられているのはもちろんであるし、映像的に上記した光の描写が特徴的なことがある。それだけではなく、絢音の幽霊という性質からも架橋の要素がある。すなわち本作の設定上、幽霊は見えるが触れることのできないものだ。詳細な物理的組成については、劇中で明言されていないため不明だが、おそらく光に近いのではないか。

 彼ら3人は死と生を意識することによって、光の粒子の集合体であるサマーゴーストが視認できるようになる。つまり彼らは死と生を意識することによって、前提条件として当たり前に享受していた生の捉え返しを行う。そのような前提条件に目を向けられた彼らだけが今度は視覚の前提条件たる光=サマーゴーストの絢音を視認できるようになる。

 

サマーゴーストの絢音を中心に本作は以上のようなただ通り過ぎてしまう日常を可視化してくれている。

 本作での幽霊探しは人生の寄り道としか言えない。彼らはその寄り道から大切なことを体験し学んでいる。『サマーゴースト』を含むアニメ作品にも、一面では単なる娯楽として側面もあるが、その裏面にはただの娯楽に留まらない可能性が存在すると思う。現代の忙しない日常の中でも、このような可能性を秘めた寄り道ができたらいいのかなと思った。